さて、黒田の大酒飲みぶりだが、これはなんとも度を越していた。酔っ払って帰ったときの夫人のあしらいが気に食わず、ぶっ殺してしまったと風評が立ったのが明治11(1878)年3月で、結婚9年後に妻の清(せい)が亡くなったときにこのウワサが出た。開拓長官時代である。時の風刺雑誌『団々珍聞(まるまるちんぶん)』には、「お犀(さい)のお怪(ばけ)」と題した狂画まで載せられ、いかにも黒田自らが手を下したかのように報じられたのだった。「犀」とは「妻」をもじったものであり、同誌は発売後間もなくお上から圧力がかかり。発売禁止処分となっている。

 さらに、総理を退陣したあとも、元老として「首相代理」を4度も務めているが、明治天皇への伏奏を忘れるという大失態も招き、

「これ伯(黒田のこと)の老衰ははなはだしく、痛く頭脳に異常を生じたるに‥‥」(「東京日日新聞」明治30年6月6日付)と、これは酒の害毒がついに頭にまで回ったとバッサリやられているといった具合だ。

 黒田内閣で外相を務め「条約改正」などで黒田と対峙した大隈重信は、のちに次のような「黒田評」を述懐している。

「黒田は常にピストルを腰に付けていた。腕力があって、気に入らぬことでもあれば、すぐ喧嘩をしかけるというような物騒千万な男であった。しかし、親切なことも非常なもので、条約改正問題が世間を騒がして、我輩がついに脚部を負傷した時など、見舞ってくれる度ごとに鶏卵を袂(たもと)に入れて持って来て、慰めてくれた」(「明治人物逸話辞典」森銑三編・東京堂出版)

 しかし、黒田に対する見方が万華鏡のように違うところも面白い。「好戦家にして単なる砲技の人」「度胸満点、剛毅これ以上なし」「相手の懐に飛び込む達人」「礼儀正しく、義侠心にあふれる」「放胆にして細心、勇敢にして親切」等々、どれが正鵠を得ているのか掴みどころがないのである。

 内閣の実績は乏しかったが、北海道が今日あるのは、開発に情熱を傾けた黒田の唯一の功績として残る。惜しむらくの酒乱であった。

黒田清隆の略歴

天保11年(1840)11月9日鹿児島生まれ。薩長連合に奔走、箱館戦争に参謀として参加。屯田兵創設、開拓長官を経て、札幌農学校開設。総理就任時、47歳。明治13年(1900)8月23日脳出血で死去。享年59

総理大臣歴:第2代1888年4月30日~1889年10月25日

小林吉弥こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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