前回に引き続き、江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫の過酷なロシア漂流物語についてご紹介します。

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ついに帰国へ

その日から4ヶ月、またもや音沙汰のない苦しい日々を送ったのち、ついに念願の日がやって来たのです。ペテルブルクに呼び戻された光太夫は、「日本漂流民の帰国の願いを許す」という待ちわびた沙汰をついに受けたのです。

この裏では、日本漂流民の送還が日本との貿易のきっかけになるかもしれないという思惑もあったのですが、兎にも角にも光太夫らは帰国できる事になったのです。

年が明けて寛政4年(1792)9月13日、光太夫らはオホーツク港を日本に向けて出航しました。

ただし、凍傷で片足を失った庄蔵は、もはやこの体で日本に帰国する事は不可能と判断し、早い段階でロシア正教に帰依していました。

また、新蔵という青年も1度病に伏せり、その時に帰国を諦め庄蔵に倣って洗礼を受けました。その後快癒しますが帰依してしまった以上は帰国できない運命を受け入れ、2人で日本人学校の教師としてイルクーツクに永住する事に決めたのでした。

こうして、光太夫含め小市、磯吉の3人のみが日本に送還されました。漂流から実に、9年9ヶ月の歳月が流れていました。

日本でのその後の生活

日本に還ったものの、年長の小市は根室で壊血病のため死去。残る光太夫と磯吉は無念な思いを胸に抱えつつ、江戸に送られました。彼等は11代将軍徳川家斉に謁見し、10年に及ぶ漂流生活の詳細と、日本をとりまくロシアほか海外諸国の情勢を語りました。

幕府は2人がもたらした情報を受け、海外諸国に対して防衛意識を強めたといいます。2人は聞き取り調査ののち、小石川の薬草園内に住まいを与えられ、そこで新しい妻を娶って生涯暮らす事になりました。

2人を解放してしまうと、彼等が10年に渡って見聞きしたロシアの情報が周りの人々に漏れて鎖国政策に悪影響を及ぼすと考えられたのと、いざという時には彼等をロシアとの通訳に利用したいという幕府の思惑がありました。

ただし、伊勢に帰りたいという2人の願いは一応聞き届けられ、1度だけ2人は伊勢への帰省を許されたといいます。

故郷・白子湾 Wikipediaより

反対に、江戸に家族が訪ねてきた事もあったようです。

その後、 大黒屋光太夫は文政11年(1828)に78歳(年齢は数え年)で、磯吉はその10年後、75歳という長寿で生涯を閉じました。どんな状況でも絶望せず、強い意志をもって行動したからこそ迎えることのできた、祖国日本での穏やかな最期でした。(終)

参考文献山下恒夫 『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』岩波新書

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