2006年に中国に移住し、蘇州、北京、広州、その後上海に約8年在住。情報誌の編集長を経て現在はフリーランスとして活躍する大橋史彦さん。今回は番外編として、以前から交流のあった旅行作家の下川裕治さんへのインタビューから、バングラデシュでの活動をレポートします。

 泥沼化の様相を呈している米中貿易戦争により、中国で米国向け製品を製造している企業のなかには、生産を他国へ移管する動きが出ているが、「チャイナプラス・ワン」はいまにはじまったことではない。
 
 特に付加価値の低い軽工業は、繊維業を中心に多くが生産拠点を移してきた。移転先としては、人件費の安いベトナムミャンマーといった東南アジアが中心だったが、バングラデシュを選択した企業も少なくない。

国民の88.4%がイスラム教徒

 世界でも貧しい国のひとつに数えられるバングラデシュは、外資の流入で高い経済成長を続けている。しかし、その経済発展に取り残された地域がある。コックスバザールもそのひとつだ。

 バングラデシュは、イスラム教を信奉するベンガル人が多数を占め、外務省ホームページによれば国民の88.4%がイスラム教徒だが、コックスバザールは、仏教徒であるラカイン族が暮らす町だ。旅行作家の下川裕治さんは、この地で28年にわたり、ラカイン族のための小学校運営の支援を続けている。

 下川さんの著書は、私のような40代以上のバックパッカー経験者であれば、ほとんどが一度は手にしたことがあるだろう。私も学生時代、夢中になって読んだ時期がある。当時、まだ行ったことのないアジアの国々の旅行記を読んでワクワクしたものだ。中国については苦言がほとんどだったが。還暦を過ぎたいまでも、東南アジアの鉄道を乗り潰したり玄奘三蔵が歩いたルートをたどったりと、過酷な旅を続けておられる。

 そんな憧れだった下川さんとは、上海でフリーペーパーの編集の仕事に携わっていた時、一緒に仕事をしていたライターの紹介でお会いするようになった。たいていは酒の席だったが、下川さんの著書『アジアハローワーク』(ぱる出版)や編集をされているガイドブック『歩く上海』(キョーハンブックス)に執筆参加させていただいたこともある。
 
 そんな縁もあり、今回、下川さんにコックスバザールや学校支援について話を聞いた。

大国の論理で分断されたラカイン

大国の論理で分断されたラカイン族

 バングラデシュの南東、ベンガル湾に面するコックスバザールは、ミャンマーとの国境に近い。日本人にはあまり馴染みがないが、いったいどんな町なのだろうか。

「コックスバザールは目立った産業のない町ですが、ベンガル人にとっては観光地。世界最長といわれる天然ビーチが有名ですが、ムスリムは肌を露出できないので、海水浴をしている人は皆無。むしろ人気なのは、ラカインマーケットという通りです。

 ラカイン族の店が並んでいるだけなのですが、なぜ人気かというと、店員のほとんどが女性なんです。ふだん親族以外の女性と接することのできないムスリムの男たちが、堂々と女性と話をすることができるわけです。ある意味、見世物ですが、彼女たちもそれを自認しています。

 コックスバザールでは祭りがしょっちゅう開催されていますが、ベンガル人が会場を取り囲み、ものすごい熱気です。ラカイン族は、そういう目に晒されながら生きているのです」

 好奇の目で見られるのは少数民族の宿命かもしれないが、ラカイン族はしたたかさも持っているようだ。ラカイン族というとロヒンギャ問題の影響でミャンマーの印象が強いが、バングラデシュで暮らすラカイン族は、それとは違うのだろうか。

「かつてイギリスインド帝国が統治していたベンガル地域とイギリス植民地ミャンマーが支配するラカイン地域には、明確な国境はなく、その一帯にラカイン族が暮らしていました。ところが、ラカイン族に手を焼いていたイギリスは、彼らが暮らすエリアの真ん中に国境を引いてしまいました。どちらの国で生きていくか、究極の選択を迫られたのです。

 ほとんどはミャンマー側に行きましたが、基盤を持っている人たちはベンガル側に残りました。ミャンマーが軍事政権になると、バングラデシュに逃れてくるラカイン族もいましたが、それでもミャンマー側には約30万人が暮らし、一定の地位を得ています。

 一方、バングラデシュ側には約2万人しかいません。大した産業もないため、コックスバザールにいるラカイン族の収入の柱は、所有している土地を売るくらいしかありません。土地は無限にあるわけではありませんし、そもそも持っていない人も多いので、貧富の差は非常に激しいです」

 バングラデシュの中でラカイン族は、明らかなマイノリティなのだ。民族だけでなく信仰する宗教も違うため、迫害までいかないまでも、どうしてもベンゲル人による不道理がまかり通ってしまう。

「ラカイン族の集落には3塔のパコダ(仏塔)がありましたが、それが建つ斜面に、ベンガル人が違法建築で家を建ててしまいます。それによって、1塔のパコダが倒壊してしまいました。住民に抗議しても『代わりの土地をよこせ』と開き直る始末。行政に頼ろうとしましたが、担当者もベンガル人なので、曖昧な対応を繰り返すばかり。

 さすがに仏教団体も問題視し、いまは近くまで入れないようになっていますが、自分たちのアイデンティティを守っていくことは、コックスバザールにいるラカイン人に課せられた使命なのです」

 その一方で、ミャンマー側でラカイン族と衝突しているロヒンギャの多くが難民としてバングラデシュに流入しているという現実もある。

難民キャンプのあるクトゥパロンはコックスバザールから近いので、行ってみたのですが、支援するNPOには、ラカイン族の人もいました。彼らにしたら複雑でしょう。同じ民族に追い出された異教徒の世話をしているわけですから」

 大国の論理と歴史に翻弄されてきたラカイン族は、現在もその隘路から抜け出せずにいる。

ジャーナリストの死がきっかけではじまった学校支援

ジャーナリストの死がきっかけではじまった学校支援

 世界各地を飛び回る下川さんが、なぜそのコックスバザールで学校運営を支援しているのか。話は28年前に遡る。

 1991年日本人ジャーナリストが命を落とした。森智章氏だ。ミャンマーの民主化運動に参加した学生が軍に追われ、隣国バングラデシュに逃げこんだ。その取材で国境地帯に入った森氏は、熱帯熱マラリアに罹ってしまう。
 
 マラリアは、すぐに適切な治療を受ければ助かる感染症だが、国境地帯に十分な医療設備はなかった。森氏は、31歳という若さで命を落としてしまう。森氏は人望が厚かったようだ。

「彼自身はジャーナリストであり、援助とは無縁でした。そのために国境地帯に入ったわけではありません。しかし、遺族や友人たちには、何か形を残したいという思いがありました」

 援助が目的ではないものの、森氏は、ラカイン族を追いかけ続けていた。大国の論理に翻弄される少数民族を広く知らしめたいというジャーナリズム精神があったのだろうか。そこで持ち上がったのが、ラカイン族のための学校運営だったのだ。

「ラカイン族はベンガル語が得意でないので、大学レベルの高等教育を受けられる人は稀です。バングラデシュはベンガル人の国なので、その中に入っていくのは難しい。貧しいラカイン族がベンガル人社会の中で生きていくには、教育が必要だと考えたのです」

 NGOサザンペンを立ち上げ、代表には、森氏の友人だった下川さんが就いた。賛同したのは30数名で、約300万円が集まった。校舎は、ドイツNPO法人が2年前に建てものものを引き継いだ。同法人は、資金繰りがうまく行かず撤退することになったのだった。

 下川さんは当局からの許認可取得、教師探し、制服作り、学生集めに奔走した。授業料が無償のため、あっという間に100名以上の生徒が集まり、校長・教師9名体制でウシュコラ小学校は開校したのだった。

 それから28年、下川さんはコックスバザールに通い続けてきたが、学校運営が簡単ではないことを思い知らされる。

(後編へ続く)

(文/大橋史彦)

雨季のコックスバザール【下川さん提供】