禅僧たちが悟りを求めてたどり着いた禅のことばには、人生においての不安や迷いから解き放ってくれるものがあります。そこで心を整え、ふっと心を癒してくれる禅のことばを臨済宗建長寺派満願寺住職の永井宗直和尚に紹介していただきました。

「洗心」――沈黙と静寂を感じ取り、心が洗われる

街が人でにぎわう季節、お寺は観光の穴場かもしれません。海や山は人だかりですが、お寺は閑散と静まり返っていることが案外多いものです。大きな瓦屋根、高い天井のお堂のなかには天然の風が吹き抜けます。クーラーのいらない涼しさ。閑けさとともに汗をかいた肌に感じる心地よさは、極楽浄土かといったところです。

堂内に一歩立ち入れば、真前の「みほとけ」に額ずくべく、自然に手が合わさり、不思議と心は和んできます。心が洗われるような清々しい気持ちです。

その昔、フランスの旅で、ノートルダム寺院を訪ね参拝しました。そのときも同じ印象を受けたことを思い出しました。入口に8カ国語近い言語で「静寂に」と貼り紙がしてありましたが、私はこれは要らないと思いました。歴史と伝統あるこの聖なる教会に入れば、誰もが沈黙と静寂を感じとることができるでしょう。

「如是我聞」――今に集中すれば、心に届くものがある

春の雲、日一日と新しい生命が生まれてくるかのように輝きに満ちています。お天気になるとハイキングなどしたくなります。友人との山歩き、せっせと歩きつづけ、そろそろ一息入れようかと、重いリュックを肩から降ろした瞬間、何ともいえない心地よい涼しい風を感じました。思わずお互いに「ああ気持ちいいね。来てよかったね」と口を揃えて言い合いました。

再び歩きはじめて、ふと気がつきました。実はこの心地よい風はさっきも今も同じように吹いていたのです。ただ、自分がこの風を心地よいと感じられる、いい状態になっていたということです。

心に曇りがあったり、なにか気になることがあったりすると、つい歩くことばかりに躍起になってしまって、美しい景色や足元に咲く花々などの自然の恵みに気がつかなければ、せっかくの休日やハイキングの楽しみも半減してしまうことでしょう。

お釈迦様の教えを最初にまとめる会議(第一結集)において阿難尊者(あなんそんじゃ)が「如是我聞(このように私は聞いた)」と言ったことにより、以来、経の誦出(じゅしつ)を「如是我聞」とはじめるようになったといわれています。阿難は正しくお釈迦様の教えを聞くことができたのでしょう。自分の思いが強すぎたり、自分のことで頭がいっぱいの時は、まわりの人の声や願いは聞こえにくいものです。「聞」とは、心まで届いた、心に聞こえてきた、ということです。私にも、やっと仏さまの声が聞こえ、届きましたということなのです。

心に曇りがあると、足元の花に気がつかない、といいます。「私」の心を少し自分から解放してみる。離れて「いま」に集中してみるだけで、私の心のなかに新しい世界が生まれくるように思います。

「日々是好日」――自分の都合は捨てて、ありのままに

三寒四温というように春は気候の変動がはげしく、めまぐるしい変化に生命の息吹を感じます。私たちはひとたびお天気になれば心うかれ、どこに行こうか、何をしようかと心も弾みますが、冷たい雨が降れば気分は下降、憂いてしまいます。雲門(うんもん)禅師は言いました。「日にそもそも善悪はない」と。晴れの日は晴れ、雨の日は雨だと。私たちはいつの間にか、よい日悪い日を決めつけてしまったのでしょうか。

学生時代、ある和尚さまからよく言われた事があります。「道端の石ころのようになれ」と。いったいどういうことでしょう。

私たちは自分の身に何か突然、心配事や揉め事が起こると、ほぼ自動的にその問題を解釈、評価し、個人的な好き嫌いや損得の分別感情が成立し苛立ってきます。しかしよく考えれば、そんな感情も原因は自分の都合です。明日、晴れてほしいとの願いは、あくまで自分の都合、地球はあなたを中心に回っていないということですね。いつの間にか現実をありのままに知覚することなく、自分の都合ばかりを優先させてしまい、かえって困難な道をつくってしまっているかのようです。

道端の石ころのように、とは現実をあるがままに受けとめる心の自由を持っていることです。いつの間にか私たちは心のなかに自分のモノサシが組み込まれてしまって、自由を見失ってしまっているようです。先ずは自分の持っているモノサシを問わねばなりませんね。

出典:『自律神経を整える本』(著者:永井宗直)
ライター:YOLO編集部

「自分のモノサシを捨てる」とは?心を整える禅のことば