【日本ラグビー“世紀の番狂わせ”に学ぶ|前編】長きにわたって育まれたエディー氏との信頼関係

 世界の急激な変化の波とフットボールの世界も無縁ではありえない。先の見えない時代こそ協会やクラブの先見性やリスクを取る勇気が試され、総力戦となるフットボールの世界では、監督のマネジメントは先端企業のリーダーと同じような資質が必要とされる。

 テクノロジーの発展により、ビジネスの世界では求められる資質やスキルが大きく塗り替えられ、教育の分野でも、指導者に求められる役割とスキルは変わらざるをえない。

 例えば、現在ほど人類史上最も「知識」の価値が低下している時代はない、と言われる。「知識」はインターネットを活用すれば容易に得られる(正しいかどうかは別として)。

 フットボールの指導者も同じであろう。かつては「知識」こそが、指導者が選手を率いる源泉だった。情報が乏しい時代は、例えば欧州や南米に留学し具体的なトレーニングメニューといった「知識」を得ることによって、国内との「知識」格差を用いて自らを権威づけ、その結果としてチームをマネジメントすることも可能だった。しかし現在はトレーニング方法だけだったら、それこそYouTubeを見るだけで世界中のトレーニング方法を容易に知ることができる(もちろん方法だけだったら)。それは小学校5年生の少年でも可能なことだ。

 今、必要なのは具体的な「知識」だけでなく、より本質的な問題解決のスキルであろう。それはビジネスの世界であろうと、フットボールの世界であろうと変わらない。ましてや、フットボールの世界に拘泥せずに優れた他のスポーツの成功から、その本質を探るのは当然のことであろう。

 一方、変化の時代には「閉じた世界観」は世界から徹底的に取り残され、他と協業することや、ネットワークやエコシステムを築きそこから成長し、サバイブしていくことが欠かせない。オープンな「知」の在り方が、最終的には自らを生かすことになる。それはシリコンバレーだろうと、フットボールの世界であろうと変わらない。

 ピッチ外のフットボールビジネスにおいてはもちろん、ピッチ上でもそのことは言えるだろう。

名将グアルディオラらも実践、他競技の優れた点から得るヒント

 欧州では特に、他競技の発展からヒントを得ることが多い。それは彼らの「知」の在り方の意識が大きく影響している。

 フットボールにおける前線からのプレスがアイスホッケーのフォアチェックに起因する話は有名だし、2018年のロシアワールドカップ(W杯)で躍進したイングランド代表のセットプレーは、指揮官のギャレス・サウスゲイトがバスケットボールのNBAをヒントに生み出したもの。ジョゼップ・グアルディオラマンチェスター・シティ監督)は元水球のレジェンドをスタッフに加えているし、ユルゲン・クリンスマン(元アメリカ代表監督)もアメリカスポーツの優れた点を吸収していた。

 これらは日常的なトップレベル同士の、競技を越えた交流から生まれる。

 また、それぞれの競技の特殊性に拘泥するのではなく、他競技の優れた点や進んでいる点を抽象化し、フットボールに転用する「知」の在り方にも注目すべきだろう。

 これらのことは、世界のサッカーベンチマークコピーするだけでは、決して彼らには追いつけないことを物語っている。「総合アート」であるフットボールの発展は、人間の「知」の発展の反映であるといっても大袈裟ではない。

 日本のスポーツ界でこの姿勢を最も持っていたのは、2015年のラグビーW杯で「スポーツ史上最大の番狂わせ」を演じた指揮官エディー・ジョーンズ氏だろう。

 彼は日本代表ヘッドコーチ在任中、多くの日本や世界の指導者と交流し、日本人を指導するにあたって常にヒントを得ようとしていた。サッカーでは元日本代表監督の岡田武史氏、野球では読売ジャイアンツ原辰徳監督、その他にもバレーボール前日本女子代表監督の眞鍋政義氏、競泳日本代表の平井伯昌ヘッドコーチといった人物たちだ。

 また彼は読書家でもあって、ビジネスの世界への関心も強い。そして、他の世界の具体的な事象の本質を抽象化して取り出し、ラグビーの世界に活用していく名人でもある。

 2015年の世紀の番狂わせから4年が経過した今、サッカー界がエディー氏から学べることはなんだろか。エディー氏が日本で指揮を執るきっかけを作り、サントリーラグビー部時代、そして日本代表チームのディレクターとして最も近くで彼を支え、日本代表の成功の一翼を担った稲垣純一氏から話を聞くことができた。そこで得られた日本サッカーへのヒントとして、次の3項目を取りあげてみたい。

[1]世界と日本を知る指導者と長い関係をキープする
[2]監督を越えていく選手とスタッフを育てる
[3]「ジャパンウェイ」の具体性

グラウンド上で日本語でコミュニケーションを取り、選手との関係を改善

[1]世界と日本を知る指導者と長い関係をキープする

 稲垣氏とエディー氏の出会いは、1997年サントリーラグビー部ヘッドコーチ就任に遡る。後から考えると、2015年の大番狂わせの序章はここで幕が開くが、稲垣氏は「最初はやはり選手とのコミュニケーションに問題がありました」と振り返る。これは外国人指導者を招聘した時、どのスポーツでもぶち当たる壁である。

「エディーもまだ若かったので、彼自身もフラストレーションを溜めていました。でも彼が凄かったのはここから。グラウンド上で、よほど込み入った話でなければ、英語を一切使わずに日本語でコミュニケーションを取り始めたのです」

 ちなみにエディー氏の妻は日本人であり、多少日本語の素地があったことも幸いした。

「それは自分から選手の目線に降りていくことができるということであり、そこから選手との関係も改善されていきました」

 そして1998年に転機が訪れる。

「エディーは1997年からサントリーに入り、最初はフルタイムコーチの契約だったんですけど、本人が1998年からスーパーラグビー(国際リーグ戦)のブランビーズオーストラリアのクラブチーム)のヘッドコーチの候補に挙がっていました。どうするか本人も悩んでいたんですけど、僕としてはそっちに行ってくれ、その代わりサントリーとの関係は切らないでほしいということでテクニカル・アドバイザー契約となりました。年に何日間は必ずサントリーで指導をしますという契約。途中にエディーもサントリーのヘッドコーチもやりました。日本代表の時は、さすがにアドバイザーはできなかったですが、今もイングランド代表のヘッドコーチでありながら、サントリーとのアドバイザー契約は継続しています」

 エディー氏も、最初から名コーチだったわけではない。彼の指導者としての資質に目をつけ、良い関係を築きつつ、かつ日本での仕事に拘泥せずに、長期間にわたって彼の世界の舞台における指導者としての成長を見守る。そして適切なタイミングで、また日本で仕事をしてもらう。

 サッカーで例えるなら、元名古屋グランパスエイト(当時)の指揮官でありアーセナル前監督のアーセン・ベンゲル氏が日本代表の監督に就任し、W杯で日本を好成績に導くといったイメージであろうか。

「(エディー氏は)決してすべてハッピーなチームにいたわけではなくて、スタッフと合わなくて解任されたこともあります。最初にブランビーズで上手くいって、スーパーラグビーチャンピオンになって、いきなりワラビーズ(ラグビーオーストラリア代表の愛称)のヘッドコーチになりました。しかも、その時はオーストラリア自国開催のW杯の時でした。ホスト国のヘッドコーチということで、彼は非常に耐えていた部分があったと思います。

(ボブ・)ドゥワイヤーというオーストラリアでは神様のようなコーチがいるんですが、彼がエディーのことをすごく買っていて、『次はエディーにやらせるしかない』と言っていたんですが、あらゆる人が反対していたんです。なぜかというと、エディーがキャップホルダーではなかったから。エディーは(選手として)代表経験がなかった。そういう古いしきたりも世界にはありました。メディアもそのことで彼を叩いていた。たかだか一回、スーパーラグビーで優勝させただけじゃないか、と」

 育成年代の選手の資質を見抜くのは、とても難しい領域だが、同様にしてそれまでの実績とは関係なく、将来への可能性で指導者の資質を見抜くのもさらに難しい。

「でも、僕とドゥワイヤーは彼のコーチングスキルに対して、ものすごく高い評価をしていた。(ワラビーズが)世界で勝つためには、オールブラックスラグビーニュージーランド代表の愛称)に勝つためにはエディーしかいない、と。その後、最初はなかなか勝てなくてやっぱり批判もあったんですけど、それがガラッと変わったのが2003年。W杯準決勝でオールブラックスを破った時でした。あの時はすごい試合で、(2015年の日本と同じように)番狂わせですよ。南半球の大会、トライネーションズというんですけど、それまで3年間オーストラリアオールブラックスに一度も勝ってなかった。当然W杯ではオールブラックスが優勝候補ナンバー1だったけど、準決勝で見事にやっつけた。決勝はイングランドと歴史に残る大死闘で、延長線の最後に(イングランドの)ジョニーウィルキンソンが利き足の逆でドロップゴールを入れて試合が終わったというラグビー史に残る劇的な試合をやって、エディーの地位が高められました」

指揮官のキャリアだけでなく「失敗の質」も重視

 ドゥワイヤー氏と稲垣氏の慧眼には驚かされる。しかし、話はこれでとどまらない。

「面白いのは、彼はそのままバーっと登り詰めるのではなくて、そこでまた挫折があったんですよね。ワラビーズはその後の若手への切り替えが上手くいかなくて、結局途中でエディーはクビになってしまう。非常に寂しい思いをして、落ち込んでいた。それから、当時はオーストラリアでお荷物チームとされていたレッズというチームのヘッドコーチになったけど、そこでもやっぱり全然勝てなかった。

 その後イングランドへ行って、サラセンズという名門チームのヘッドコーチになるはずだったんだけども、当事のオーナーが別の人間を連れてきてしまって、エディーはラグビー・オブ・ダイレクターというGMのような役目について、現場のことはやらなくていいと言われて、すごく落ち込んでいましたね」

 シリコンバレーのベンチャーキャピタルが、新進のベンチャー企業に投資を考える時、もちろんビジネスのアイデアは重要だが、それに加えて彼らがどんな失敗をしてきたかを重視するという。成功し、成長し続けられる企業であるか、その「失敗の質」とも言うべきものを重視し、それを克服可能なものかを見るという。

 稲垣氏のベンチャーキャピタリストに比肩すべき、その洞察力には敬服させられる。

「だけど、そんな時でも僕らサントリーとの関係は全く変わらなかった。エディーが良い時も悪い時も、関係は変わらずに続けてきた。これは彼にとっても支えになっていたようですね。僕らとしてはエディーに学ぶことが多かった。彼はその後に、南アフリカテクニカル・アドバイザーになって、2007年W杯で優勝しました。そこでまたエディーの評価が上がった時に、サントリーのヘッドコーチになりました。サントリーリーグ2連覇させたのが2011年でした。この時にはもう、2015年(のW杯)はエディー・ジョーンズしかない、と」

 エディー氏の日本代表監督就任までの流れをここまで見てきた。

 世界に伍していくには、世界で戦える日本人指導者をどのように作っていくか、という課題と、外国人監督の世界での強烈な経験を日本にどう取り込んでいくか、という両方のアプローチが必要だろう。

 後者のアプローチについて、日本サッカーに与えるヒントは大きくないだろうか。

 繰り返しになるが、(1)早い段階で指導者としての資質に目をつけ、(2)良い信頼関係を築き、(3)日本での仕事に拘泥せずに、長期にわたって指導者としての成長を見守り、(4)適切なタイミングで日本で仕事をしてもらう。

 もちろん、より苛烈で経済的規模の大きいフットボールの世界で、同様なことをするにはさらなる困難が伴う。しかし、その本質には多くのヒントが隠されているように思う。

〈後編へ続く〉(Football ZONE web 編集部 / Sports Business Team)

ラグビー元日本代表ヘッドコーチのエディー・ジョーンズ氏【写真:Getty Images】