(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

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 時代は「平成」から「令和」へと変わり、先々週の土曜日から始まった長い「10連休」もようやく終わった。皆さんは連休をどう過ごされたことだろうか。本日(5月7日)から仕事が始まるという方も、少なくないことだろう。

「平成」最後の月となった先月末のことだが、編訳者として『超訳 自省録 よりよく生きる』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を出版した。第16代ローマ皇帝でかつストア派最後の哲学者とされるマルクス・アウレリウス(紀元121~180年)の『自省録』を、現代人のための自己啓発書として、内容を精選して、内容別に配列し直して再構成したものだ。

『自省録』には、こんな文章があるので紹介しておこう。連休明けにはふさわしい内容かもしれない。

夜が明けても起きるのがつらいとき、自分にこう言い聞かせてみよう。「私は、人としてのつとめを果たさなくてはならない。そのために生まれてきたというのに、なんで不平不満を口にすることができるというのだろう? それとも、まだ寝間着を着たまま毛布にくるまって、まどろんでいたいというのだろうか?」(以下略

 

 早起きを習慣にしたい人は、ぜひ繰り返し読んで、自問自答してみることをお薦めしたい。さっそく明日の朝には想起してほしい文章だ。私もときどき「人としてのつとめを果たさなくてはならない」と、自分に言い聞かせてベッドから出ることにしている。

毎朝5時に起床していた女王クリスティナ

 マルクス・アウレリウスの『自省録』の愛読者は多い。そのなかでも著名な人といえば、17世紀スウェーデンの女王クリスティナと18世紀プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ大王、20世紀のネルソン・マンデラ南アフリカ大統領と、21世紀のトランプ政権の国防長官だったマティス米海兵隊退役大将をあげることができる。

「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスを「偉大な手本」として生きたのが、スウェーデンの女王クリスティナ(1626~1689年)である。といっても、クリスティナ女王について知っている人はあまりいないのではないだろうか。今回は、そんなクリスティナ女王と彼女が生きた激動の時代について、取り上げてみたいと思う。

 いまから85年も前のことになるが、クリスティナ女王については、『クリスチナ女王』(1933年)というタイトルでハリウッドで映画化されている(冒頭の写真)。「男装の麗人」クリスティナ女王を演じたのは、おなじくスウェーデン出身の大女優グレタガルボ。だが、それ以降ハリウッドではリメイクはされていない。男役が魅力の宝塚の舞台にはもってこいだと思うのだが、現在のところ、それもない。もちろん、映画はエンターテインメントであるので、大幅に史実を脚色していることは言うまでもない。

 そんなクリスティナ女王だが、暖房のない部屋で寝起きし、朝5時には起床していたようだ。まさにストイックな生活習慣である。現在のようにエアコンの完備していた時代ではない。暖房のない冬のスウェーデンの朝5時というのは、現代に生きる日本人にはちょっと想像しにくいが、ストア派哲学を実践していたことの現れというべきなのだろう。ストイック(stoic)の文字通りの意味は、ストア派(Stoa)の形容詞形である。

 クリスティナ女王は、23歳のときにフランスの哲学者デカルト(1596~1650年)をスウェーデンに招致したことで知られている。乗馬服を好んでいた「男装の麗人」としてだけでなく、学問好きとしても知られていた。ラテン語ギリシア語も習得し、若くして諸学問に通じていただけでなく、成人になって親政を始めてからも、哲学の研究を続けていたという。

 哲学者で哲学史家でもあったエルンスト・カッシーラーの著書『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ-17世紀の英雄的精神と至高善の探求』(工作舎、2000)には以下のような記述がある。

 クリスティナが特に愛着をおぼえ、尊敬もしていたのはマルクス・アウレリウスであった。この「帝位にあるストア主義者」は、彼女が自分のために、かつ自分から求めてものをすべて体現していた偉大な手本であったからである。(・・中略・・) 万巻の書物のうちで彼女がとりわけ好んだのは、新約聖書マルクス・アウレリウスそしてエピクテートスであり、これらの書物から毎日精神の糧を得ていたようである。

 

 上記の引用文には、「新約聖書マルクス・アウレリウスそしてエピクテートス」が愛読書であった、とある。これらはいずれも、ギリシア語で読んでいたのであろう。

 古代ローマ世界で奴隷として生まれ、のちには解放奴隷としてローマ市民となったギリシア人のストア派哲学者エピクテートスは、その言行録をつうじてローマ皇帝であったマルクス・アウレリウスに大きな影響を与えている。

 奴隷と皇帝では、いっけん真逆の関係に見えるが、「外的な自由」がないという点は本質的におなじである。だからこそ、マルクス・アウレリウスは、「内面の自由」を重んじるストア派哲学に魅了されたのであった。クリスティナ女王もまたおなじ気持ちだったのであろう。

 話をデカルトに戻すが、クリスティナ女王からの文字通り「三顧の礼」による招致を最終的に承諾したデカルトは、1650年10月に現地に到着している。レクチャーは翌年1月から始まったが、政務で超多忙な女王は、なんと朝5時から(!)レクチャーするよう依頼したのであった。幼くして死別した母から空咳と青白い顔色を受け継いでいた、朝寝好きのデカルトには過酷な条件であったようで、真冬のスウェーデンで風邪をこじらせたデカルトは、翌月には肺炎のため死亡している。

 クリスティナ女王は、デカルトオランダで出版したばかりの最後の著書『情念論』のレクチャーを受けたという。ストア派哲学を信奉する女王にとって、越えなければならない壁が、「情念」に関するものであったらしい。「情念」を否定することなく、それを意志の力によってコントロールすることを説いたデカルトの哲学を真に欲していたのだという。それによって、女王はストア派哲学の限界を越えることが可能となった。

「西欧近代」促進の原動力となった新ストア主義

 話を少し前の16世紀に戻しておこう。マルクス・アウレリウスの『自省録』が本格的に注目を浴びるようになったのは、前回のコラム(「『書く』ことでリーダーの辛さを克服したローマ皇帝」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56164)でも触れたが、はじめて活字化された16世紀半ば以降のことだ。マルクス・アウレリウスに限らず、古代ローマ世界に生きたセネカやエピクテートスなどのストア派哲学が復権するのも、この時期のことである。

 16世紀前半には西欧のキリスト教世界では「宗教改革」が始まり、キリスト教徒どうしが血で血を洗う「宗教戦争」の嵐が吹き荒れていた。略奪と殺戮が当たり前のように行われた激動の時代である。フランスで起こったサンバルテルミの虐殺(1572年)は、日本の「戦国時代」の織田信長と同時代にあたる。激動期に入った21世紀に生きる現代日本人は、戦国時代とパラレルの関係にあった西欧の激動期のことも視野に入れておくべきだろう。

 そんな激動期の西欧で誕生したのが「新ストア主義」だ。その実質的な創始者は、16世紀後半に生きたフランドル出身の人文学者ユストゥス・リプシウス(1547~1606年)である。古典文献学者として、タキトゥスの歴史書に描かれた古代ローマ世界、そしてその時代に生きたセネカのストア派哲学に着目し、激動の時代を生き抜くための「実践哲学」を作り上げている。

「新ストア主義」は、ごく乱暴に要約してしまえば、古代のストア派哲学とキリスト教との合体である。その根本思想は、キリスト教徒として神には絶対的に服従するが、「理性」によって「情念」に屈することなく身を保つということにある。自己規律(=セルフコントロール)による、信仰と理性の両立といってもいいだろう。

 リプシウスの主著『恒心論』(1584年)は、当時のベストセラーとなっている。ラテン語で書かれた原書は、出版後まもなくオランダ語フランス語に翻訳され、その後も英語、ドイツ語スペイン語イタリア語ポーランド語に翻訳され、18世紀まで広く普及していた。バロック時代の基本精神となっていたのである。リプシウスを囲むサークルの重要メンバーの一人が、バロック絵画を代表するルーベンスであった。

「恒心」は「不動心」と言い換えてもいい。ストア派哲学の基本概念である。自己規律(=セルフコントロール)によって、何ごとにも動じない精神を作り上げることにある。現代風にいえば、「強いメンタル」ということになるだろう。

 ただし、古代のストア派哲学との違いは、規律の対象が個人にとどまらず、社会全体に拡張したことにある。バロック時代の基本精神となったこの思想が、初期近代(=近世)において、「絶対王政」のもとでの常備軍制度や警察制度の確立を推進し、「西欧近代」を促進する原動力となった暴力装置の合法的かつ一元的コントロールが近代の「主権国家」の基本にあることは、前々回のコラム(「揺らぐ民主主義、今こそ読み直したい政治学の古典」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56003)で見たとおりだが、その始まりはそこにあったのだ。

新ストア主義を生んだリプシウス、波乱万丈の人生

 新ストア主義の生みの親であるリプシウスが生きた時代がいかに激動の時代だったかについては、彼の生涯そのものが示している。『新ストア主義の国家哲学-ユストゥス・リプシウスと初期近代ヨーロッパ』(山内進、千倉書房、1985)に従って、リプシウスの生涯を簡単にたどっておこう。

 基本的に人文学者として大学人としての生涯を全うしたリプシウスだが、時代に翻弄されたその人生は波瀾万丈である。1547年にカトリック教徒として生まれたリプシウスは、1606年にカトリック教徒として最期を迎えているが、生涯に何度も改宗を繰り返している。イェーナ大学で職を得るためにプロテスタトのルター派へ改宗、その後はオランダのレイデン大学に移ってカルヴァン派に改宗、そしてふたたびカトリックに戻った。このため、環境に合わせて色を変える「カメレオン」だと、同時代人から批判されていたらしい。

 スペインハプスブルク支配からの「独立戦争」を戦っていたのが、当時のオランダである。「鎖国」時代の日本と貿易を行っていたオランダは、本国では独立戦争の最中にあった。リプシウス自身は、戦乱から逃れるために、各地を転々と移動することを余儀なくされていたのである。

 リプシウスの生き方は、節操がないといえばその通りではあるが、生き延びるためには仕方がなかったということもできる。思想や信仰のために平気で人が殺される時代であり、知識人にとっても、生きること自体が困難だったのである。

ドイツを荒廃させた「三十年戦争」(1618~1648年)

 だが、西欧全体を巻き込んだ激動の時代が始まったのは、「新ストア主義」の創始者リプシウスの死後のことである。その時点では、まだオランダスペインからの独立は達成されていない。

 神聖ローマ帝国(現在のドイツオーストリアにほぼ該当)が戦乱に巻き込まれた「三十年戦争」が1618年に始まり、1648年まで30年間にわたって続くことになる。スウェーデン王国フランス王国といった周辺大国が武力介入したこの戦争によって、神聖ローマ帝国を構成するドイツの大小さまざまの王国や公国は徹底的に破壊されて荒廃し、人口は3分の1に激減した(ただし、現在の研究では、そこまでの激減ではなかったという説も有力)。

 21世紀の現在でいえば、2001年のアルカーイダによる「9・11」から始まった米国によるイラク戦争アフガニスタン戦争、そしてイラク戦争がきっかけで始まった「ダーイシュ」(=いわゆる自称「イスラーム国」)によるイラクシリアの破壊と略奪、無差別な殺戮に匹敵するものだといっていい。そんな断続的だが終わりなき戦争状態が、17世紀の前半には、30年にわたってドイツを中心に続いていたのである。

三十年戦争」が破壊的なものとなった背景には、中世社会が崩壊して転換期に入ったルネサンス期以降、「騎士」が没落し、「傭兵」が存分に活躍する状況が生まれこともある。「民間軍事会社」の存在が巨大化しつつある21世紀の現在と似た状況にあるといっていいかもしれない。

 傭兵が忠誠の対象とするのは、ヒトではなく、あくまでもカネだ。雇用主のカネ払いが悪いと、傭兵はいとも簡単に略奪集団に変貌する。「三十年戦争」では、そんな傭兵集団が各地で暴れに暴れまくり、略奪につぐ略奪、殺戮につぐ殺戮をやりまくった。戦争が長引いた原因もそこにある。この状況は、「三十年戦争」のただ中を生きたドイツ人のグリンメルスハウゼンによる長編ピカレスクロマン『阿呆物語』(1668年)に活写されている。

 同じく同時代のロレーヌ公国に生きたジャック・カロによる銅版画は、日本でも比較的よく知られているかもしれない。『戦争の惨禍』と題されたシリーズで、傭兵たちによる略奪と放火、見せしめの死刑、戦争によって不具となった兵士など、その当時の戦争が記録されている。

三十年戦争」は、長期にわたって断続的に続いた戦争であり、きわめて多数のプレイヤーが参戦し、複雑な展開を示している。そのため、すべての局面にわたって記述することは簡単ではないが、軍事面でとくに戦争の動向に決定的な影響を与えたのは、北欧のプロテスタント国であったスウェーデン王国の存在であり、その国王グスタフ2世アドルフであった。

 スウェーデン軍は、「ブライテンフェルト会戦」(1631年)で神聖ローマ帝国軍に大勝し、1618年から始まった「三十年戦争」で、プロテスタント側の初勝利をもたらしている。

 大勝利の背景にあったのは、スウェーデンが取り組んでいた「軍政改革」がある。「規律なき傭兵」ではなく、「規律ある正規軍」主体の軍隊が圧倒的な勝利をもたらしたのである。スウェーデンの「軍制改革」はオランダに倣ったものであり、「オランダ軍政改革」の思想的背景は、先に見たように社会的規律を重視した「新ストア主義」にあった。

クリスティナ女王のウェストファリア条約締結への貢献

 スウェーデン軍は、その後も「リュッツェン会戦」(1632年)で勝利を収めるが、スウェーデン軍を率いてきた国王グスタフアドルフは、その会戦で壮絶な戦死を遂げる。王位を継いだのは、当時6歳の長女クリスティナであった。

 父王の戦死によって6歳で即位したクリスティナ女王は、最初は宰相の補佐を受けていたが、18歳以降はみずから親政を行うようになる。

 クリスティナ女王が、哲学者プラトンが説いた「哲人王」を理想とし、「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスを「偉大な手本」としていたことはすでに見たとおりだが、三十年戦争」を終結させた「ウェストファリア条約」締結に(1648年)に大きな役割を果たしたことを強調しておく必要があるだろう。

 神聖ローマ帝国に対抗する観点から、現実主義の立場からカトリック国のフランス王国と同盟を組んでいたのが、ルター派のプロテスタント国のスウェーデン王国であった。父王のグスタフアドルフによる快進撃によって一時期はウィーンまで迫ったこともある「戦勝国」スウェーデンは、当初は膨大な要求を「敗戦国」側に突きつけていた。

 だが、クリスティナ女王は、国内の大反対を押し切って大幅な譲歩を行い、長期化し迷走していた講和条約交渉を締結に導いている。ストア派哲学に支えられた強固な意志によって理想を貫き、キリスト教徒どうしが血で血を洗う「宗教戦争」を終結させることに成功したのである。「戦勝国」スウェーデンが大幅に譲歩したことで、欧州全土から66カ国が参加した「ウェストファリア条約」の締結が可能となったのであり、きわめて大きな貢献であったといってよい。

 この姿勢は、20世紀のネルソン・マンデラに通じるものがあるといえよう。南アフリカで人種差別のアパルトヘイトと戦い投獄されたマンデラ氏は、獄中に差し入れられたマルクス・アウレリウスの『自省録』を繰り返し熟読したという。27年間にも及んだ獄中生活から解放後に南アフリカ大統領に選出された際には、怒りではなく和解こそが重要だと理解したうえで、「国家内」で人種間の壁を越えた国民和解に努めている。

 クリスティナ女王の場合は、戦争の原因となった「宗派」の違いを超え、「国家間」の和解に努める姿勢を貫いたのである。その結果、「三十年戦争」は「最後の宗教戦争」となった。

「ウェストファリア条約」は、「主権国家」の上位にいかなる宗教的権威も認めず、条約を締結した「主権国家」どうしがお互いの領土を尊重し、内政への干渉を控えることを定めた。ここから、現在にもつながる国際秩序の「ウェストファリア体制」が出発することになったのである。

 とはいえ、いくら「哲人王」を理想としても、「理想」と「現実」の両立は困難なものがあることは否定できない。「哲人」と「王」の両立は希有なことなのである。クリスティナ女王もまた、両立には困難を感じていたようだ。欧州におけるスウェーデン王国の大国の地位を安定させることに成功したものの、クリスティナ女王は20歳のときにすでに退位を決意し7年計画で準備、28歳で王位を従兄弟に譲った上で退位している。この点にかんしても、きわめて強い意志を貫いたのであった。

 退位後はスウェーデンを離れてルター派のプロテスタントからカトリックに改宗してひとびとを驚かせている。独身のまま62歳で没するまでの長い余生を、ローマ教皇のいるバチカンで過ごしている。

 スウェーデン女王から退位後のクリスティナは、生涯にわたって「女王」の称号を維持し、「情念」を全面開放した自由奔放な人生を満喫した。前半生とは打って変わった変身ぶりには驚かされるが、批判をものともしない姿勢に、ストア派哲学で培われた意志のチカラを見ることは不可能ではない。

 クリスティナ女王に最終的に退位に踏み切らせたのが、デカルトの『情念論』であったというのが、哲学史家の下村寅太郎氏が、『スウェーデンの女王クリスチナ-バロック精神の一肖像』(中公文庫、1991)で述べている見解である。

「近代哲学」と「合理主義」の祖として自らの道を切り開いたデカルトもまた、「三十年戦争」の激動期のまっただ中を生き抜いた人であった。若き日の遍歴時代に軍隊に入っているデカルトは、最初はプロテスタント側のオランダのナッサウ伯マウリッツの、次にはカトリック勢力のバイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に移っている。その後は、当時の世界では珍しく宗教的寛容が保証されていたオランダで人生の大半を過ごしている。

激動期を生き抜くための実践哲学

「平成」の時代は、日本は戦争に巻き込まれず、日本が戦地となることはなかった。だが、日本国内を一歩でたら一触即発の状態である。いや、サイバー空間まで含めたら、21世紀の日本は「常在戦場」というべきだろう。

 そんな激動期を生きる日本人にとって、混迷する状況のなか自分を律するための実践哲学であるストア派哲学、とくにマルクス・アウレリウスの『自省録』の持つ力は大きい。その姿勢に心酔していた17世紀スウェーデンクリスティナ女王が生きた時代について考える意味もあるといえよう。

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グレタ・ガルボ主演のハリウッド映画『クリスチナ女王』(1933年)のポスター(出所:Wikipedia)