新元号「令和」になった初日、天皇の生前退位について歴史的なコンテクストから検討しました。

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 今回は、この話題とこの連載のもう一つのシリーズ、少子高齢化~健康寿命延伸の文脈から、同じ議論を別の角度で切り取ってみたいと思います。

 健康寿命延伸のコラムでは、このまま高齢化が進むと、もし国民の75~80%が現役として働いて納税し、社会経済を回して行こうと思うなら、2040年には84歳まで現役を続けないと、日本社会は成立しなくなってしまう・・・。

 という統計予測の突きつける現実像を記しました。

 皆さん、死ぬまで働き続けねばならない、という現実をどのようにお考えになりますか?

 私たちが学術会議や、東京大学タスクフォースで取り組んでいるのは、小手先のごまかしではなく本質的な解決策です。

 国民の出生時から100年の計を念頭においた「生涯健康寿命延伸」のための科学的なアプローチと、社会経済システムの高齢化に対応した本質的な再検討を両輪として考えています。

 これは「健康寿命」の原稿の方で記したいと思います。

 実は「死ぬまで働かなければならない」存在が、日本国にはもう一つありました。

 その人や家族は、生きている限り仕事し続けなければならないという建前で、基本的人権を持っていない、我が国では数少ないケースになっている。

 天皇、および皇族が、これに当たります。

 「天皇終身制」とは、天皇は死ぬまで働き続けなければならない、という事実を語っています。

 20世紀後半、高度な延命治療が浸透した結果、人はそう簡単に死ねなくなってしまった。

 それが「健康寿命」72~75歳と物理的な寿命82~87歳の間のギャップ、つまり「不健康余命」の問題を、突きつけている。

 世界一の長寿国かつ少子高齢化がもっとも重篤な国である日本で、天皇が率先して自ら職務を退き、まだしっかりした状態で後任者に引き次ぎ、勇退の前後で国事行事への支障がミニマムになるよう振る舞われたことは、幾重にも讃嘆すべき、賢慮の賜物と評価しないわけにはいきません。

 その反例、つまり高度延命治療と「終身制」のはざまでどうにもならなくなったケーススタディとして、昭和天皇の最晩年を振り返ってみましょう。

昭和天皇のケーススタディ

 1987年4月29日、満86歳を迎えた昭和天皇は、お誕生日を祝う午餐会に出席していました。そして、そのランチの最中に嘔吐してしまいます。

 侍医たちは、体調の変化に気づいていました。毎月数百グラムずつ減る体重、誕生日の直前には便に潜血が確認されてもいました。

 天皇には人権がありませんから、ありとあらゆるデータが、本人も知らないまま、すべてチェックされコントロールされている。

 毎日飲むお茶の時間と量などまで決められており、結果は毛筆で記録されて陛下に提出・・・すごい管理です。これだけでも、普通の人ならストレスでどうかなってしまうでしょう(少なくとも私のような神経の人間には、到底無理です)。

 夏7月、那須の御用邸での静養中には、散歩の途中で1リットルを超える嘔吐とともに倒れ、開腹手術で十二指腸の狭窄部を切除。

 宮内庁病院に15日間入院しての手術は成功しますが、その後24時間体制での看護が続き、昭和天皇はそのような体調の中でも国事行事、公務を一貫して継続しました。

 なぜといって、天皇は終身制だから。ガンによる手術を受けても、退位するという選択肢は昭和天皇の念頭にはありませんでした。

 仮に摂政などに相当する存在を置くとしても、自分は生きてあるかぎり天皇であり続けねばならないのは宿命だと、昭和天皇が考えていた決意は、團藤重光教授なども再々耳にしています。

 果たして、その翌年の8月、こんな体調になっても昭和天皇は、全国戦没者追悼式に出席します。しないわけにはゆきません。

 本人も大変だったと思いますが、周りでケアする人たちは、それ以上に神経をすり減らしたに違いありません。

 果たしてこの追悼式を終えたのち、天皇は「大量吐血」、ケアを担当した伊東貞三侍医によると同時に下血もしていたとのことです。

 そのような体調になっても、天皇は天皇であり続けねばなりません。「天皇終身制」が原則と、誰もが思い込んでいましたから・・・。

 昭和63年の秋冬、日々のニュースは天皇の「下血」情報などを報じ続け、大晦日には一度、天皇の呼吸が止まります。

 「昭和64年は来ない」と侍医も看護婦(当時の表記に従います)も覚悟しましたが、元来のバイタルが強かったのでしょう。昭和天皇は息を吹き返し、あと1週間、生き続けました。

 寝たきりで、すでに何かできる状態ではない。意識もない。それでも天皇は天皇だった。なぜなら天皇終身制であるから・・・。

 こういう状況を、間近に、つぶさに、また「いつかくる道」として覚悟をもって見つめ続けていたのが、明仁皇太子であり、夫人の美智子皇太子妃(ともに当時)であったわけです。

 すでに東宮時代から、明仁天皇夫妻の意識の中には、これを繰り返してはいけない、という明確な意識がありました。

 「天皇生前退位」の可能性は、実は平成になる以前、昭和末期から、慎重に入念に、一分の隙もないように検討され、熟慮されてきたものであると、私たち日本人は意識するべきだと思います。

 昭和64年1月7日、関係者は未明に呼び出され、御座所の天皇の床を長男である明仁皇太子、美智子妃、次男である常陸宮夫妻と、当時の内閣総理大臣竹下登氏が囲みました。

 長い夜明け前の時間、息を詰めていたことでしょう。

 午前6時33分、心電図のモニターが平坦になりました。

 この瞬間「天皇終身制」の重荷から、裕仁天皇が解放され、昭和という時代が終わった。

 この時点で、明仁天皇夫妻の胸中には、これを繰り返してはいけない、という決意が固まっていたのは、疑うべき余地もありません。

 そして、この6時33分をもって、明仁皇太子は天皇に「即位」します。

 目の前で父親の死をスタッフ一同とともに直視し、かつその死亡を確認した瞬間に「天皇」となる・・・即位大礼などの儀式がそれを担保するのではなく、皇室典範という法の条文が指定している。

第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。

 とは、こういう現実を意味しているわけです。

 21世紀の観点で、これが人間的な、また賢慮ある状況だと言えるでしょうか?

 その瞬間に「天皇・皇后」となった明仁・美智子夫妻の胸中、脳裏には、同時にありとあらゆる可能性の検討が始まらざるを得なかったはずです。

「退位」から考える高齢化社会

 20世紀後半、1988年時点での技術水準と比較するとき、今日の延命治療は比較にならないほど高度かつ有効なものになっています。

 55歳という、史料に照らして歴代2位という高齢で即位した明仁天皇は2016年7月13日、82歳の時点で「生前退位」の「お気持ち」を発表し、3年後の2019年に浩宮徳仁皇太子へ譲位の意志を明らかにしました。

 この2016年の時点で、皇太子は56歳、つまり明仁天皇の即位時よりも年長になっていました。3年後に即位すれば満59歳、かつての日本人の常識から考えると、数えの「還暦」で即位することになります。

 これは奈良時代の770(神護景雲)4年10月1日、62歳で即位した光仁天皇(709-782)の記録に次ぐ歴代2位の高齢で、第3位に明仁天皇が続くという、まさに超高齢化のラインナップになっている。

 光仁天皇の即位により、元号は宝亀と改められました。

 ちなみに光仁天皇の息子が、平城京を平安京に移した桓武天皇で、この代替わりは天応元(781)年4月3日、病気を理由に「生前退位」で譲られており、光仁天皇は同年12月23日(西暦782年1月11日)に崩御。

 少なくとも昭和→平成の代替わりより、はるかに人間的な天皇の譲位が1200年以上昔の奈良時代には高齢の天皇に対して配慮されていたことが分かります

 「天皇終身制」とは、極めて近代的な政治の産物であることを如実に感じさせるケースと思います。

 最高齢の光仁天皇の後を継いだ桓武天皇(737-806)が即位したのも44歳と、奈良時代当時としては十分に高齢です。

 同時に今回アサインされる秋篠宮文仁親王の54歳での皇嗣着位も、特筆すべき年齢の高さであることに注意しておくべきでしょう。

 浩宮徳仁親王の皇太子着位もまた、父明仁天皇即位と「同時」1989年1月7日午前6時33分ですから、28歳での立太子、まだ常識的な年齢でした。

 超高齢化は、決して国民だけのことではなく、日本国の象徴を巡る状況としても、極めてリアルな問題になっている。

 生物学者で慎重な明仁天皇が、どうして2019年に皇位を譲らねばならないと決意していたか、その傍証の一つを最後に記しておきましょう。

 1933年12月23日生まれの明仁天皇は2019年4月30日、85歳をもって天皇の位を退いておく方が、客観的に考えて、象徴としての公務、国事行事を安全に執り行える可能性、期待値が高い、「evidence-based」の合理的な思考に裏づけられています。

 というのも、父、昭和天皇は86歳の誕生日、午餐の席で、公務の最中に倒れてしまっているのですから・・・。

 魚類学者として合理的な思考を持つ明仁天皇は、それと同じことは繰り返すまい、でも遺伝的に考えれば、リスクは同じようにやって来ても不思議ではない。大事をとるにしかず、と心に決めておられたはずです。

 人に歴史、物事には背景があることを、痛感させられます。

(つづく)

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