『シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界』(みすず書房) 著者:エヴァ・ホフマン


「絶滅」前の人々の日常を活写

「シュテットル」とは、東欧のユダヤ人たちがコミュニティを作って住んだ「小さな町」のことである。日本でもよく知られているアメリカミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(原作はイディッシュ語作家のショレム・アレイヘム)の舞台となるのも、そういった町の一つだ。シュテットルではイディッシュ語を話すユダヤ人が多様で活気あふれる生活を営み、職人も商人もいて、ユダヤ教のラビもいれば政治活動家もいた。そこでユダヤ人たちは恋愛をし、子供を育て、近隣の非ユダヤ人の住民たちと微妙な緊張をはらんだ共生関係を保ってきたのである。「共生」の振り子は、歴史の流れに翻弄(ほんろう)されながら、融和・協力と、対立・憎しみの間で何度も大きく振れた。そして、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の結果、数えきれないほど存在していた平和な小宇宙は、住民や文化もろとも消え失せてしまった。 本書が取り上げるのは、そんなシュテットルの一つ、ベラルーシとの国境近くに位置するポーランド北東部の町ブランスクである。ポーランド第二次世界大戦前、三〇〇万ものユダヤ人口を擁していたが、その大部分がナチスドイツによって「絶滅」された。そしてアウシュヴィッツ、トレブリンカをはじめとする強制収容所の大部分がポーランドに集中していた。そういったいわば「大きな悲劇」についてはすでに多くの歴史書が書かれているが、「絶滅」前にこの地の「小さな町々」でユダヤ人がどんな日常生活を営んでいたかについて、私たちは驚くほど少しのことしか知らない。

それゆえ本書の最大の魅力は、ポーランド・東欧の複雑な歴史的背景を視野に入れて流れを概観しながらも、一つの町の具体的な歴史に焦点を合わせ、そこに住んだ生身の人間たちを主役としている点であろう。著者はポーランド出身のユダヤ人で、十代で北米に移住し、以後、英語圏で作家・評論家として活躍している。本書の独創的なアプローチを導いたのは、忘れられかけていたブランスクのユダヤ人の歴史について先駆的な研究をしたポーランド人の郷土史家や、数少ないブランスクの町の生き残りのユダヤ人たちである。さらに著者は「イズコル」(ヘブライ語で「死者の追悼」の意味)と呼ばれる、第二次世界大戦直後に編纂(へんさん)されたユダヤ人の証言集を緻密に読み解きながら、町の歴史とそこに生きて死んだ人たちの姿を生き生きと浮かび上がらせる。

最近のポーランドでは民族主義的な風潮の台頭の中、反ユダヤ的な機運が強まっていることが報じられており、ポーランドにおけるホロコーストをめぐる記憶と政治の問題が決して過去の解決済みの問題ではないことを痛感させられる。この複雑な、白とか黒とか単純に裁けない問題に対する著者の姿勢は、はっきりしている。彼女は党派的な予断を避け、ステレオタイプにとらわれないで過去にまなざしを向けようとする。近隣のポーランド人の中には、ユダヤ人虐殺に手を貸した者もいたが、人間的な同情をもってユダヤ人を助けた人たちもいた。著者のメッセージシンプルで力強い--問題は複雑であり、誰かを免罪したり非難したりすれば事足れり、というわけにはいかない。私たちは想像力を働かせて、記憶を蘇(よみがえ)らせなければならないのだ。

これは現代日本にもそのまま当てはまることではないか。ちなみに「記憶を失う国民は、良心を失う」とは、ポーランドの詩人ズビグニェフ・ヘルベルトの至言である。

【書き手】
沼野 充義
1954年東京生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。2017年10月現在、東京大学教授。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。

【初出メディア
毎日新聞 2019年5月12日

【書誌情報】

シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界

著者:エヴァホフマン
翻訳:小原 雅俊
出版社:みすず書房
装丁:単行本(336ページ
発売日:2019-03-11
ISBN:4622077922
シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界 / エヴァ・ホフマン
「絶滅」前に「小さな町々」でユダヤの人々はどんな日常生活を営んでいたか