(篠原 信:農業研究者)

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 拙著『自分の頭で考えて動く部下の育て方』が多くの人に読まれるようになってから、「指示待ち人間」の発生は指導する側の対応に問題がある、ということが広く認知されるようになったようだ。それはよかったと思う反面、ひとつの懸念をあるレビューが教えてくれたので、指摘しておきたい。

 それによると、入社したばかりの研修で、指導者がレポートを「おかしい」とだけ指摘し、何も教えてくれなかったという経験をされていた。しかも、その指導者は何度修正・提出しても、毎回「おかしい」と言うだけで何のヒントも与えず、ただダメ出しするだけ。結局、その人は研修期間中にクビになってしまったという。拙著の「教えない教え方」の部分を読んで、そのときのつらい経験がフラッシュバックしてしまったらしい。拙著では「教えなさ過ぎ」を強く戒めているが、そこまで読み進む前に、ショックを受けてしまったようだ。

「教えなさ過ぎ」と「教え過ぎ」の葛藤

「教えなさ過ぎ」では、私も苦い記憶がある。

 風邪から復帰したばかりの授業で「x+2=6」といった式が羅列した小テストが行われた。エックスって何? 私は当惑した。小テストはみんなエックスを含む式ばかり。このままではゼロ点。隣の席の子に「エックスって何?」と尋ねると、「教えちゃだめ!」と担任の怒鳴り声。

 とうとう一問も解けずに終わった。先生は私がズルしようとしたと思っているのか、憤然としたまま。あまりに理不尽な状況に泣き出してしまった。

 休み時間になり、先生が姿を消してから同級生に「エックスって何なの?」と尋ねると、「ほら、括弧とか空欄とかと同じだよ」と言われて、ようやく合点した。なんだ、そのくらいのこと、解答とは関係ないのだし、テスト中でも教えてくれてよかったじゃないか、なにしろこっちは風邪で休んでいて、習っていないんだぞ。

 アラフィフになってもなお、小学生のことを思い出すのだから、よほど理不尽だと感じたのだろう。

 実は学校以外の場所でも、私の親世代は、「教えない」のが標準的な接し方だった。結果を否定し、「どうしたらいいですか?」と尋ねても、「人に聞いて楽をしようとするな、自分で考えろ」と放置プレイ。何度やり直しても「だめだ! やり直し!」とだけ。

 私はこの「教えなさ過ぎ」を強く憎み、きちんと分かりやすく教える指導者になろう、と心に決めた。

 そして、私が指導する立場になったとき、別の困った事態が発生した。私の指導は微に入り細に入り、一から十まで教えるので分かりやすいと評判だったけれど、「指示待ち人間」になってしまうのだ。教えたそのときはできるのに、翌日にはきれいさっぱり忘れている。再度詳しく教えるとできるけれど、翌朝にはまたきれいに忘れている。

 その若者たちは、私よりも記憶力・理解力が優れていた。なのに「指示待ち人間」になってしまう。私の教え方は分かりやすいと評判なのに、ちっともその知識が根付かない。何か私の指導法に問題があるに違いない。

 結論として、「教え過ぎ」が「指示待ち人間」を作る原因だった、ということが分かり、指導法を大きく変更し、「教えない教え方」を実践するようにした。すると、若者たちは一度教えただけで業務のすべてを覚え、しかも自分の頭で考える人間に成長した。

 その方法については拙著で詳しく書いたので繰り返さないが、拙著ではいまひとつ言語化できていなかったことを以下に指摘しておきたい。

「イケア効果」で生まれる愛着と意欲

「教えない教え方」は、何のヒントも与えず、結果をダメ出しするだけの「教えなさ過ぎ」とは明確に異なる。考える材料を十分に提供するからだ。この違いを理解するには、「イケア効果」の話が分かりやすい。

 イケア効果については、最近、分かりやすい論考が紹介されている*1。それによると、次のような興味深いことがあった。

 水と混ぜるだけでホットケーキを焼ける、画期的なホットケーキミックスが開発されたものの、いまひとつ売れ行きが伸びず。そこで、ミックスから卵と牛乳の成分を取り除き、自分で卵と牛乳を混ぜる一手間が必要な商品を売り出したところ、爆発的に人気を博したという。

*1:https://netsanyo.net/blog/1665

 便利な方より面倒な方が売れたのはなぜなのか? キーワードは「自己効力感」にある。

 前者は、水と混ぜるだけなので、お母さんが「子どものために焼いてあげた」、という自己効力感が得られない。しかし、卵と牛乳を加えてかき混ぜるという一手間を加えると、子どものために焼いて上げられた、という自己効力感が得られやすい。誰かのためにやってあげられた、という自己効力感が、「水と混ぜるだけ」では得にくかったのだ。

 これと同じことが、イケアにも言えるという。完成された家具は、お客さんにとっていじる余地のないもの。自己効力感は得られない。これに対しイケアの家具は、自分で組み立て、ネジを締めなければならない。その一手間で、愛着の湧く家具になる。自分が能動的に関わって初めて完成した、という自己効力感が得られるからだ。

「卵と牛乳を混ぜるホットケーキミックス」も、「自分で組み立てる家具」も、自己効力感が得られる絶妙なバランスを保っている。もし、小麦のタネとニワトリと乳牛を渡されて、「これでホットケーキを作れ」と言われても、気が遠くなるだけだろう。丸太と鉄塊を渡されて、「これで家具を作りなさい」と言われても、すぐさまお断りだろう。

 この状態が、「教えなさ過ぎ」と同じなのだ。皆目見当がつかない、途方にくれる状況に置かれて、どうして意欲を維持できるだろう? 途中でくじける可能性がはるかに高い。

 他方、「教え過ぎ」も問題がある。「水に混ぜるだけのホットケーキミックス」や「完成された家具」は、「教え過ぎ」に該当する。「水と混ぜるだけ」では、原材料に想像すら及ばなくなるだろう。「完成された家具」も、値段の割にチャチだなあ、使い勝手が悪いなあ、という文句が出やすくなる。

 しかし、「卵と牛乳を混ぜる必要のあるホットケーキミックス」なら、卵がつなぎになり、牛乳が風味を添えるということも、混ぜる作業の中で感じ取れる。粉がダマにならないように混ぜる中で、「この粉の材料は何だろう?」と不思議に思う時間も得られる。焼きあがったホットケーキは、「自分で作った感」が得られる。

「組み立てなければいけない家具」もそう。自分の手で組み上げることで、材質を肌で感じ取れる。なぜ強度を保てるのか、その秘訣にも迫れる。一手間かけて組み上がった家具は、値段が安い割には愛着の湧く一品となる。

「自分で考える」材料の与え方

 そう。教え方には「イケア効果」が必要だ。

 まだハイハイしかできない赤ん坊に「走れ!」と命じたってできるはずがない。達成するのに必要な能力や環境が整っていないからだ。

 若者を指導する際、大切なのは、その若者の現状を見極め、「次のステップにこれを選べば、おそらくできるだろう」という目利きをすることだ。ハイハイからつかまり立ち、手放しで立って、一歩を歩き出す。歩いて歩いて、その果てにようやく「走る」がある。ステップアップの順番を飛び越すことはできない。

 指導者は、若者の現在の能力水準を見極め、考える材料を十分に与えた上で、最後の「一押し」を自分で考えてもらうことが大切だ。その若者なら、それだけの材料をそろえれば、自分で答えを導き出せるだろう、というだけの材料をそろえた上で。しかし自分の口でそれを提案してくるのを待つ。本人が混乱しているようなら、考える材料をさらに追加し、しかし本人の答えを待つ。

 若者発した言葉が、たとえ期待するものでなくても落胆せず、面白がる。「なるほど、そういう考え方もできるか。面白いね。ただその場合、こういう問題が考えられるね。だとしたら、他にどういうことが考えられるだろう?」と、本人が勇気を出して発言したことを評価しつつ、ヒントを追加して、思考を促す。意見を言ったことに否定的な反応がなければ、若者は意見を述べることを恐れなくなる。発言をこちらが面白がれば、むしろ自分の頭で考えることが楽しくなる。

 大切なことは、自分で考えることの楽しさを、部下に感じてもらうこと。そのためには、「イケア効果」で、考える材料は十二分に与えつつ、本人の力で道筋をつけられそうな部分を残しておくこと。考える材料は与えても、それをどう料理し、自分の意見へと昇華させるかは、本人にやってもらう。それをやり通したとき、自己効力感が得られ、自分で考えることが楽しくなる。

 指導のコツは、若者が自分だけでは発見できない材料はをこちらで提供しつつ、若者の能力で道筋をつけられることは、若者自身に任せる。そして答えが違っていても、自ら解決しようとした勇気をたたえつつ、不足の材料をさらに追加して、再度、考えてもらう。「イケア効果」が指導では大切だ。

「教えない教え方」というフレーズが独り歩きし、「教えなさ過ぎ」を推奨しているかのように受け止められることは、不本意。「教えない教え方」は「教えない」のでは決してない。イケア効果のように、本人の力で達成可能な条件をそろえた上で、最後の一手を当人の手で実践してもらう、というのが「教えない教え方」のコツだ。

「教えなさ過ぎ」でも「教え過ぎ」でもない、「教えない教え方」を多くの人が習得すれば、能力をひとつずつ、着実に伸ばしていける若者が増えるだろう。ぜひ、両極端に流れず、バランスの取れた指導を、指導者は心がけてほしい。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  指示待ち国民はなぜ生まれるのか?

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