スピードスケートから転身、ロードレース日本人女子プロ1号・沖美穂の競技人生

 22歳でスピードスケートから自転車の世界に転向。欧州のロードレース界で日本人女子プロ第1号となり、3度の五輪出場を果たした沖美穂。現役時代、アスリートとして常に勇往邁進した彼女は、今もなお、新たな道を切り開く。

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「“もう、スケートをやめよう”。そう決意した時に浮かんだのが、かつて見た、自転車レースでした」

 シドニー、アテネ、そして北京と3度の五輪出場。そして、欧州ロードレース界で8年間、日本人女性プロ第1号として、走り続けた沖美穂。彼女は21歳まで、小学生の時に始めたスケートで、オリンピックを目指していたという。

同級生に清水宏保、先輩の岡崎朋美さん、堀井学さんなどがいたので、オリンピックは現実味のある目標としてありました。

 でも、いつの年代でもギリギリのところで日本代表には選ばれなかった。実業団に進んでからは伸び悩み、日々、スケートに対する情熱を失っていきました。最後は“なぜタイムが出ないのか”という苦しみしか残っていなかった」

 そんな中、所属チームの近くで開催された自転車レースを観戦。当時、スケート界の、そして自転車界のスター選手だった橋本聖子氏がエキシビションで出走すると聞き、駆け付けた。その時、見聞きした光景に、衝撃を受けた。

「照明に反射してキラキラと光るオイルを塗った脚、自転車ディスクホイールから響き渡る“ゴオォォォ”という音。私には、すべてがかっこよく見えた」

 “もう、スケートをやめよう”。翌年、そう決意した沖の脳裏には、ケイリン選手たちの姿があった。「どうすれば、自転車を始められるのか?」。高校時代の恩師を通じて、橋本氏にコンタクトをとると、本人から連絡がきた。「自転車やってみたいなら1週間、うちの合宿にきたら?」。その言葉を受けて、沖は22歳で、第二の競技人生を踏み出す。

「昔ですから科学的なトレーニングがあるわけでもなく、毎日、倒れるまで練習をした。自転車の選手はこんなにもしんどい練習をしているのかと驚いたが、橋本さんの元へ行った時から“やらない”という選択はありませんでした」

五輪出場から欧州挑戦の転機「ヨーロッパに行かないと意味がない」

 ロードサイクリストに転向して間もなく、沖は頭角を現す。2年後の1998年、第1回全日本自転車競技選手権大会で優勝。あっという間に国内では敵なしのポジションへと駆け上がり、00年、子どもの頃からの目標だった五輪に出場する。

「まさに夢が叶った瞬間。振り返ると、シドニー五輪を決めた時が一番うれしかったし、一番緊張もした」

 しかし、その高揚感はスタートラインまでだった。

 ロードレースは年間を通して、ほぼ顔触れでレースを競う。選手らはそこで、互いの走りの特徴を知り、走りの得意不得意やコースの特徴、天候を見つつ、駆け引きをしながらレースを展開する。日本で走っていた沖は、一人ふたりの選手の名前と顔が一致する程度で、「どう走っていいのかまったくわからなかった」と振り返る。

ロードではライバルとも協力し合う場面が多々あります。例えば集団から遅れそうになれば“大丈夫”と背中を押したり、話し合って集団での役割をローテーションしたりもする。また、長いレース中、食料を分け合うこともあるし、水のボトルを落とした選手がいれば、自分のボトルを手渡すのも普通です

 でもそれができるのも、普段から同じレースを戦い、交流があるから。 “どんなに練習を重ねても、国内で一生懸命走っているだけでは絶対に世界では勝てない。競技を続けるならヨーロッパに行かないと意味がない”。オリンピックを走りながら、そう考えていました」

 翌年、01年8月。沖はテストライダーとして、フランスに渡る。間もなく、フランス籍のCA・マンテ・ラ・ヴィル・78と契約。日本人女子選手が欧州プロチームと契約したのは、これが初めてのことだった。

「でもフランスでは言葉の通じないツラさを痛感。チームメートとは交流できない、テレビを観ても何を言っているのかわからない。毎日が本当に孤独でした。それでも、自転車に関してだけは、やるべきことがわかった。帰国する時は引退する時だと決めていたので、ものすごい集中力で練習に取り組みました」

 2002年5月、フランスの歴史ある大会、トロフェ・デ・グランプールで優勝。周囲の目が一変し、オファーが殺到した。「英語もろくに話せないのに、じゃんじゃんオファーの電話がかかってきて大変でした(笑)」。そして、世界一といわれるオランダの名門・ファームリッツと契約する。

「やはり強豪チームは勉強になる。いい練習ができていたし、乗れば乗るほど、目に見えて上達した。引退するまでの8年間、ヨーロッパチームで走っていたけど、常に力が伸びていることを感じていたので、すごく楽しかったですね」

日本と異なるスポーツ選手のあり方「競技は人生の通過点、自転車一本は私だけ」

 ヨーロッパでの選手生活は日本のそれとはまったく異なっていた。スケート時代から、朝練に始まる毎日の長時間のトレーニングや練習は当然だったが、欧州のチームでは選手たちはときに午後からゆっくりと練習をスタート。練習後はカフェに集合し、お茶を飲みながらディスカッションをするのがいつものことだった。

「日本にいた時は練習で毎日ヘトヘト。練習→食事→寝る! の繰り返しでした。ところがここで寡黙に練習していたのは、私とロシア人選手だけ(笑)。練習中に選手同士が談笑することもあって、“練習中も笑顔禁止”の環境で育ってきた私はすごく驚いた。

 カフェでのミーティング後は、ファッションや恋愛、夫婦生活に子育ての話に花が咲く。彼氏ができても、付き合っていることを監督にバレないようにビクビクしていた日本の環境とはまったく違った」

「美穂は自転車競技を終えたら何をするの?」。ある日、チームメートに投げかけられた一言にも、動揺した。「何って……何も考えていないけれど……」。そう答えたら、チームメートたちにえらく驚かれた、と笑う。

「当時のチームメートは18歳~40代まで。教員や弁護士、建築士の免許を持つ者、医者や経営者、マッサージ師を目指して学ぶ者。子育ての真っ最中だった選手もいて、誰もが将来のビジョンを明確に描いていました。皆にとっての自転車は人生の通過点。自転車一本で考えていたのは、私だけだった。

 自転車も真剣、人生も真剣。でも、スポーツはあくまで生活の一部であり、すべてではない。今まで知っていたスポーツ選手のあり方と、ゼンッゼン違うなと思いました」

 その後、欧州で着実に経験と実力を積み上げた沖は、順当にアテネ五輪の出場権を獲得。大会の翌年、イタリアチームへ移籍すると、「次の北京も目指したい」とコーチに伝えた。

「“それで、いつまで自転車をやるの?”と言われました。僕は自転車のことはサポートするけれど、その先の人生はサポートできない。辞めたら何をするか考えているのか? と」

 何も考えていない、と答えると、北京までの4年間はそれを考える時間にするといい、と提言。イタリアチームで競技を続けながら、沖は“選手の先の道”を探った。

コーチアドバイスに従い、自転車界以外の人とも交流するなか、やはり自転車に関わっていきたいという想いを強くした。具体的に何をすればいいのかは、なかなか見えてこなかったけど、次第にヨーロッパで指導の勉強をしたいと思うようになりました」

 08年、北京五輪レースを終えて帰国すると、翌日には、次への挑戦の準備に入った。そして、同年10月ジャパンカップサイクルロードレースで10回目となる優勝を決めると、約12年に渡る競技生活を終えた。

引退後も常に新たな道を切り開いてきた沖が見つめる未来

 09年5月。現役を引退し、イタリアに渡った沖は、現役生活の最後に所属していたセレ・イタリアで、研修生として働き始める。

「研修はスタッフの仕事を知ることから始まりました。日々、選手の体調を管理し、補給食を作り、自転車を洗い、運ぶ。レース時はホテルに荷物を運ぶのも、レース服を準備するのも私の仕事でした。コーチの計らいで、ツアー先で一緒になった他国のチームでも研修。選手時代は挨拶を交わす程度だった選手やチームとも交流が深まり、一気に人脈が広がりました」

 コーチングを学びながら、スカウトも担当した。だがある日、師事するコーチから、「選手のアドバイザーやマネジメントの方が、あなたらしい仕事だと思う」とアドバイスを受ける。

「当時、海外チームに所属する日本の女子選手は私を含めて2人しかいませんでした。つまり、日本の指導者は海外でのレースマネジメントや、月経の対応を含む女子選手のコンディショニングの経験も非常に少なかった。世界中をツアーで回るロードでは、例えば部品が破損すれば、他のチームを回り、譲ってもらう交渉も必要になる。私には人脈がある。確かにこの仕事ならば、私は日本の役に立てると思いました」

 帰国後、競輪の統括団体であるJKAとアドバイザリー契約を結ぶ。トラックの代表チームにつき、これまで日本のチームにはなかった、新しいポジションを自ら構築した。

ホテルの宿泊や食事の手配も仕事の一つ。世界中、どこでレースを開催されても、現地での人脈をたどり、イギリスドイツといった強豪チームと、同じホテルになるように交渉した。強いチームの選手は、普段どう過ごしているのか、何を食べているのか。それを間近で見ることも、日本の強化につながる」

 その後、13年には日本競輪学校初の女性教官に就任。12年にスタートした、ガールケイリンの選手育成に携わる。4年後の17年4月には「経験を伝える上で欠けているアカデミックな視点を学びたい」と順天堂大学大学院へ進学。今春、大学院を修了した。

 現在は再び、自転車の現場に復帰。常に新たな道を切り開いてきた彼女は今後、自分の経験と知識を、選手の育成や強化、そして支援に生かしていきたいと話す。

「私は、人生の目的や広い視野、そして多くの友人もここで得られた。真剣勝負のなかでも人と協力し、分かち合い、認め合う。自転車を通して、切磋琢磨するということ、そしてスポーツの素晴らしさ、楽しさを知った。自転車を始めて本当に良かったと思います。

 最初は好きで始めたスポーツも、つらいばかりでは続きません。選手が気持ち良くプレーできる環境を整えながら、自転車競技の素晴らしさを伝え、発展に寄与できたらうれしいですね」

■沖 美穂(おき・みほ)

 1974年3月8日北海道出身。小学2年からスケートを始め、22歳でスピードスケートから自転車競技に転向。00年、シドニー五輪で個人ロードレースに出場。その後、同種目でアテネ、北京の3大会に出場する。02年、日本人女子選手として初めて、欧州プロチームと契約。08年に現役を引退。イタリアで2年、指導者として学んだ後、帰国。競輪の統括団体であるJKAアドバイザリー契約を結び、13年~17年、日本競輪学校初の女性教官を務める。2019年3月順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科博士前期課程修了。現在はJKA自転車競技振興室で後進の育成や自転車の普及に務める。JOC女性スポーツ専門部会員、JCF女子育成部会員。順天堂大学健康科学部助手(非常勤)現役時代の国内での主な成績は全日本自転車競技選手権大会11連覇、ジャパンカップサイクルロードレースでは10度優勝。2006年UCIワールドカップ第1戦準優勝(2019年4月現在アジア人過去最高)。(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライターサッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビューや健康・ダイエットトレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌などで編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(共に中野ジェームズ修一著、サンマーク出版)、『つけたいところに最速で筋肉をつける技術』(岡田隆著、サンマーク出版)、『カチコチ体が10秒でみるみるやわらかくなるストレッチ』(永井峻著、高橋書店)など。

日本人女性プロ第1号として、走り続けた沖美穂【写真:Getty Images】