2020年に開催される東京五輪。9都道府県の42会場で史上最多の33競技339種目が行われ、その受け皿となる施設も新設ラッシュが続いている。しかし、気になるのは現時点で、5施設の赤字が見込まれていることだ。

1998年に開催された長野五輪でも、施設の後利用問題は大会開催前から懸念されていた。特に「長野市ボブスレー・リュージュパーク」(スパイラル)は、もともと競技人口が少なく、その維持について長野市議会でも度々、問題視されてきた。結局、2億円を超えるという多額の維持管理費を理由に、長野市は2017年4月に競技施設としての利用を断念している。

これらの建設費用含め、長野市が五輪のために借り入れた額は利息を含めて約694億円となり、その償還は2018年度までかかった。借金の返済に20年もかかったのである。1997年5月、新聞社の新人記者だった筆者は、五輪開催直前で熱狂渦巻く長野市に配属された。それから2年、潮が引いたようになった長野市で市民として暮らしたが、たった2週間のスポーツイベントのための借金の返済が20年もかかるとは想像していなかった。

当時のメディアももちろん、五輪後の施設利用問題について報じていなかったわけではないが、五輪が近づくにつれお祭りムードが広がってかき消されていった。東京五輪では、同じ歴史が繰り返されるのか。当時を振り返りながら、五輪から約20年後の2019年4月に長野市を訪ね、競技施設を歩いてみた。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)

●開会式当日、チケットがなくても集まってきた市民たち

東京駅から北陸新幹線に乗り込み、JR長野駅に降り立つ。五輪開催前に改築された長野駅は、さらに2015年の北陸新幹線金沢延伸にともなって、善光寺側は大きな柱とひさしが建築され新しい駅舎となっていた。五輪中はコンコースに人があふれ、賑やかなイベントも開かれていたが、今それをしのばせるのは壁に残された大会エンブレムだけだ。

長野駅レンタカーを借りてまず向かったのが、1998年2月に長野五輪の開閉会式が行われた「長野オリンピックスタジアム」だ。当時、私は新人記者の仕事として警察の取材を担当していた。あまり五輪に関わる取材はしていなかったが、大会直前に「長野オリンピックスタジアム周辺でテロ警戒をする警察」という記事だけは書かせてもらった。五輪取材で競技施設に入れるのは、プレスのIDカードを持つ限られたテレビ関係者や新聞、雑誌の記者、ジャーナリストたちだけだ。どこのメディアも、東京本社の運動部や社会部、写真部に配られ、地方支局の若手記者には回ってこなかった。

しかし、競技だけが五輪ではない。開会式当日は、チケットはないものの、雰囲気を味わうため、寒空の下に市民が集まってきていた。漏れてくる会場からの華やかな音を聞きながら、市民の人たちにコメントをいただいていたが、途中であまりの寒さにボールペンがうまく書けなかった覚えがある。

そんな長野オリンピックスタジアムは現在、周辺が整備されて市民に愛される大型公園になっていた。スタジアムを囲むように遊歩道や遊具があり、大勢の家族づれで賑わっていた。スタジアムでは、地元のプロ野球独立リーグのチーム「信濃グランセローズ」の試合が開かれ、ファンたちが開場を待って並んでいた。

スタジアムの近くに、聖火台が残されていた。伊藤みどりさんが奇抜な衣装で点火したあの聖火台だ。今では、ポケモンGOのジムになっており、その日は黒、赤、黄、緑、青の五輪カラーのポケモンたちが聖火台を守っていた。

●「負の遺産」の象徴となったスパイラル

次に訪れたのは、長野市の北部にあるスパイラル。五輪直前に整備され、スパイラルへの輸送に利用された浅川ループラインを抜けるとほどなく現地に到着する。実に20年ぶりのスパイラル。4月の週末にも関わらず、駐車場には一台も止まっていなかった。もしかして、見学もできない状態なのだろうか。訪問前に長野市のサイトには特に見学の案内などが記されていなかったことが頭をよぎる。

まだ雪が残る道を進むと、「見学者入口 ここからお入りください。」と書いてある看板を見つけほっとする。言われた通り、通路を進むと、うねるように上から下るコースが目前に広がった。

大会時、ここも観戦の人々であふれていた。コース脇の坂道を雪でつるつる滑りながら登り、あっという間に目の前を通り過ぎる選手たちに声援を送っていた観衆が、今でも思い浮かぶ。しかし、101億円かけて建設された施設も、20年以上を経てすっかり塗装が剥げ、見る影もない。五輪のエンブレムが掲げられた建物も静まり返っている。

近年、開催都市はその莫大な開催費用に苦しむケースが少なくない。パリに決まった2024年の五輪は、招致レースでブダペストハンブルクローマコストを理由に相次いで撤退した。1都市で開催するには負担が大きすぎるのだ。

そり競技は国内競技人口が約150人と、とても少ない。ところが、五輪開催が決まれば、開催都市はすべての競技施設を用意しなければならない。2018年、韓国の平昌五輪では、そり競技会場「平昌アルペンシアスライディングセンター」がわずか10日で閉鎖されている。

今後、国際オリンピック委員会は五輪後に採算の取れない施設は、他の都市や国・地域で既存施設で代用するなど、大会運営を柔軟に行わなければ、名乗りをあげる都市はなくなってしまうのではないだろうか。しばし、スパイラルで長野五輪の思い出にふけっていたが、本当に誰も来ない。人よりも先に、クマが現れるのではないかと怖くなり、立ち去った。

エムウェーブは長野五輪のレガシー

最後に訪れたのはスピードスケート競技会場になった「エムウェーブ」だ。信州の山並みをイメージしたM字型の屋根がまず目に入る。建設費用は264億円という巨大な施設だ。

大会中、「高速リンク」と呼ばれたここで生まれたメダルラッシュに市民も熱狂した。清水宏保選手が日本人初の男子500m金メダルを獲得した瞬間、私も会場にいた。観戦に来ていた人たちのコメントを取るため、観客席を駆けずり回っていた。ゴールの瞬間も、観客の表情を見逃さないよう、清水選手に背を向けていたため、何も見ていない。

あの沸きに沸いた会場も、現在は落ち着いている。観客席の一部が見学コースになっており、会場内部を見ることができた。出迎えてくれたのがスノーレッツ。長野五輪の公式マスコットキャラクターだ。大きな4羽のフクロウ着ぐるみモアイ像のように鎮座していた。近くで見ると、目が黄色くて大きくて、ちょっと怖い。

現在、エムウェーブは、冬季にはスピードスケートの大会が開かれるほか、ナショナルトレーニングセンター(NTC)競技別強化拠点として、スケート選手の育成拠点にもなっている。スケート教室も盛んだ。一方でシーズンオフには、北信最大規模の屋内施設として、コンサートなどのイベントも開かれる。

エムウェーブアイスホッケー会場だったビックハットとともに、市が6割を出資する第3セクターによって運営されている。大会直後は年間4000万円以上の赤字だったが、夏場にコンサートなどを積極的に誘致し、黒字転換した。しかし、市からの指定管理料やNTCとして国から出される維持管理費もあることから、手放しで喜ぶことは難しい。それでも、エムウェーブは長野五輪のレガシーとして存在感を放っている。

●五輪はたった2週間で終わるお祭り騒ぎ、その後は…?

エムウェーブの中には、入場無料の「長野オリンピックミュージアム」があった。開会式のパフォーマンスの衣装やモーグルで金メダルに輝いた里谷多英選手のウェア、「開閉会式でサマランチ会長がスピーチした演台」など、五輪マニアにはたまらない展示物が展示されている。

展示では、市内の小中学校が参加国と交流する「一校一国運動」の紹介もあった。この日、たまたま知り合った長野市の男性から、いまだ続いている学校もあると教わった。東京五輪ではデンマーク代表の水泳チームが長野市で合宿することが予定されている。デンマークとつながりのある市立川中島中学では、選手とも交流する計画だという。

「そういうつながりがまだあることが、長野五輪の遺産です」と男性は話す。エムウェーブにも長野五輪をきっかけに生まれたボランティアグループがあり、運営を支えていると聞いた。一時期だけだが、長野市民だった身にとっては、うれしい話だ。

しかし、エムウェーブビッグハット、ホワイトリング、長野オリンピックスタジアムアクアウイングの5施設は改修費用などが今後10年で45億円かかるとされている。長野市の財政への負担は決して少なくない。長野五輪の遺産をどう活用していくか、今後も現状に甘んじない運営が求められる。

1997年から1998年にかけ、長野五輪が近づくにつれ、市街地には海外メディアや五輪関係者が日に日に増え、活気に沸いた。大会が始まれば、国内外から観戦客が押し寄せ、夜も町は大騒ぎだった。ところが、そのお祭りもたった2週間で終わる。その後、パラリンピックが開かれたが、それも閉会すれば祭りの余韻を残さず、人々は日常に戻り、町はまた静かになった。そうして、20年にわたるお祭りにかかった費用の地道な返済と、残された大きな施設の活用という困難が始まったのだ。

東京五輪でも、同じことが起きるかもしれない。来年の開催に向けて、メディアは膨大な五輪のニュースを流していくだろうが、その後に何が残るのか。長野五輪のレガシー負の遺産を振り返りながら、私たちはよくよく、見極めなければならない。

(弁護士ドットコムニュース)

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