(川島 博之:ベトナム・ビングループ主席経済顧問)

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 中国企業が工場をベトナムなど東南アジア諸国に移している。報道によると、中国が今年(2019年)の1月から5月までの間にベトナムへ投資した金額は15.6億ドル、それは前年同期の約6倍。2018年のベトナムの成長速度は7%を上回り好調であったが、中国からの投資はそれをさらに加速させている。ベトナムは好景気に沸いている。

 言うまでもなく米中貿易戦争の影響である。中国企業は工場を東南アジアに移すことによって、米国の制裁関税を逃れようとしている。

 ただ、ベトナム側はこのような事態に少々困惑気味である。これまでも米国との間で大きな貿易黒字を計上しているために、さらに上積みされれば、トランプ大統領ベトナム製品の関税もアップさせると言い出しかねないからだ。ベトナム政府は事の成り行きを慎重に見守っている。

共産党が工場の海外移転を黙認する理由

 それにしても、中国企業の敏速な動きには感心させられる。わが国では、米中貿易戦争が勃発しても中国市場は魅力的だから、中国が困っている時にこそ投資すべきだなどと言う意見もあるが、当の中国は脱兎のごとく東南アジアに工場を移している。

 しかし、なぜ中国政府は企業が海外に工場を移すことを阻止しないのであろうか。そのような行為を放置していれば、国内の雇用が空洞化し失業率がアップする。その姿は円高に苦しんだ1980年代の日本に重なる。

 失業率が上昇すれば、どこの国でも政治問題化する。そうでなくてもウイグルチベットの弾圧問題、天安門事件の総括など多くの課題を抱える中国が、さらに失業という厄介な問題を抱えることになる。共産党は工場の海外移転に対して中止を命じてしかるべきであろう。

 しかし、これまでのところ、そのようなニュースには接していない。自由な国アメリカのトランプ大統領でさえ、米国企業が海外に移転することに文句を言っている。一方、絶対的な権力を握っているはずの中国共産党が、工場の東南アジア移転に対して“だんまり”を決め込んでいる。

 その理由は、「共産党」と称しながら、中国共産党が企業経営者など富裕層の利益を代弁する政党になっているからだ。

 中国企業は米国への輸出によって利益を得てきた。経営者にとって米中貿易戦争は死活問題。だから関税が低い国に工場を移す。当然の発想である。共産党は彼ら企業家の味方だから、それを阻止しない。

 ベトナムは中国から近く賃金も安い。ただ歴史的に仲が悪く、1979年には中越戦争を戦い、現在も南沙諸島問題を抱えている。そんな国でも儲かるのなら工場を移す。そのことによって国内の失業率が上昇して社会不安が生じても、それは企業家には関係ない。社会不安は共産党が武装警察を使って抑えるべきだ。企業家はそう考えているのだろう。

なぜ今、毛沢東の『持久戦論』なのか

 そんな中国で毛沢東の書いた『持久戦論』(1938年刊行)が注目を集めている。貿易戦争の長期化が予想されることから、約15年も続いた「抗日戦争」(日中戦争)が思い出されたのだと思う。毛沢東はその書物の中で最終的な勝利のためには撤退も厭わないと説く。ゲリラ戦を展開し、日本軍を疲弊させる。そんな戦略である。

 当時、戦争とは正規軍どうしが戦うものとの考えが一般的であった。そんな中で撤退も厭わず、長期のゲリラ戦を志向する毛沢東の考えは斬新であった。そして、毛沢東は持久戦を戦い抜くことによって、中華人民共和国を樹立することに成功した。中国人はこの成功譚から学びたいようだ。だから『持久戦論』が読み返されている。

 だが、過去の成功譚にすがることは、往往にして大きな間違いにつながる。日本海軍日本海海戦の勝利が忘れられず、大艦巨砲主義にこだわり、先の戦争に負けた。

 現在と日中戦争の時代では、農民(農民戸籍を持つ者:約9億人)の共産党に対する支持が全く異なる。抗日戦争当時、土地を持たない多くの農民は共産党を強く支持した。それが毛沢東ゲリラ戦を支えた。しかし、今日、農民戸籍や都市戸籍でも低所得にあえいでいる人々は、心の中で共産党を全くと言って良いほど支持していない。彼らは共産党が富裕層のための政党であることを肌感覚で理解している。毛沢東が『持久戦論』を書いた当時と現在とでは、人民の支持という観点において状況が全く異なる。

 どの国でもそうだと思うが、特に中国ではインテリ層しか本を読まないから、『持久戦論』を買っているのはインテリと考えて間違いない。しかし共産党政権下で育ったひ弱なインテリは状況判断が苦手なようだ。人民の支持がない中で長期戦を戦えば必ず敗れる。そのことが分からない。

共産党政府は中国の庶民に敗れる?

 そんな彼らは、企業が東南アジアに工場を移すことを黙認し、失業率が高まり、人々の不満に火がつく可能性を軽視している。その一方で、現状を打破するヒントが何か隠されているのではないかと考えて、『持久戦論』を読みふけっている。

 このような鈍感な人々では百戦錬磨のアングロサクソンに勝つことはできない。

 米中貿易戦争が長引き、経済が悪化すれば、一般庶民の政府に対する信任は急速に低下する。共産党政府は、米国ではなく中国の庶民に敗れる可能性が高い。歴史の中で、一般庶民の利害とかけ離れた政権が長続きすることはなかった。いくらデジタル認証などで国民の監視を強めていても、ほころびは必ず訪れる。

 工場が東南アジアに移ることになんら関心を払うことなく、その一方で「持久戦論」に答えを求めるインテリによって構成される国は、案外早く米国に敗れてしまう可能性が高いのではないか。

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北京の天安門広場に掲げられている毛沢東の肖像画