NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」、先週5月19日放送の第19話では、語りを務める志ん生とその弟子たちが大活躍だった。

森山未來がまさかの一人二役!
ときは1961(昭和36)年正月、「駅伝落語」と称して一つの落語を3つに区切って、古今亭志ん生ビートたけし)と弟子の今松(荒川良々)・五りん(神木隆之介)の3人でリレーしながら演じることになった。正月恒例となっていた箱根駅伝にあやかったものである。だが、五りんはどうも古典落語と相性が悪く、「寿限無」のような簡単な噺すら覚えられない。だったら、いっそ自分でネタつくってみろと志ん生が言うと、五りんは即座に一冊のノートを取り出した。その表紙には「創作落語 箱根駅伝」という題名が(いつのまにつくっていたんだ!)。前回のレビューでは五りんのドキュメント志向に注目したが、今回もそれが発揮された格好だ。

こうして五りんの創作をもとに、1919(大正8)年、金栗四三中村勘九郎)の発案で開催された第1回箱根駅伝の模様が、「駅伝落語」という形で語られることになる。志ん生を第1走者に、五りん、今松とつないでいくが、終わりまでやりきるにはあきらかに噺家が足りない。五りんが楽屋であわてていると、そこへいつもはヤング志ん生を演じている森山未來が現れたので驚いた。一体誰の役かと思えば、志ん生が長男の清だと紹介する。芸名は金原亭馬生(きんげんていばしょう)。五りんのノートをちょっと確認して、高座にあがった馬生は、端正な描写で語って聞かせる。やがて噺のなかで、ランナーたちが箱根に近づいたところで日がとっぷり暮れると、馬生の語り口は何やら怪談めいてきた。そこへまた、楽屋に森山未來が現れる。二役!? ということはもしや……と思ったら、案の定、志ん生が次男の強次だと五りんに紹介する。こちらの芸名は父がかつて名乗っていたのと同じ古今亭朝太(翌1962年、二つ目から真打に昇進し、古今亭志ん朝を襲名)である。朝太もまた、五りんのノートをパラパラと読んだだけで内容を把握すると、馬生から高座を引き継ぎ、兄とは違う軽妙な語り口で演じてみせた。いかにも華がある。

それにしても、森山未來が志ん生の息子二人を一人で演じるとは。今回、オープニングでは、森山未來は「語り」だけで役名はクレジットされていなかったが、まさかこういう形で出してくるなんて、まったく意表を突かれた。しかも、きっちり演じ分けていたのがすごい。こういう演出があるから、「いだてん」は毎回見逃せないのだ。志ん生パートについては、その存在意義がいま一つ理解できず、途中でドラマ自体を見るのをやめてしまったとの意見もネットではちらほら見られるが、今回の第20話はそういう人にこそ見てほしい。本筋と語りが車の両輪となって物語がダイナミックに展開されていることが、はっきりとわかるはずである。

「創作落語 箱根駅伝」を書いた五りんは、出番を終えた朝太から、「何だって箱根駅伝なの?」と訊かれ、「うちの親父が若い頃に出ていたらしいんです」と答えていた(父はその後、戦死)。そもそも彼が志ん生に弟子入りしたのは、父親が戦時中に満州(現在の中国東北部)から家族に宛てた絵はがきに「志ん生の『富久』は絶品」と謎めいた一文を残していたため、真相を知りたかったからだ。第20話は、そのことをいま一度思い起こさせる回でもあった。気づけば、五りんも噺家として一皮むけた感がある。「いだてん」は、四三とヤング志ん生だけでなく、五りんの成長物語でもあるのだなと、今回気づかされた。

兄はなぜ四三を「さん」づけで呼んだのか?
第20話の冒頭では、箱根駅伝は、そもそもアメリカ横断マラソンの予選として企画されたものだと説明されていた。ただ、じつはこれには諸説ある。劇中で矢崎広が演じていた明治大学の沢田英一の後年の証言によれば、アメリカ横断マラソンの計画は、1919年秋、沢田が四三と野口源三郎(劇中では永山絢斗が演じている)とともに埼玉県内のある小学校に招かれた際、その帰りの車中で持ち上がったという。箱根駅伝=アメリカ横断マラソン予選説も、この沢田の記述に由来するものだ。

しかし当の四三は、同年11月の日記で、野口・沢田と埼玉からの帰りがけに車中で話し合い、翌年春に箱根あたりまで学校対抗による長距離リレーを催して長距離走の発達をはかることを決めたと記してはいるものの、アメリカ横断については一言も触れていない。また、四三の伝記『走れ二十五万キロ』の著者である長谷川孝道によれば、四三は長期的かつ計画的な考えの持ち主で、冒険的発想はしなかったという。こうしたことから、どうやら現実の四三は、箱根駅伝をアメリカ横断マラソンの予選とは考えてはいなかったようだ(武田薫『マラソンと日本人』朝日選書)。それでも、ドラマのなかで「もう日本に走るところはない」と語った(と第19話のナレーションで説明されていた)四三が、次なる目標としてアメリカ横断を掲げたのはけっして不自然な流れではないだろう。

劇中、四三は、スポンサーとして報知新聞を見つけてくるなど箱根駅伝の準備のため奔走するなか、1920(大正9)年正月には、妻のスヤ(綾瀬はるか)とのあいだに前年に子供を儲けてから初めて熊本に帰郷。当主を務める玉名の庄屋で、家の者たちが集まる宴席にも出た。そこでは兄・実次から「四三さん」となぜか「さん」づけで呼ばれることに。考えてみると、実次はけっして嫌味で言っていたのではなく、庄屋の当主である四三と、四三夫婦の義母・池部幾江(大竹しのぶ)のことを立てて、あえてそう呼んだのだろう(よく見れば、実次は宴会でも下座にあたる一番端っこに座っていた)。前回、第19話ではスヤが四三の友人・美川秀信(勝地涼)のことを「美川」と呼び捨てにするなど、「いだてん」では相手への何気ない呼び方から、それを発する人物の感情や立場がうかがえて面白い。

四三、五輪からマラソンが外れたのを知らないまま箱根駅伝にのぞむ
四三はスヤと息子の正明との束の間の再会のあと(いや、正明とは初対面だったけど)、東京にとんぼ返りして箱根駅伝の準備とトレーニングを再開する。彼のなかでは箱根駅伝は、この年夏の開催が決まったアントワープオリンピックの予選という意味合いもあった。しかし、大日本体育協会長の嘉納治五郎役所広司)のもとに届けられた同オリンピックの競技リストでは肝心のマラソンが外されていた。はたしてこれを四三に知らせるべきか嘉納が悩んでいたところ、四三が後輩たちを連れて、オリンピックに派遣するマラソン代表の人数を増やしてほしいと直談判にやって来る。嘉納はつい安請け合いしてしまい、肝心のことを伝えそびれてしまう。

結局、オリンピックからマラソンが外されたことを知らないまま、四三は箱根駅伝の本番を迎える。このとき出場したのは四三の母校・東京高師と明治大学早稲田大学慶應義塾大学の4校。開催は当初、2月14日(土曜日)午前8時にスタートの予定が、「授業を休んで駅伝など言語道断」と東京高師の永井道明(杉本哲太)ら教師たちの猛反対を受け、午後1時に変更された。ちなみに史実では、もともとは2月11日に開催する予定が、その日は各校で紀元節(現在の建国記念の日)の式典があるうえに、東京の市電がストライキをやるというので、14日になったという(山本邦夫『箱根駅伝六〇年』講談社)。

こうして東京・有楽町報知新聞社前を起点として、四三の号砲によりレースがスタート。往路では明治大が1位でゴールするが、翌朝、大雪のなか小田原をスタートした復路では、最終区(鶴見〜東京間)で明治の西岡実一(工藤トシキ/ちなみに史実では西「崎」実一)と高師の茂木善作(久保勝史)が激しいデッドヒートを繰り広げる。最後の最後で西岡が転倒、そのすきに茂木がゴールインし、高師が初の王者となった。倒れた西岡は、体協理事の岸清一(岩松了)から激励され、どうにか立ち上がると、涙ながらに2位でゴールする。

それまで、岸清一は嘉納と対立しがちだったが、ここへ来てアントワープオリンピックへの選手派遣にあたり体協が旅費を出すと決め、さらに箱根駅伝に感動して、オリンピックマラソンを復活させるべく嘉納に協力を申し出る。スポーツは、いつもはクールな人物の心をも動かすことを表す一挿話だった。嘉納は箱根駅伝の成功を受け、IOC会長のクーベルタンに手紙を書き、あらためてマラソン復活を懇願する。はたして、その功は奏するのか? きょう放送の第20話で確認したい。

ところで、今回描かれた第1回箱根駅伝では、第7区の早稲田の走者として河野一郎(大下ヒロト)が登場した。先ごろNHKから「いだてん」の新たな出演者が発表されたが、第2部の田畑政治篇では、河野一郎を桐谷健太が演じるという。河野は新聞記者を経て政界に進出し、1940年の幻の東京オリンピックにある立場から関与したのち、1964年東京オリンピックに際しては、第3次池田勇人内閣および第1次佐藤栄作内閣で副総理兼オリンピック担当大臣を務めることになる(なお、現・外務大臣の河野太郎は彼の孫にあたる)。いずれドラマでもキーパーソンになるであろう人物だけに、今回、さりげなく登場したのが興味深かった。
(近藤正高)

※「いだてん」第19回「箱根駅伝
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:大根仁
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)

イラスト/まつもとりえこ