前回に引き続き、江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫の過酷なロシア漂流物語についてご紹介します。

アムチトカ島

光太夫一行が着いたのは、北太平洋アリューシャン列島の中のアムチトカ島という島でした。海獣の皮などを身に纏った先住民のアレウト人と出会った時は、殺されるかもしれないという危機感をも持った光太夫一行でしたが、それは杞憂であり、光太夫たちは言葉も通じないアレウト人と共に島で暮らす事になったのでした。

アムチトカ島の風景 Wikipediaより

のちに分かった事でしたが、島にはラッコなどの海獣の毛皮をロシア人が多く滞在しており、交易という名目でアレウト人を隷属して島の資源を搾取していたのです。

未開のアムチトカ島の環境は決して整ったものではなく、食べ物も粗末で気温は日本と比べ物にならないほど寒く、服も動物の毛皮を着るしかないといった状態でした。漂着時点で16人だった神昌丸の乗組員はこの島で次々と命を落とし、9人にまで減ってしまいました。

「せっかく陸に上がったのにこのままでは全滅してしまう」

危機感を抱いた光太夫たちは、生き延びるために死に物狂いで島の言葉とロシア語を覚え、アレウト人とロシア人と交流を深めるのでした。

島から脱出

彼等にはたった一つ、希望がありました。それはロシア人から聞いた「3年経てばロシアの船が迎えに来る」という言葉でした。島のロシア人は3年交代で島に滞在しており、彼等の厚意で次に船が来たら光太夫達も一緒に乗せてもらえる事になったのです。そして運命の3年目、本当にロシア船は迎えに来ました。

助かった!

一同の狂喜乱舞もつかの間、天候が悪化し、希望の船は目の前で難破。意気消沈した光太夫たちは、もはや船を待つ事を諦め、ロシア人たちと手を組んで0から船を作る事を決めたのでした。

難破船などから使えそうな釘や流木などの廃材を集め、ようやく彼等はアムチトカ島を抜け出したのです。

漂着から4年。生きるか死ぬかのサバイバル生活の中で、一同の顔はひどく年を取ったような苦渋に満ちた表情に変貌していました。

(その3につづく)

参考文献山下恒夫 『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』岩波新書 岩波書店

 
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