2019年4月24日ロシアウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナ東部の「人民共和国」住民に対するロシア国籍付与の手続きを簡素化する大統領令に署名した。

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 ウクライナ東部ドンバス地域の一部は分離独立を目指す「ドネツク人民共和国」および「ルガンスク人民共和国」を名乗る勢力の占領下にあり、今日に至るまでロシアの支援を受け存続している。

 今回のプーチン大統領の決定は、対象人口が300万人以上と膨大で、大きなインパクトが予想される。6月14日には早くもこの大統領令に基くロシア国籍付与が開始されている。

 政権交代したばかりのウクライナのみならず和平を仲介する欧州連合(EU)諸国から強い反発を呼び起こしており、和平実現のハードルは高くなるばかりである。

人民共和国の現在

 2015年2月、ウクライナ軍はロシアの軍事支援を受けた人民共和国側に大敗、仲介に入った独仏とウクライナロシアとの間で「ミンスク合意」が調印された。

 これ以降、大規模な軍事衝突は避けられており、ウクライナ側との境界線を挟んで両「人民共和国」が1万5000平方キロあまりのウクライナ領を実効支配し続けている。

 人民共和国の発表によれば、域内には計370万人の住民がいるが、人民共和国を国家承認している国は存在しないため(ロシア政府すら国家承認していない)、彼らは国際社会的には「ウクライナ国民」のままである。

 両「人民共和国」政府は、それぞれの国民パスポート(国内身分証)を発給しているが、住民はウクライナ国民パスポート保有を続けていた。

 ウクライナ国民である限り、ウクライナ・人民共和国間の日常的な往来のみならず、EU側へビザなし渡航が可能であるからだ。

 もちろん、ウクライナパスポートを提示すれば、ロシア側へもウクライナ国民としてビザなし渡航が可能だ。

 域外出稼ぎに頼る住民にとってウクライナパスポートは命綱であり、人民共和国政府はパスポート破棄を推奨していないほどである。

 2018年2月、プーチン大統領は、両人民共和国パスポートロシア領内で効力を持つ公式書類として認める大統領令を出した。

 つまり、ウクライナ国民パスポートがなくても、人民共和国パスポートロシア側に渡航・就労可能となったのである。

 それに続くのが今年4月の大統領令である。この大統領令によれば、人民共和国の住民は、ロシア居住歴なしに人民共和国内の窓口を通じてロシア国籍を申請できる。

 さらには事前のウクライナ国籍離脱手続きも不要、ウクライナ国民パスポートロシア語訳翻訳証明も不要、申請から3か月以内に発給、という破格の優遇ぶりである。

 受領に際してはウクライナ東部と国境を接するロシアロストフ州の内務省移民局に出向く必要があるが、当該施設は拡充済であり、万全の受け入れ態勢が敷かれている。

 人民共和国政府は「ロシアへの統合の第一歩」としてこの措置を歓迎しており、域内に申請窓口を設けて、住民のロシア国籍受領を後押ししている。

 人民共和国政府としては、域内ロシア国民が増えれば、ロシア政府から見捨てられる可能性が減り、究極的には悲願のロシアへの編入に近づくことになる。

ロシア政府の狙い

 ロシア政府は2014年にクリミア半島でも住民にロシア国籍を大量に付与したが、ドンバスとは根本的に原理が異なる。

 ロシアクリミアを自国領に「編入」したため、クリミア半島の旧ウクライナ国民は必然的にロシア国民となる。

 一方、ドンバスの両人民共和国をロシア政府は「ウクライナ領」と見做しており、編入どころか国家承認の構えすら見せていない。

 「ミンスク合意」交渉時においても、プーチン大統領が要求したのは「ウクライナ領内での自治権」であり、分離独立や編入ではなかった。

 ではなぜロシア政府は、他国領に住む他国民にロシア国籍をわざわざ付与しなければならないのだろうか。

 まずプーチン大統領令がウクライナの政権交代時にぶつけられたことが注目される。

 ゼリンシキー氏は大統領就任演説において、自らの支持率を下げてもドンバスの完全な停戦を実現させると宣言し、対ロ強硬一辺倒だった前任者と違うことをアピールした。

 しかし、何らかの緩和策や譲歩を意図しているのか、はっきりしていない。

 またウクライナ議会で「ウクライナ語の国家語運用法」が可決されたタイミングとも重なる。

ウクライナ語化はウクライナ領内のロシア語話者の権利侵害につながる」として、ロシア政府は強く反発している。

 もちろん、人民共和国はウクライナ領であるからウクライナ語化の対象となる。

「国籍付与の簡素化はミンスク合意と矛盾する」と批判したドイツのアンゲラ・メルケル首相に対し、プーチン大統領は「ウクライナ語法こそが、この地域に特別な地位を与えるとのミンスク合意に反する」と反論しているように、ウクライナ語化法の意趣返しの性格もあろう。

 ミンスク合意の履行に関する交渉でロシアは新たな交渉カードを1つ増やすことになる。

 ロシア政府の公式な説明によれば、国籍付与の簡素化は「人道」目的にあるとしている。

 すなわち、ドンバス住民は、ウクライナの首都キエフで2014年2月に発生した政権転覆(マイダン革命)の結果、脅威に晒されており、さらには経済封鎖などを通じて人道的にも危機的状況にあり、こうした状況を緩和させる目的があるというのである。

 これまでも、ロシア政府は非常事態省を通じて衣料品、食料などを満載したトラック集団(「人道援助コンボイ」)を毎月派遣しており、両人民共和国の医療・食糧状況を下支えしてきた。

 また、人民共和国の住民は、他のウクライナ国民に比べ、ロシアでの就労可能期間が長く設定されてきた。

 ロシアにおいても建設現場やサービス産業における人手不足は域外労働者が埋めており、ロシア語を母語とするスラヴ系民族は歓迎される傾向にある。

 ロシア国民になればロシアにおける労働・居住が一層容易になることもあり申請が殺到している。

 ロシア側の対応は早く、6月14日ロストフ州でロシアパスポート給付が開始された。これに対し、ウクライナ政府はロストフ州で発給されたロシアパスポート所持者を入国禁止とする措置をとっている。

「アブハジア方式」

 ロシア政府が他国の住民に国籍を与える政策は、実はソ連崩壊直後から実践されてきた。

 例えばジョージアから分離独立状態にある「アブハジア共和国」と「南オセチア共和国」、同様にモルドヴァのドニエストル川左岸を実効支配する「沿ドニエストル共和国」の住民に対し、ロシア国籍を与える政策を採ってきている。

 ウクライナ領だったクリミア半島でも1994年にごく短期だが同様の政策が採られた。

 彼ら「ロシア民族」「ロシア系住民」「ロシア語話者」「同胞」は「ロシアの世界(ルスキー・ミール)」に属しており、ロシア政府が保護すべき対象であると見なされてきたのである。

 彼らに国籍をばら撒くことで万単位の「ロシア国民」が誕生、ロシア政府に明確な介入理由を与えることになる。

 実際、2008年の南オセチア紛争の際、ロシアが介入に用いた名目の一つがまさに「自国民の保護」であった。

 国際社会にとって危惧すべきことは、保護の対象範囲がはっきりしないことである。

 例えば、アブハジア、オセチアはロシアと境界線を接しているが住民の大多数は非スラヴ系民族である。

 沿ドニエストルの住民はほとんどがロシア語話者であるがロシア民族の比率は3割に過ぎず、地理的にも沿ドニエストルロシア国境から直線距離で500キロも離れている。

 中央政府の主権が及ばない機会を利用できれば「ロシア国民」を発生させられることになる。

 理論的には、エストニアのイダ=ヴィル県のロシア系住民、さらにはニューヨークブライトン・ビーチに住むロシア系米国人もロシア政府の「保護の対象」に設定できよう。

 こうした「保護」を口実とした介入の実践例は大戦前の「ズデーテン地方ドイツ人」や「在留邦人保護」など枚挙にいとまがなく、使い古された外交手段である。

 なぜロシア政府はドンバス住民に「ロシア国籍」を与えこそすれ、編入や国家承認を目指さないのだろうか。

 人民共和国の住民数は先のアブハジア、南オセチア沿ドニエストルより1桁多くロシア国内人口の2.5%に相当する。

 編入した場合、新たに加わった数百万の「ロシア国民」への年金支給や公務員給与、そしてインフラ復興などで多額な財政支出を恒常的に強いられることになる。

 編入・国家承認がなければ、ウクライナ側に押しつける選択肢を残すことができる。

 世銀はロシアGDP(国内総生産)成長率を2019年1.4%、2020年1.8%、2021年1.8%と予測しているように、ロシア経済はしばらく低成長が続き、併合は大きな負担となる。

 ロシアの世論は、パスポート付与の簡素化について7割近くが賛成しているもののロシア領への編入賛成は3割に満たず、ドンバスでの散財が自らの年金支給に優先されることに不満を感じている。

 この場合、クリミア併合時に見られたロシア世論の高揚、プーチン支持率アップは期待できないかもしれない。

 一方で、ドンバス編入は、ウクライナとの国境問題を作り出しウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟を困難にさせるが、これは既にクリミア併合で達成されている。

 ロシアがドンバス地域の編入に踏み切らないのは、コストに対するリターンが少ないと計算されていることを意味している。

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ロシアパスポート申請窓口に殺到するドネツク住民 (ドネツク人民共和国通信社: https://dan-news.info/)