BLOGOSでは「レジェンドたちが振り返る平成」と題し、政治ジャーナリスト角谷浩一氏をホストに、日本を支えてきた政治家たちに平成という時代を総括してもらい、令和の日本はどうあるべきなのかを考える対談企画をお送りしている。第2回は通産大臣や自治大臣などを歴任した自民党の重鎮、深谷隆司氏に話を聞いた。【編集:田野幸伸】

対談ダイジェスト動画


角谷:レジェンド達が振り返る平成。今回は自民党東京都連最高顧問の深谷隆司さんに伺います。よろしくお願いします。

深谷:どうぞよろしくお願いします。

角谷:深谷さんと同期当選は小泉純一郎さん、同じ派閥だと山崎拓さん、野田毅さん、石原慎太郎さんもそうですね。加藤紘一さんや、亡くなってしまいましたけど保岡興治さんも。

深谷:それぞれが名前もかなり通っていたし、やる仕事も評価された。政治全体を動かす当時の若手の原動力でしたね。

角谷:その時の総理大臣や幹事長がちょっと勝手なことをやったり、筋が通らないようなことを発言しようものなら、野党以上に厳しいというのが自民党らしさだったのかもしれません。

深谷:若手が一番発言できるところだったのが派閥の政策集団。そういう意味では政策集団があったというのは非常に良かったですね。先輩が指導する場所もそこだったんです。そういった人達と一緒に切磋琢磨しながら政治家らしくなっていく場でした。

角谷:今は自民党東京都連の最高顧問として、東京都の議員達の相談に乗っている立場ということですよね。

深谷:今回の地方統一選挙も朝から晩まで駆け回っていましたよ。事務所開きの出陣式が一日で16件もありましたね。この83歳の老人が本当によく使われますけど(笑)そういう場所で頑張っていられるから若さを保てるのかなという気がします。

ハルピンで迎えた終戦「本当によく生き延びた」

角谷:昭和から平成、平成から令和と3つの時代を駆け抜けられたわけですが、ことに深谷さんは浅草に生まれて、その後中国のハルピンに渡られました。

深谷:6歳の頃には満州のハルピンにいました。私が9歳の時に終戦。その時は日ソ不可侵条約を一方的に破られてソ連兵が一気に入ってきました。そして略奪の限り。女性は辱めを受け、男達はシベリアに。65万人ぐらい連れて行かれましたからね。本当によくあの時を生き延びたなという感じです。

母は顔を真っ黒に塗って髪を切り、父は屋根裏に息を潜めていました。いまでは想像もできない地獄でしたね。1年後に帰国が決まりましたが、その引き上げも野を越え、山を超え2ヶ月間ぐらいかけて葫芦島というところまで着いて。そこから2週間ぐらいかけて佐世保に帰って来たんです。

大人達が感激して地面にほっぺたをつけて泣くんですよ。その時は自分も一緒に泣いたんですけど、「日本があってよかったなあ、日本人でよかったな」という思いを強くしたことは今でも鮮明に覚えていますね。

角谷:その記憶がある人達がそのあと政治家になる志を立てた。敗戦から日本を建て直して、もう1回復活させようという志。国民もそれを期待していた時代だった。

昭和は戦争までと戦後と2つの昭和があったと思うんですね。戦後の昭和を正に政治でリードしていたのが深谷さん達の世代の人達。戦争も知ってるし、2度と戦争をしてはいけないということが体に染み付いている人達が政治をやってきた。

私ももちろん戦後生まれですが、戦後の高度成長の中で生まれたところしか見ていない政治家との違いというものがあると思うんですよね。

深谷:政治家に限らず、今の若い人に聞くと「日本負けたの?」って聞かれますからね。このあたり(台東区・浅草)は全部焼け野原だったんですから。一晩の空襲で10万人ぐらい死んだんですよ。私が満州から引き揚げて中学校に通っていた頃は高い建物がまだなくて、浅草から富士山が見えたものです。


もうその時代のことを知っていらっしゃる方はほとんどいない。年を取りましたけど、語り部として若い人に色々なことを話していきたいなと。

昭和天皇の崩御で始まった平成

角谷:閣僚として活躍されていた深谷さんにとって、昭和の終わりと平成の終わりの違いはどのあたりにありますか。

深谷:1989年昭和天皇がお亡くなりになった年ですが、その前の年に中曽根康弘先生とヨーロッパを視察していたんです。その時、ロンドン天皇陛下が喀血されたという連絡が入り、急いで日本に帰ってきたんですね。昭和天皇というのは、激動の時代を頑張って来られた陛下というイメージなんですよ。

大喪の礼というのがありました。陛下がお亡くなりになってから37日間、我々のお葬式でいうお通夜が続くんです。24時間体制で37日間、昭和天皇の棺の隣に座って2時間ぐらいずつ交代でずっとご冥福をお祈りする「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」という行事がありました。

誰が座るのかというと、大臣、国会議員宮内庁総務省の局長以上の役人。それから都道府県の首長、各省庁の関係団体の代表。延べで9400人という大変な人数です。私の時は森喜朗(元首相)さんと2人で真っ暗な中に座っていました。

その時は走馬灯のように昭和の激動の時代を振り返っておりました。私の人生で得難い体験でしたね。

角谷:それは部屋の中に棺があって陛下がいらっしゃるのですか。

深谷:全く隣ですよ。手の届くところに座っています。

角谷:それは森喜朗さんと向かい合うんですか?並ぶんですか?

深谷:横に並んで。前を向いてじっとしている。森さんは大学の雄弁会の貴重な仲間でしたし、それも非常に印象的でした。

そして、政教分離が日本の国是であり、こういった行事は皇室行事なんですね。ですから役人や官僚の人達は休暇を取って自主参加という形を取るんです。公用車では来ない。

角谷:平成は災害も多く、陛下が現地へ真っ先に赴くということが何度もありました。戦後、陛下の役割が「象徴」という言葉に変わった。現行憲法の天皇陛下の象徴という部分は、深谷さんから見てどのようなものでしたか?

深谷:日本の天皇制度というのは126代になるわけですけど、戦前までは「権威」だったんですね。国のトップは権力者でしょ。ところが天皇制というのは権威であって権力者ではないんですね。だから逆にいうと天皇陛下という存在は神格化されて常に国民と国家の安寧を祈り続ける斎主のような存在なんです。

逆にいえば権力の立場に立った、例えば軍部が天皇陛下の想いを阻害して戦争に走っていったような弊害もありましたが。いずれにしても世界の国々と比べても権威が権力と並ぶ存在というのはあり得ないですね。そういう意味でいけば、戦後は象徴におなりになっても、私はむしろ権威という言葉の方が分かりやすいかなという感じがします。

災害の多かった平成 自治大臣として指揮を執る

角谷:深谷さんは自治大臣や国家公安委員長もお務めになられたので、災害に色々な形で関わられたと思います。そのあたりはいかがでしょうか。

深谷:私が自治大臣になって復興を手がけたのは阪神・淡路大震災平成7年)の後でした。阪神・淡路大震災が起きた2日後に、今も国会議員の衛藤征士郎君と2人で徳島まで飛行機で飛んで、そこからヘリコプターで神戸に降りました。

その時迎えてくれたのが市会議員の青年。初対面だったのですが非常に態度が悪かったんですよ。なんでこんなに無愛想なのかと思いながら、被災地をずっと回っていたんです。しかし帰りにはその市会議員が手を握って涙をこぼした。「こんな災害の時に国会議員が来て『案内しろ』なんて迷惑千万だと思った。だけども2人が本当に真剣に被災地をまわって被災者の声を聞いて、これを政治に活かそうとしている姿を見て嬉しくて泣きました」って。私は政治家としての責任と使命を感じました。

そのあとすぐに自治大臣に就任して、復興担当大臣になってまた現地へ行きました。地方財政組織も含めてかなり阪神・淡路の復活には成果をあげたんじゃないかと思っています。同時に今まで消防というのは市町村消防といいまして、その地域の災害にしか出動できなかった。他の知事から出動要請があるとやっと出られるという状態だったのですが、それを思い切って変えようと。緊急消防援助隊を新たに作り直して、知事の要請がなくても消防庁長官が号令をかければどこでも協力できる体制にしました。それが東日本大震災の時にも非常に役立ちましたね。

即行動する大切さを痛感した村山総理の辞任

阪神・淡路大震災が起きたので、その前の長崎・雲仙普賢岳の災害(平成3年)が忘れられかけていたんですね。長崎県知事や県会議長らが自治大臣室へ何回も来ました。当時、災害対策基金が530億円ぐらいだったんですけど、それを1000億円にしてくれと盛んに陳情されましてね。

役人と相談したら「200億円ぐらい積んだらいいんじゃないか」と。向こうもそのつもりで1000億円と大きく言っているんだと。でもそこは、要望に答えて1000億円にすることに決めました。しかもこれは基金だから、基金の金利で事業をやるわけです。5年やれば当時金利が3%ぐらいですから、15億円にはなるからそれをやろうと。

このことを現地で発表する事にしたのですが、ちょうど年末で行ける日が12月27日しかなかったんです。役人のみんなは「正月の最初の仕事にしましょうよ。その方が区切りもいいし」と言う。仕事納めですからね。でも私は「いや、即行かなくてはダメだ」と、役人を何十人か引き連れて現地に行きました。

長崎のテレビや新聞は「年末の贈り物」といってたくさんの反響がありまして、住民がやる気をもってくれたことが大変良かった。

年があけて(平成8年1月4日に村山元首相と大臣が伊勢神宮をお参りする。5日には「今年も頑張ろう」と村山さんと乾杯して、それぞれの所管のところへ新年の挨拶へ行く。私は検察庁と自治省へ行くんですけど、その途中で新聞記者が集まって「状況が変です」って言うから「なんだ?」って聴いたら「村山さんが辞めるようです」って。「そんなわけない。今年も頑張るって言ったばっかりじゃないか」って。最後の自治省へ行ったら、もうお辞めになることになっていて。

私は新年の挨拶ではなく、大臣としてお別れの挨拶をやることになりました。つまり、年末に現地に行って発表していなかったら、わずか数日間で状況が変わってしまっていたんです。手柄がどうこうじゃないですけど、やっぱり行動というのは即起こさないとダメだなと痛感しましたね。

国会の中では本気でケンカしている

角谷:そこで質問があります。深谷さんは村山連立内閣の時の大臣だったわけですが、村山さんは当時の社会党。この頃は中選挙区時代で、社会党自民党が二大政党の形になりました。一番ケンカをしてきた社会党の村山さんが総理。そこに閣僚として任命されるのは複雑ではなかったですか?

深谷:園遊会がありましてね。最後のテントのところで一杯飲んでいる時に村山さんとか野坂浩賢元建設大臣とか、みんな一緒になったんですが、村山さんが「深谷さんを敵に回すと本当に怖いと思っていたけど味方にするとこんなに心強いことはない」と。野坂さんは「アンタはワシを何回も怒鳴るから山賊だと思った」と言われた笑い話もあります。政治家って面白いんですね。一気に仲良くなる。

角谷:議会の中って本当にケンカしているんですよ。ただ国会の中は言論の場だから、そういうことも不問に付そうと。

深谷:基本的には、みんな志を立てて政治家になっているんですよ。だから国のため、国民のためっていう意思はお互い共通で持っている。ただ時々そういうことを忘れてしまう政治家もいた。あの時代は、特徴のある政治家が多かったですよね。

角谷:曲者がいっぱいいましたから(笑)

深谷:侍が多かった。だから自社さで三党になって社会党を説得して我々の意思を貫ければそれでやれるぞという形がありましたね。だから意外に抵抗感がなかったんですよ。それから自民党政権になっていくというのは段取りとしてはよかったかなと。

角谷:ただその後、社会党は衰退して小さくなっていき、さきがけも無くなってしまった。自民党があまりにも強すぎて段々しぼんで行っちゃったという歴史があるので連立の難しさはあります。

けれども、そのあと自自連立とか自自公連立っていうのがあって。自民党自由党公明党の3党。そこから小沢一郎さんが抜けて自公になっていって、これがもう20年続いていると。


深谷:自自公路線というのもなかなか面白かったですよ。当時は中選挙区制でしたから、公明党自民党はいつもぶつかっていた。公明党のみなさんからは本当に嫌われていたんですよ。戦いですからね。太田昭宏さんなんかも私と戦って破れて北区から出るような状態でしたから。そういう中で自自公を組もうと決意するんです。

自公の政権の政策の打ち合わせをやらなきゃいかんという段階になって官邸で公明党の代表と小渕恵三(元首相)さんが一つ一つ詰める。当時私は総務会長ですが、幹事長の森さんと政調会長の3人で対峙すると、小渕さんはああいう人ですから、ちょっと話がまとまると降りてきて「今こういう話になってるけどどうなの?」って。「これはちょっとおかしい」「これはこうしようよ」と言って、自公を政策的にうまく合わせられたんですね。

角谷:選挙区で戦っている人もたくさんいたわけですよね。

深谷:しかも細川政権の時に何人も大臣をやっていて、予算委員会でとことん叩いてますから。そういうことで私個人へのしこりがありましたけどね。

角谷:「お前の質問忘れないぞ」って人がたくさんいたわけですね。

深谷:そりゃそうですよね(笑)だけど自自公路線が非常にうまくいって。週に1回官邸の食堂で昼ごはんを食べながら政策を進める党議をやるんですよ。その時に小沢一郎さんがいつも来ていて、私達はカレーライスですが、あの人だけは奥さんの可愛らしい手弁当を持っていたんです。素晴らしい夫婦関係だと思っていたら、のちのち仮面夫婦であったとわかったんですけど。

でも小沢さんは突然来なくなるんですよ。あの人は気に入らなくなると行方不明になっちゃう。それで小渕さんが心労で体を段々おかしくしていくという経緯がありましたね。

クリントン元大統領からの電話に居留守を使った小渕元総理

角谷:小渕さんが亡くなって、政治は本当に一寸先は闇だと思い知らされました。平成の激動の政治史には色々ありましたね。

深谷:小渕さんはビルの谷間のラーメン屋とか言われてましたね。

角谷:冷めたピザとも言われたり。

深谷:朴訥な人でしたがなかなかでしたよ。彼は雄弁会の後輩ですけど、ちょうどあの人が総務会長に私を任命してそのあと通産大臣に進むんですね。真っ先に言われたのは「深谷さん、中小企業国会にしてください」と。アナタが下町の中小企業で一番信頼されているからというので私が通産大臣になって。

その時は貸し渋りなどで中小企業が絶望的な状態だった。そこで真っ先にやったことは貸出ですね。全国の信用協会から5000万円までは即出せるようにしようと。商工会連合に対して30兆円を用意したんです。3件に1件は5000万円を借りて立ち直る。中小企業白書を見ると、約10万社が倒産を免れ100万人の雇用を確保できたと書いてありました。

そんな風に成果があがったんですけども、それを私にやらせたというのはあの人の1つの思い入れというか、期待感を持っていただいたんだなという感じがしますね。

日本はアメリカのポチではない

通産大臣は略さずに言うと通商産業大臣。”通商”という言葉からわかるように、世界とやり合うんですね。WTOだとかそういうところにも私が行かなきゃならない。ある時、WTOの大会でアンチダンピングが大問題になってました。アンチダンピングっていうのは国内で売られている値段よりも不当に高くして輸出すること。

向こうは「それじゃあ国内産業が崩れる。けしからん!」ということで関税を高くするという仕組みです。まともにやっていれば良い制度ですけど、アメリカが日本の鉄鋼関係にアンチダンピングを乱用するんですよ。だから「シアトルで行われるWTOは深谷くんが行って」と言われて。アンチダンピング規制法みたいなのを作ろうという使命で行くんですね。現地に行きましたら、とにかくアメリカの勢力が強いものですから、圧倒的にアメリカの指示の通り進むような状態だった。そこで私はロビー活動をめちゃめちゃやった。あらゆる大臣と話し合って会談もやって世論を作っていった。そうしたら意外にアメリカに対する抵抗があるものです。

カナダの大臣が私達が提案したような文章を作ってくれて、そこでペーパーになったら本会議で通ることになるんですね。そうしたらクリントン大統領が小渕さんに電話を入れるって情報が入ってきました。すぐに私は小渕さんに電話をかけて、「クリントンさんからアナタのところに電話がいくから、俺からはしっかり言うと。だけど深谷という大臣は俺のいうことを聞かないから現地で頑張ってくれと言ってくださいよ」って。向こうの長官ともやり合いながら一歩も譲らなかったんですけど、またクリントン大統領は小渕さんへ電話をかけた。この時、小渕さんは居留守を使って電話に出ていないんですよ。その時だったら国際問題ですけど、あれから20年近く経ってる今だから言えますけどね。

その時に商務長官なんかは、圧倒的な勢いでアンチダンピングなんてとんでもないと。アメリカでは議会でアンチダンピング規制が出たら、別れて帰ってこいと決議していますから、かなり強行なんですね。河野洋平さんが外務大臣だったんですが、役人が私のところに飛んできて、「河野さんがだいぶやられているからすぐ行ってください」と。それでおっとり刀で行きましたら、河野さんの外務大臣秘書官が「入っちゃいけません」っていうんですよ。「ふざけるな!俺は大臣だ、代表だ!どけ」と言って入ったら、向こうの商務長官とか向こうの補佐官がいるんですけど、河野さんがしょぼくれていました。

なんなんだ?」と言ったら、「このまま日本が強行するなら沖縄のサミットにクリントンが行かない」というんですよ。それで私は激怒して、「クリントン大統領が沖縄に来ないなら来ないでよろしい」と通訳に伝えると、とても困った顔をしているんですよ。だから構わず「そのまんま言いなさい!」って伝えたら、長官はガラッと態度が変わって、「クリントンは苦労していて、行かないというわけじゃないから。議会もこうなんでなんとか理解してください」と非常に変わった。だからこれはいけるなと思っていたらバシェフスキーというアメリカの女性議長が緊急会議を招集するんですよ。「本日を持ってWTOの会を閉会します」と。

つまり外交で自分の国が不利になったら、なりふり構わずやめちゃうんですね。外交というのは戦場と一緒だなと思いましたね。そんな経験もありましたが、その後押しをされたのは小渕元首相ですね。


角谷:この話は初めて聞きましたけど、小渕さんはどちらかというと穏やかな人で、押しが弱い人だとみんな思っていたかもしれないけど、粘り腰で腰が低い。その踏ん張る腰の低さね。沖縄サミットを決めたのも沖縄に寄り添わなきゃいけないという気持ちからで、2000円札を作ったのも小渕さん。

その小渕さんが亡くなった後、森さんが引き取っていくわけだけど、クリントンさんは遅刻しても、ちゃんとサミットには来るんですよね。

日本はアメリカのポチだからなんでもいいなりなんだ、とよく聞きます。しかし実は裏で相当戦っている。向こうは並み居る弁護士軍団がいるんですよね。その相手に日本の政治家が「ダメだ!」と言ったエピソードを私もいくつか聞いています。

深谷:アメリカとやりあってもダメなんです。アメリカに反する我々の仲間をどれだけ作れるか。だからアメリカと日本が直接対決しない形を作らないとうまくいかないですね。

角谷:その流れは今の日本の外交に繋がっていますかね。

深谷:実を言うと経済関係はこれからなんですよ。トランプ大統領がこれから色々なことを言ってくる気配がありますね。そういう点で安倍さんがどこまで抵抗できるかっていうのは、まさにこれからだと思います。これまでは北朝鮮問題で日米が歩調を合わせたことが成功していますから、それはそれでいいんです。トランプ大統領は今度また日本においでになって、ゴルフもやるようです。

ゴルフなんかやってると日本人はみんな「トランプ大統領ゴルフに興じてなんだ」というんですけど、世界中の指導者はトランプさんとゴルフをやりたいんですよ。だけどもトランプさんは「安倍さんとならやる」と。この関係が実は大事なんです。何時間も一緒にゴルフをやりながら色々な会話が出来て日本にとってのマイナス部分をどうやってどかし、プラス部分を増やすかっていうのは大変なんですよね。だからゴルフをやるのは私共も大賛成。ただ先程も申したようにこれからアメリカはかなり色々な注文を日本につけるでしょうね。

令和の政治家よ、国のために命を投げ出す覚悟があるか

角谷:令和は難しい時代になりそうですけど、最後に令和の時代の若い人たちへ向けてメッセージをいただけますか?

深谷:令和というのは実に素晴らしいと思うんですね。奈良時代に作られた最古の歌集である万葉集から取り上げたというのがものすごくいい。なぜかというと万葉集には4500歌ぐらい入っていますが、天皇から皇族から農民から商人から防人まで、全部歌を出しているんですね。こんなに広く国民から和歌を出させた世の中というのは民主的だったなと。

よく民主主義発祥の地はギリシャだとかローマだといいますけど、全く違う。あそこの国家は奴隷の上に成り立っているわけですよ。そんな国が民主的であるはずがない。日本は平安時代奈良時代も含めて本当に民主的な形があった。もっと言えば縄文時代からあったんですよ。だからそういう日本の良さの一番いいところで今度の元号の名前を付けたというのは非常に面白いし素晴らしいですね。美しいとか穏やかとか和やかな時代を作り出したいという願いがあの令和にきちんと載っている。

中には「元号なんて日本だけだからやめた方がいい」という人がいますけど西暦なんてのはただの数字を重ねただけで思いやりの文化が何もないでしょう。元号っていうのはその時代のイメージがすっと沸くんです。元号一つ一つでその時代を思い出せるし、その時の様々な喜びや悲しみがこれから生きるためにもプラスになっていくので元号というのは素晴らしい仕組みだと思っています。

まさに令和にはこれからの平和な時代をなんとか希求して実現していきたいという思いが込められていて。これからの時代に本当に期待したいと思いますね。ただそのためには政治家がもっと国のために死ねるかと問いたいんですよ。そんなのは古い話だと言うんですけれども、災害の時に自衛隊諸君だって警察だって消防だってみんな命をかけてやっているんですよ。政治家だけがのほほんとしてはいけません。国家を含めて命を投げ出すぐらいの覚悟がお有りですか?これから新しい時代にはそういう心をもってやっていただきたいという熱烈な思いがあります。

若い人達には今言ったみたいに、歴史を見ると日本って素晴らしいですから。君たちの時代だから、そういう素晴らしさを理解して欲しい。この新しい時代を作ってくれよと言いたいですね。愛国心はオリンピックで盛り上がりますよ。だけどそれだけでなく歴史も含めた日本人の素晴らしさ、日本の素晴らしさを若い人達が理解して、「僕たちの時代でさらによくするんだ」という思いを持って進んでくれれば幸いです。

角谷:深谷さんの熱い話をたっぷり伺いました。今日はありがとうございました

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