1974年、団体の垣根を越えたストロング小林vsアントニオ猪木の“昭和の巌流島決戦”では、チケットを入手できなかった約3000人のファンが会場の蔵前国技館を取り囲んだといわれる。だが、小林を語るには、この一戦だけでは不十分。世界的大スターになる可能性を秘めた名選手だったのだ!

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 しばしば都市伝説的に語られるのが、プロレスラー同性愛にまつわる話である。ただし、これは誤解に基づくものも多い。

 巡業中の全日本プロレス一行が宿泊していたホテルで、小火騒ぎが起きた際に「避難してきたジャイアント馬場が女性もののネグリジェを着ていた」と、ファンの間でまことしやかに語られたりもするが、実際のところは「馬場の巨体に合う日本製の寝間着がないため、アメリカ製のパジャマを着ていただけ」だったりする。

 それが日本では見慣れない形状だったことから話に尾ひれがつき、また、当時は元子夫人の存在が公表されていなかったために、ホモ疑惑として広まることになってしまった。

 馬場の弟子である小橋建太もホモ説が流布したが、これは女遊びに目もくれず練習に励んでいた、あまりのストイックさに起因する。その実、10年以上にわたる交際相手がいたのだから、噂というものは当てにならない。

 元IWAジャパン社長の浅野起州氏は、メディア対応のときオネエ言葉を駆使していたが、これは新宿2丁目でいくつもの店を経営していたため、そういうキャラ設定をしただけのこと。

 「実際には礼儀正しく男気のある方で、三沢光晴をはじめプロレス界の多くから信頼を得ていました」(プロレスライター)

 では、日本のプロレス界に同性愛者はいないのかというと、そういうわけでもないようだ。
「ゲイビデオ数本に出演した剛竜馬は『カネのため』と弁明していましたが、さすがにノンケの人間にはハードルが高いようにも思います。性的な意味で髙田延彦に憧れUWFインターナショナルに移籍したといわれる選手が、別の選手と実際、コトに及んでいる現場を目撃したとの話も耳にしたことがあります。あとはやっぱりストロング小林ですよね」(同)

 小林本人はこれについて明確に否定しているが、それでも噂は後を絶たない。

 ボディスラムを受ける際に相手選手の股間をつかむというのは、スタン・ハンセンが著書に記しているところ。若手時代に小林から「粉をかけられた」という選手の証言も少なくない。

 ただし、昔の体育会系集団においては、いわゆる“かわいがり”の一環として、先輩が後輩に性的奉仕を強要することもあったようだから、それをもって同性愛者だと断じることはできない。

 日々の言葉遣いや仕草はいかにもそれっぽかったが、逆に「女好きだった」(マイティ井上談)という証言もある。

★世界王者として25回連続防衛!

 「ただ、ホモ話ばかりで小林が語られるのは不本意ですね」(スポーツ紙記者)

 むろん猪木との世紀の一戦は歴史的名勝負として今なお語り継がれているが、それでも国際プロレス時代からの活躍を知る者からすると、小林に対する評価は物足りないという。

 ボディビルダーからスカウトされた小林は、1966年の入団後に日本初のマスクマン“覆面太郎”としてデビュー。言ってしまえば色物的な扱いだったが、1968年マスクを脱ぐと欧州遠征を経てトップレスラーへ成長する。

 「1971年アメリカ遠征では、バーン・ガニアの持つAWA王座に再三挑戦していて、これは本場でメインイベンターとして認められた証拠です」(同)

 また、日本においても団体の看板であるIWA世界王者となり、約2年半にわたって都合25回の防衛を果たしている。

 挑戦者の中には、ビル・ロビンソンホースト・ホフマンなどのテクニシャン、マッドドッグ・バションやクラッシャー・リソワスキーのようなラフファイター、さらにはラッシャー木村との日本人頂上決戦まで、あらゆるタイプの強豪たちの顔が並び、それをことごとく退けたのだから、この価値は高い。

「一流どころを相手に受けに回る場面が多かったものの、外国人関係者からの評価は高かった。ガニアにAWA定着を勧められたりもしています」(同)

 猪木戦後には馬場から、全日入りを誘われたという。長身とマッチョマンという東洋人としては異色のコンビが実現していたなら、世界的人気を得る可能性も十分あったに違いない。

 それを思うと猪木戦後、新日本プロレスが小林の待遇を下げていったことは、日本のみならず世界中のプロレス界にとって損失だったと言えるだろう。

ストロング小林
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PROFILE●1940年12月25日東京都青梅市出身。身長187㎝、体重125㎏。
得意技/カナディアン・バックブリーカー、ベアハッグ、ブレーンバスター