令和元年大相撲夏場所4日目の取組で、右ひざのじん帯損傷と骨挫傷で3週間の治療が必要と診断された新大関・貴景勝は5日目から休場した。

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 しかし、3日間の休場後、「治療で痛みが和らいできた」ということから8日目の中日から再出場したが、1日だけの出場で再休場となり63年ぶりの不名誉な記録を作った。

 再出場に対して、診断書を作成した清水禎則医師(東京墨田区の同愛病院)は「『2、3日でよくなるものではない。医学的には一定の静養をしてもらいたい。治療に専念した方が来場所に期待できる』と強行出場に首をひねった」という。

 怪我で苦しみ再起できなかった元横綱・稀勢の里の荒磯親方は「別のところを痛めたり、悪化させることのないように祈る」と語り、元大関・琴風の尾車親方は「吉と出るか凶と出るか ばくちだな」と語っている。

 師匠の千賀ノ浦親方(元小結・隆三杉)は、「また痛みが走ったら休ませる」(以上、「サンケイスポーツ5月19日付)と語っていた。

 再休場なら判断の甘さに批判が出ることは確かであろうと言われていたが、その通りになった感じである。

 新大関は令和最初の本場所の目玉とみられていたこともあり、土俵に上がってファンに元気な姿を見せたいという強い意志と同時に、今場所の負け越しでは次の名古屋場所は早くもカド番に立たされるという危惧があったことも確かであろう。

 力士にとっては上を目指すことが目標であり、貴景勝にとっては言うまでもなく目標は横綱であろうし、ましてや大関になった直後にカド番に立つ状況はどうしても避けたいという思いは強かったに違いない。

 しかし、力士生命にかかわることで、師匠をはじめとした周囲の慎重な判断が必要であったことはいうまでもない。

稀勢の里の二の舞はご免

 先に引退した稀勢の里は大関で優勝して横綱の地位に上り詰めたが、千秋楽を前に負傷する。

 その負傷が場所間に完治していなかったが、横綱で臨む最初の場所は休みたくないという気持があったに違いない。

 そこで体をいたわりながらも出場すると、用心して相撲を取ったことが良かったのか、奇跡的に優勝まで手にした。2場所連続の優勝である。

 しかし、次の場所までの1か月半で怪我は完治しないし、万一完治して土俵に上がるにしても練習が十分でなかった。

 治療に専念するため1場所どころか数場所休場しても地位の陥落はないが、ファンに姿を見せられない寂しさや申し訳なさなど、様々な思いが交錯したであろう。

 ましてや、新米の横綱である。休み続けることに対する自責の念も大きかったに違いない。

 そうした思いから、完治しないまま2場所(以下「不戦敗」は「休」とする。6勝4敗5休、2勝3敗10休)出場するが、途中から休むことになる。こうした不本意な成績から、次は「体を治そう」と全休する。

 大関までとは気の持ちようや心構え、世間に対する意識も変化したであろうし、また横綱になった早々から休み続きでは不甲斐ないという思いも募る一方であったに違いない。

 そうしたことから、また出場を決断するが、2場所続けて前回以上の悪い成績(4勝5敗6休、1勝4敗10休)で終わる。

 やむなく3回続けて全休し、年6場所制が定着した昭和33年以降、横綱として最長となる8場所連続休場を記録する。

 この間、ファンの間からは治療に専念するような声も聞かれるが、横綱審議委員会などからは「進退」の声も上がり始める。

 完治しないままに土俵に上がり10勝5敗と一応の成績を上げるが、続く場所は4敗11休、3敗12休とまた休場を強いられ、ついに引退を決意する。

 稀勢の里貴景勝のように正面からのガチンコ相撲は大相撲の醍醐味である。回り込んだり、張り手や肘を使ったかち上げなどの技を使うようなこともしないので、怪我などに対する負担は一段と大きいだろう。

 稀勢の里は怪我が完治しないままの出場・休場を繰り返す土俵を続けた挙げ句に引退せざるを得ない羽目になるわけである。

 「別なところを痛めたり、・・・」という元横綱・稀勢の里(現荒磯親方)の言葉は、自分の経験が言わせた貴重な諫言でもあったようだ。

双葉山の69連勝は2場所11・13日制時代

 双葉山昭和2年から土俵に上がっている。昭和7年までは年4場所(春・3月・夏・秋)であったが、その後は満州事変などの勃発により年2場所(春・夏)に縮減され、戦後の昭和23年まで続く。

 昭和24年に大阪場所が加わって3場所となり、28年に東京場所が1場所増え、32年に福岡場所、翌33年に名古屋場所が加わり、今日の6場所制が定着する。

 一方、昭和12年春場所(1月)までは11番勝負で、夏場所(5月)から13番勝負、昭和14年夏場所以降は15番勝負となっている。

 4場所時代の双葉山は幕下(16場所・72勝48敗)では勝ち越しが多いが、さほど良い成績ではない。十両を2場所務めるが、10勝12敗で負け越している。

 しかし、翌昭和7年春場所では前頭となって土俵に上がるが、3場所で19勝10敗(5-3、8-2、6-5)で、最後の秋場所は全休(11休)である。

 昭和8年からの2場所制で小結までなるが、37勝34敗と良い成績ではなく前頭に陥落している。

 なお、この前後の昭和7年から10年までの間は必ずしも11番勝負でない8番や10番しかとっていないときもあるが、戦争などの影響であろうか。

 そして昭和11年春場所7日目から双葉山の連勝が始まり、昭和14年春場所3日目まで足かけ4年にわたって69連勝の大記録(前頭で5連勝、関脇1場所で11連勝、大関2場所で11・13連勝、横綱3場所で13・13・3連勝)を打ち立てる。

 その後も横綱として足かけ7年間取り続けるが、昭和20年敗戦を迎えた年の夏場所後半から休みが続き、秋場所全休で引退する。

 連勝記録がどういう状況で達成されたかは、科学的で客観的な検証などが必要で、単純な結論は出せない。

 しかし、前人未到である双葉山の69連勝は、年2場所、1場所11番ないし13番勝負という今日より短い取り組みと、場所間の長い期間は体調を整えるのに役立ったということであろう。

記録ずくめの白鵬関であるが

 対照的に白鵬の63連勝は、双葉山の4年に比べればはるかに短いほぼ9か月間(平成22年1月場所14日目から同年最後の福岡場所初日まで)でなされており、この間は体調維持が万全であったということであろうか。

 白鵬は通算最多勝や最多優勝、最多全勝、横綱在位期間など、大相撲界のほとんどの記録を塗り替えてきたが、双葉山の69連勝記録だけは塗り替えていない。

 ちなみに、白鵬の史上2番目となる63連勝と5番目の43連勝(3番目は千代の富士の53連勝、4番目は大鵬の45連勝)を止めたのは稀勢の里であった。

 これまで数多くの記録を積み上げてきた白鵬であるが、ここ数年は休場が相次いだ。ちなみに、2015年以降を見ると、2015年は優勝3回(うち全勝1回)・13休1回である。

 また、2016年は優勝2回(うち全勝1回)・全休1、2017年は優勝3回(うち全勝1回)・全休1回・11休1回、18年は優勝1回(全勝)・全休2回・11休2回で、2016年以降は必ず1回全休があり、年5場所同然である。

 今年はまだ3場所のみであるが、初場所は2休、大阪場所は全勝優勝であるが、夏場所は全休とみられる。

 見方を変えると、2015、16年のフル出場は5回、2017年は4回、2018年は2回、2019年は3場所中1回ということになる。

 そうした中で全勝と全休を繰り返しているのが注目される。

 2015年は13休1回であるが、2016年以降は全休が1回ないし2回あり、年間6場所のうち1ないし2場所は休んで、年間6場所ではなく、4ないし5場所で戦っている勘定からは、大関以下の6場所と同じ土俵に立っていないとも言えるのではないだろうか。

 強調すべきことは、どこまでも、相撲の規則に則ってやっているわけで、断じて白鵬に責があるわけではない。

怪我力士の救済処置

 しかし、全体的に見て横綱の休場が多いということは、降格がないという以上に、年6場所、1場所15日間の取組では、横綱という角界の最高実力者でも体調の維持管理がなかなか困難であるということを示しているのではないだろうか。

 大関以下は負け越せばカド番や降格が付きまとうため、怪我したり、治癒したが練習不十分などで体調が万全でなくても、無理して出場する状況が出る。これがかえって状況を悪化させるということにもなる。

 しかし、番付陥落を心配し、あるいは純粋にファンの期待に応えようとして、怪我しても十分完治しないまま場所に出ようとする意志も働くであろう。新大関の貴景勝もそうであったに違いない。

 年6場所、15日制では場所間が短いので、力士の間からは疲れが十分に抜けないという声が以前からあると仄聞したこともある。

 ましてや怪我などした場合は完治しても練習不足のまま、即ち万全の態勢でない状態で不本意ながら土俵に上がらざるを得ないような場合もあろう。

 その点、横綱は休場しても地位を陥落することはない。最高位に登りつめた褒美と言ってしまえばそれまでであるが、高い料金を払って観戦するファンから見れば、横綱の欠場は失望以外の何ものでもない。

 それ以上に、勝負の世界の公平さという点からは疑問なしとしない。

 すなわち、極論すれば、横綱は体調を十分に整えるために休場が許され、年2場所や3場所のこともある。

 先述したとおり、ここ数年の白鵬は6場所中の1場所から2場所くらいを休み、全勝を含む優勝を重ねてきた。

 こうした大記録も大関以下の6場所と違い、5場所や4場所相当しか土俵に上がっていないからともいえないだろうか。

 規則上からは問題なしであろうが、土俵に上がるべき公平性からは、大関以下にも怪我などの場合の救済措置があってもいいのではないかと思量する。

 今はテレビ時代でもあり、サポーターや絆創膏などもなるべく少ない方が見苦しくなくていい。そのために、公傷審査会(仮称)などを設置して、休場はもちろんのこと、まわし以外の装着物もこの審査会での許可制とするのである。

 みみっちいことを言うなとの声があるのは当然であろうし、そんなことは力士の自主性に任せるべきかもしれない。

 しかし一方で、白鵬が右ひじに装着しているサポーターにかつて疑問が投げかけられたこともある。本人も愉快ではないであろうし、周りの疑心暗鬼も氷解し、全員すっきりである。これほど公明正大なことはない。

 声を大にして特に言いたいことは休場についてである。状況によっては場所後の短期間で治癒しない場合もあるであろうし、治癒しても稽古不十分ではファンや観客を失望させかねない。

 そのために、1場所くらいの休場は成績に反映しない重症特例などを設けて、力士が治癒に専念できるようにするとともに、横綱との公平化を図る一助になればとの思いからの提案である。

おわりに

 横綱の欠場は「泡のないビール」と同じように、ファンの関心を薄め、面白さを半減させるが、怪我には勝てない。

 同様に、大関以下の力士も、怪我などの場合は番付を心配することなく治癒に専念できる体制を図ることは、力士生活の延命に役立ち、ファンへの大いなるサービスにもつながる。

 将来の大相撲を背負っていく逸材とみられる貴景勝の今回の再休場に至る経過を見るにつけ、怪我時の救済処理の必要性を一段と強く感じる。

 ここ数年の有望視された大型力士の番付上の安定しない状況や、双葉山と白鵬の大記録の背景の比較考察は力士の怪我時の救済の一助にするためである。関係者の目に留まれば幸甚である。

関連JBpress記事「『相撲道』の精神を失った角界に愕然」(森 清勇、2018.2.27)

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