ラカン研究者であり精神科医の松本卓也さんが、古代ギリシアから現代に至るまで、哲学者・思想家が「狂気」と「文化創造」の関係をどのように論じてきたかの通史を著した。

「“狂った人たち”が作った芸術は世に大きな影響を与えてきました。狂気は社会からの逸脱ですが、今、逸脱できるような場所がどんどん減り、働く人々や学生もみなコンプライアンス(法令遵守)に縛られている。歴史を辿り、何故こんなに息苦しくなってしまったのかを知るヒントを得たかった。そして今どうすれば“狂気”“逸脱”により新しい文化、社会を創り出せるのか考えたかったのです」

 プラトンは「神的狂気」が詩人に詩を語らせるとし、アリストテレスは飲酒などの「人間的狂気」も良いものと考えた。近代に入り、デカルトは懐疑に懐疑を重ねる狂気の中から“理性”を取り出したが、その“理性”は“狂気”と表裏一体、“狂気”を封じ込める“御札”だった。カントも狂気に関心を持ち狂気論を発表したが、次第に狂気を“隔離”し始め、『純粋理性批判』で狂気に結界を張った。ヘーゲルは、人間は狂気を乗り越えることで高次の活動が可能になる、と考えた。が、抑圧された“狂気”は舞い戻ってくる。ヘーゲルの同級生の詩人・ヘルダーリンは“近代の病”統合失調症の最初期の罹患者だ。

「彼は大詩人シラーに父をみて、その偉大な父を一気に乗り越えようとして失敗、発症しました。このヘルダーリンをハイデガーが、不在の父、姿を見せぬ神という深淵の際にとどまり続けた芸術家として高く評価、その考えをラカン、フーコーらが発展させて20世紀半ばに“統合失調症中心主義”とその“悲劇主義的パラダイム”が完成します。統合失調症者は理性が解体するその瞬間に真理を垣間見る、というものです。これに“狂気”の文学者アルトーが反撃、デリダも、これらの言説は、ヘルダーリンを特権化し、個々の患者の特異性を見逃している、と批判した。無理もありません。統合失調症まつり上げても当事者は救われない。彼らが真理を垣間見るという言い方はもはや何の効果ももっていません」

 この“統合失調症中心主義”を脱するため、本書最終章ではポストモダンの思想家ドゥルーズの90年代の著作『批評と臨床』が参照される。ドゥルーズはかつてガタリと『アンチ・オイディプス』を著し、統合失調症資本主義の関係を検討していたが、晩年に別の道を模索し始めていた。

「彼は“文学は狂気である。だが、狂気は父ー母にかかわる事態ではない”と宣言した。“父ー母”とは神、国、言語など人が自分で選べずに生まれてくるものを指します。ヘルダーリンのように“父”に戦いを挑み、必然的に負けて発症する病、革命の挫折にも似た病として考えられたのが統合失調症でした。反対に、ドゥルーズは“表面的な”言葉遊びで子どもらを夢中にさせたルイスキャロルのような作家たちを、言葉で現実と斬り結び、自分の健康を死守した文学者として高く評価します。彼らは今だったら自閉症スペクトラムと診断される可能性が高い。類型化には慎重にならねばなりませんが、それでも僕は、自閉症の人達というのは、現実と闘っているのだと思います。不快な現実に巻き込まれないよう、“規則”の裏をかき静かに抵抗し、摩擦の中で独自の文化を創り続けているのです。その中でやがて現実の側も変容していく。彼らの方法こそ閉塞した今の時代にとり得る最良の戦略ではないでしょうか」

まつもとたくや1983年高知県生まれ。高知大学医学部卒業。自治医科大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。著書に『人はみな妄想する』『享楽社会論』『症例でわかる精神病理学』等。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2019年5月30日号)

『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』(松本卓也 著)