スバルの前デザイン部長で現在は、首都大学東京で教鞭をとる難波治教授が、ジュネーブ・モーターショーで世界のカーデザインのトレンドを取材した。その総括が今回のテーマ。教授は、現在の自動車デザインは「西高東低」だという。ここでいう西は、ヨーロッパメーカー、東は日本メーカーだ。今回、特に注目した新型プジョー208ルノークリオ、そしてマツダCX-30をテキストに難波教授が語る。 TEXT & PHOTO◎難波 治(NAMBA Osamu/首都大学東京教授)

3月に開催されたジュネーブ・モーターショー
難波治:首都大学東京トランスポーテーションデザイン教授

 世界各地で行なわれる自動車ショーが少しずつ変わり始め、近年は自動車メーカーが自動車ショーに出展しないという状況が徐々に増えてきています。

 ジュネーブショーはそんなヨーロッパのオートショーのなかでもメーカー出身国の偏りがない、ほぼ同条件でクルマを比較できる見やすいオートショーで、ここだけはどのメーカーも出展を取りやめたりしないと思っていたのですが、今年のショーはボルボヒュンダイ、英国系のブランドなどが出展をしていませんでした。

 その真の理由はわかりませんが、巨額の費用がかかるモーターショーでのブランド訴求の費用対効果や、自らのブランドにとってモーターショー開催国が主要なマーケットであるかなど、経営的な判断の結果なのだと思います。インターネット時代にモーターショーがどうあるべきかを真剣に考える時期にきているのは間違いありません。

 とはいえ、やはりクルマは写真だけでは本当のことはわかりません。とくにデザインは実物を見て、目の前に置いてあるそのクルマを見てみないとわからないことが非常に多い商品です。自動車はカタログ通販で買える商品ではありません(と僕は信じているのです)。また、現物のクルマでさえディーラーの狭い展示スペースではわからない「サイズ感」や「存在感」なども、ショーでは多くのクルマが同じ会場に一堂に会しているからこそ比較も可能で、良くわかります。

 新興メーカーの製品や次世代燃料への対応技術の進化などもモーターショーでないとなかなか触れることができません。ですから僕は毎年わざわざお金をかけてこのジュネーブ・ショーに行くことで、デザインの潮流を感じたり、出展している各社の造形の比較をしてみたり、また「商品」としての各社のクルマ作りを見る良い機会にしています。

 しかしこういう見方はプロデザイナーの専門性の高い評価や観察の仕方です。ですから職業柄それはそれでやってますが、じつのところ僕は、出展し、クルマを並べて披露している自動車メーカーが、顧客にわかりやすい、シンプルだけどしっかりとしたメッセージを出しているかを自然体で見に行っているのです。

 そして場合によっては、こちらの感じ方のほうが僕にとっての重要度は上位にあったりします。いずれにせよ僕は自動車メーカーのインハウスデザイナーが(もしくはデザインを司る部門が)どのようにどんな手法でブランドのメッセージを可視化しようとしているかを感じにいっているのです。

 さて、自動車は商品ですから、そのメーカーが、もっとも得意とし、生き延びていくために主要なマーケットで求められているクルマの立ち位置や、そのマーケットのお客様の嗜好の違いがあるので、同じ土俵で単純に比較することは大変難しいのですが、僕はデザインのテーマ性(前述のメッセージ性)とそれらを確実に表現するためにどれだけ造形に力を注いでいるかという「作りこみ」の度合いとその達成度を見るようにしています。

 また一方で、クルマは走る道具なので外観を構成する造形の構成が、きちんと走るクルマに見えるかどうかも見ています(これ、とっても大事なんですね)。さらには先ほども書きましたが実際にクルマを使用するのはディーラーショールームではないので、クルマを外光のもとに置いたときにどう見えるか、少し離れた距離で見たときに造形やブランドの発信力があるかどうかも見るようにしています。

新型プジョー208
新型プジョー208

 そういう視点から見て、今年のジュネーブショーでもっとも強く印象に残ったのは新型プジョー208でした。理由は、やはりプロポーションスタンスの良さに尽きます。じつは『そこ』ができていないとクルマのデザインは台無しなのです。プジョー208は、そこができています。

 クルマを見るときに僕はまず、全体のプロポーションと、そのクルマのスタンスを観察します。簡単にいえば車体の長さや高さ、幅が創り出す立体としての比率のバランスの特徴や、AピラーとCピラーというようなクルマの造形を構成する大事なデザイン構成要素のなす角度、タイヤとボディの量的な比率、またデザインを構成している要素のそれぞれがバランス良く組まれているか、ボディが4つのタイヤでちゃんと支えられているか、というところを見ます。というより、どうしてもそれが最初に目に入ってしまうのですね。人のスタイルと同じです。これをデザイナー間では建築に例えて「アーキテクチャーがしっかりしている」というような言い方をしたりします。

 さらにはデザインを構成している線や面の辻褄が合っていることや、実際には目には見えないのですけれど、造形を構成している要素が作り出す体幹がしっかり一本通っているかどうかもとても重要です。その上で表面上のデザインテーマ、新しい表現、サーフェイスがしっかりと作り込まれているか、充分に吟味されているかをほぼ一瞬で感じ取るのです。

新型プジョー208

 そういう意味で今回発表されたプジョー208は秀でていました。充実感のある面質も合わせ、とても車格感のあるクルマに仕上がっています。端正でしたがやや地味だった前型に比較して、新型の「新登場感」やそれを演出しているスポーティなデザインバランス、全体の肉付きなど、良くできているのです。

 そして、さらにそれを後押ししているのが内装の充実感です。造形の構成もさることながら、表面を覆う素材、樹脂の仕上げ、メーターや中央のスクリーンのグラフィックデザイン、加飾にかけられている素材の良さ、光るものの表情出し、など内装CMF(Color Material Finishの略。現在の商品はインテリアの色と素材と仕上げが最後の決め手となる)がとてもよく仕上がっています。

 しかも必要なところにはお金がかけられていて、このクラスではないような仕上げのクオリティになっているのです。ドアトリムに仕かけられたLEDの細い飾りライトは色が変化するのですが、さすがにこれは少しやり過ぎか? とも思いました。でも、こういう演出もこのクルマを買いに来て試乗をするお客様にはプレゼントにはなるのかもしれません。

 プジョー208を買いにくるお客様は、まず外観に惹かれ、その後ドアを開けて中に乗り込んでインテリアの出来栄えを見て納得して購入を決める、というシナリオになると思います。外観に「惹かれ」と書きましたが、カーデザインの命はこれに尽きます。お客様が、そのクルマに惹かれたら、それが一番強力だと思います。

 同様な見方で、ルノーの新型クリオも、新型としての鮮度(新登場感)という側面では覇気がやや劣るものの、これらのクルマを購入するユーザー層のいろいろなことを総合的に考慮したなかで、とても良いクルマに仕上がっったと思います。

新型ルノークリオ

 これらのコンパクトカーは本当に生活に密着した、最もユーザーとの結びつきの強いクラスで、お客様にいかに良い商品を届けられるかが求められています。コンパクトカーに限らず、クルマは一度買うと長く使うもので、時間が経っても色褪せないというか、そのクルマの良さをずっと感じながら使っていただくことができるような商品を提供するのがメーカーの役目であり、デザイナーはそれを果たさねばならないといつも考えています。

 また、プジョー208のような場合には、このクラスらしい小気味好い走りを予感させるスタンスや、明快なデザインテーマが必要です。華美にする必要はなく、そのぶん若さとか、溌剌さとか、チャーミングさとかで表情魅力を作り出せれば良いのです。そういう根本的な良さをしっかりと作り込んで魅力づけしておけば、たとえその数年後に新型が出ても陳腐化することなく乗り続けることができる。

 こういうクルマ作りのスタンスこそ、良いものを長く使い続けるヨーロッパの思想から生まれてきている良き伝統の力なのではないかと思っていますし、堅実なお客様への商品の届け方なのではないかと思っています。

 そういう視点で毎年FarEastの島国のクルマたちとEU圏のクルマたちを比較して両者の「育ち具合」を見続けているのですが、残念ながら彼我には今なお差があると言わざるを得ません。そしてそのでき上がりの差は縮むどころか逆に少しずつ開いてしまっているのではないかなと感じています。

 日本のクルマたちは模索を続けています。その姿勢は正しいとは思います。各社が自分らしさの表現を追求するのですから非常に真面目なアプローチだと思います。しかし結果として表現されている外観デザインは、余りにも表面上の面の折れや、線に頼った差別化アイデアに偏りすぎていて、本当に必要な根本の組み立てや、プロポーションの大切さなどがないがしろにされているように思えてなりません。

 ショーの会場でこうやって一度に晒されて比較してしまうと、はっきり言って、クルマから受ける「印象の弱さ」「深みの足りなさ」は明確で、僕にとっては大人と子どもの差にも感じてしまいます。

 おかしいですね、差別化に力を入れているのに印象が薄っぺらなのです。

 それにしても昨今の日本車の、表情作りを二次元的グラフィックに頼ったやり方は、完成度・熟成度が著しく足りていないと言わざるを得ません。それらの手法の多くは一過性のもので「その場凌ぎ」というと多くの方々から叱られてしまうと思うのですが、しかしその自動車メーカーが自社のブランドとして時間をかけて浸透させていこうと考えるような熟慮したテーマには感じられないのです。

「そうではない!」とお叱りを受けるかもしれませんが、現実そう感じるし、そう見えるのです。差別化のためのデザインが優先されすぎているのではないでしょうか。これを文化の差、伝統の有り無しの差であるとは思いたくありません。

 それは造形の完成度として分析しても間違いなく二次元的な表情づけの傾向が強いから、ある一定の角度からだけ見たときしか成立していないことが多いのです。違う角度から見たときにはその無理が祟って捻れて見えたり、凹んで見えたり、あるいは弱々しく見えてしまう。これは「仕方ない」と割り切っているのでしょうか。ある一定の角度でのみキーになるモチーフがバランス良く見えることの方を重要視していて、その他の角度からの充分ではない見え方は我慢して目をつぶっているのでしょうか。

 また、折れ線で組み上げた構成は、連続した面でできているジワリと感じる力強さや、サーフェイスの光の変化の美しさという情緒的な綺麗さが表現できていません。奥深さがないのです。造形は塊ですので、中身の詰まった塊の表現なのです。クルマは塗装され、磨き上げられていますから、そこに反射する光や写り込みで感じる「表情」というものがとても大事になるのですが、そういう効果を考えていないように感じてしまうデザインの手法が、あまりに多くなぜ日本車に共通してしまっているのか不思議でなりません。

 日本のブランドが欧州でマーケットシェアを伸ばせすにいる原因はこういうところにも一因があるのではないでしょうか。ヨーロッパはやはり大人の文化圏ですから。

マツダCX-30

 そんななかでマツダは「日本車」という括りのなかから抜け出したと思います。ジュネーブで発表したCX-30など見ているとマツダは自分たちの表現をちゃんと熟成して高めてきていることが良くわかります。

 そして僕が説明した自動車デザインの基本がしっかりできていて、しかもその上で本当に良く作り込んでいます。それは最終的にディテールの緻密な計算や作り込みに表れていて、だからクルマ全体が完成度が高く見えるし感じるのだと思います。

 良いデザインはディテールの作りの良さででき上がると言われるのですが、まさにそういうことなんだと思いますね。ケバケバしい脅かしなどひとつも使っていない。マツダマツダの世界観を作り出すことに成功しつつあります。

 しかし、そのマツダも、この道が高まれば高まるほどさらに課題が出てくることも充分に理解していると思います。彼らは現時点での限界にちゃんと気づいていて、間違いなく次の世代ではいま足りていないことを埋めてくるでしょう。その時にこそ求めていた本当のデザインキーが出現するのだと期待しています。

 このようにブランド(会社)の「らしさ」が浸透してくるとユーザーにはそのブランドに対する一定の評価価値ができ上がりますので、商売としてもとてもしやすくなります。「ああ、良いものを選びましたね」と思われるようになったりするのです。

 クルマの販売台数と僕が述べた造形やデザインの考え方が数値的に比例しているかといえば、自動車の商売というのはそんなに単純ではありません。ですから実際には勝てば官軍で売れてナンボの世界なのですが、僕は形で考え方を表現するデザイナーの一員ですので、このような観察の仕方や評価軸(すべて個人的な評価のモノサシですが)をもってジュネーブ・ショーで定点観測を続けてカーデザインの現状をみていると、まだしばらく冬型の天気と同じような西高東低の状況が続くのかなと感じてしまうのです。

 とてもバランス良いスマートな身体つきの人は、定番のシャツとパンツで充分にかっこいいじゃないですか。中身がしっかりとできていればこそ可能なのですね。そこが基本。そして、その上で最高の布地と最高の仕立て屋が腕をふるうことを競う。僕はこういうのが好きですね。その人なりに。