(柳原三佳・ノンフィクション作家)

JBpressですべての写真や図表を見る

 5月27日、東京地裁で注目の判決が下されました。

 罪を犯していないにもかかわらず、強盗殺人事件の“犯人”として無期懲役の判決を受け、その後、再審無罪となった桜井昌司さん(72)が、捜査にあたった国と茨城県を相手に損害賠償を求めていた裁判です。

 市原義孝裁判長は、「(捜査側の)違法行為がなければ、控訴審で無罪判決が出て早く釈放されていた可能性が高い」と指摘。国と県の責任を認定したうえで、約7600万円の支払いを命じたのです。

151年前の冤罪事件

 今から52年前(1967年)、茨城県利根町布川で起こった「布川(ふかわ)事件」。すでにニュースや特集番組、映画などでも繰り返し取り上げられているのでご存知の方も多いことでしょう。

 客観的な証拠のないまま、犯人に仕立て上げられた桜井さん(20=当時)は、結果的に、20~40歳代の約30年間を、刑務所で過ごすことになりました。
国賠判決の翌日、ご本人から私のもとに、こんなメッセージが届きました。

「検察官の証拠未提出の違法も認めた画期的勝利でした。でも、まだ確定ではないです。控訴されたら倍返しの反撃をします!」

 冤罪・・・。人生において、これほど苦しく、悔しいことがあるでしょうか。大変過酷な経験をされた桜井さんですが、ご本人は本当に明るく前向きで、現在は「冤罪犠牲者の会」を立ち上げ、冤罪をなくすための活動に取り組まれています。

 歴史を振り返れば、濡れ衣を着せられ、冤罪を晴らせぬまま生涯を終えた人は相当な数に上るのではないでしょうか。

「開成をつくった男」佐野鼎(さのかなえ)が心から尊敬していた、有能な幕臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)もその一人でした。

 佐野鼎は、自身が従者として随行した「万延元年遣米使節」で、目付(ナンバースリー)だった小栗と、約9カ月間の地球一周の旅を共にしています。身分が違いすぎるため、なかなか会話ができるような相手ではありませんでしたが、船中で時々会話ができることに感激し、そのことを日本にいる友人に手紙で報告していたほどでした。

 実は布川事件の国賠訴訟判決が下された5月27日は、その小栗が、明治新政府側から全く根拠のない罪を着せられ、一言の取り調べもされないまま河原で斬首されたまさにその日でもありました。

 1868年(慶応4年)、今から151年前の出来事です。小栗は42歳でした。

命乞いもせず、河原で斬首さる

 勘定奉行や外国奉行など、幕府で要職を歴任した小栗については、本連載『日本初の「株式会社」、誰がつくった?』http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56098
 でも取り上げた通りです。

 遣米使節としての役目を終えて日本に帰国してから、幕府崩壊までのわずか数年間に、横須賀製鉄所建設、日本初の株式会社である「兵庫商社」の立ち上げ、さらに、同じく株式会社の手法で築地に西洋風のホテルを建設するなど、目覚ましい活躍を見せています。まさに、明治の近代化の礎を作った最後の幕臣と言っても過言ではありません。

 大政奉還と戊辰戦争の後に御役御免となった小栗は、自身の地元である上州権田村(現在の高崎市倉渕町権田)に戻ったのですが、それからわずか2カ月後、新政府軍によって「追討令」が出され、一方的に抹殺されてしまったのです。

『小栗上野介』(市川光一・村上泰賢・小板橋良平著/みやま文庫)には、「首の行方」と題して、次のように記されています。

<上野介を斬首した西軍(*新政府軍のこと)は、すぐ近くの草津街道の土手の上に、家臣の首と共に青竹に刺してさらし首にし、次のような高札を立てた。
 小栗上野介
 右の者朝廷に対し奉り大逆を企て候明白に付き天誅を蒙らしむもの也>

「大逆を企て」ていた事実などなかったことは、後に明らかになっていますが、河原へ引き出された小栗は、もはや、新政府軍にことの事情を説明したり、抵抗したりしても無駄であることを悟っていたのでしょう。「何か言い残すことはないか?」と聞かれても、「何ごともない」と答え、ただ、母親や身重の妻など、婦女子にだけは手を出さないでほしいという旨の嘆願をしたそうです。

 ちなみに、佐野鼎は明治の世になってから新政府の兵部省に入り、造兵司権正准席という役を命ぜられています。実際に、小栗が尽力し、江戸に作った兵器工場での勤務を任されたこともあったようです。尊敬してやまない小栗を理不尽にも斬り捨てた明治新政府に、自身が出仕していることを彼はどのように感じていたでしょうか。

 佐野鼎はその後、わずか2年で兵部省を退き、教育の世界へとシフトしていくのですが、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)では、そのあたりの彼の苦悩も描いたつもりです。

「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」

 さて、151回目の命日の前日、2019年5月26日には、小栗の菩提寺である東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田)で、恒例の『小栗まつり』が開かれました。私も当日は現地へ足を運び、村上泰賢住職による読経を聞きながら、境内にある小栗とその家臣たちの墓に手を合わせることができました。

 東善寺には小栗に関する資料館が併設されており、斬首される前に小栗が乗せられたという駕籠の現物も展示されています。

 小栗の斬首後、この駕籠が打ち捨てられていた場所は、東善寺から高崎方面へ数キロ下った烏川の水沼河原です。ここには、非業の死を遂げた小栗公を顕彰しようという人々の熱心な活動によって、昭和7年、顕彰慰霊碑が建てられました。

 石碑にはこう刻まれています。

「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」

 小栗上野介や佐野鼎が、もし、今の世に生きていれば、「布川事件」国賠訴訟の判決ニュースをどんな思いで見たことでしょう。

 桜井さんのように、命あるうちに冤罪を晴らすことはできませんでしたが、今を生きるわれわれが真実の歴史を語り継いでいくことこそが、小栗の名誉回復と雪冤、そして真の供養になるのかもしれません。

 榛名山や伊香保へドライブに行かれた際には、ぜひ、小栗上野介の菩提寺である東善寺と、終焉の地に建てられた顕彰碑に立ち寄ってみてください。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  あの美女も!北朝鮮ミサイル発射の陰で消えた幹部

[関連記事]

NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

万延元年遣米使節団の正使・新見正興(中央)、副使・村垣範正(左)と目付の小栗上野介(右)