(福島 香織:ジャーナリスト)

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 香港の「逃犯条例改正」審議はとりあえず延期になった。来年(2020年)秋に立法会選挙が行われるので、来年の夏までに審議再開されなければ、この条例改正案は廃案となる。行政長官のキャリー・ラム(林鄭月娥)は内部では事実上の廃案を認めているらしい。

 これは香港市民がデモで勝ち取った勝利といっていいだろう。人口750万人弱の香港で、6月9日に103万人デモが行われたことも驚きだったが、当初審議が予定されていた12日には未明から立法会を包囲するデモが行われ、警察の武力に非暴力を貫いて果敢な抵抗を見せた姿は、国際世論を完全に味方につけた。

 中国の強い支持を受けたキャリー・ラムの命を受けて、無抵抗の市民に催涙弾やゴム弾を撃ち込む香港警察の無慈悲な所業は、これが中国の内政問題などではなく深刻な人権問題であることを国際社会に気づかせた。

デモの気迫におののいた行政長官

 特に中国の人権問題を米中新冷戦の対立の中で重要な切り札として使おうとしている米国が、香港問題を来たる大阪G20の米中首脳会談におけるテーマに取り上げそうだ。ポンペイオ米国務長官がそう示唆している。

 今回の香港政府の条例改正審議の事実上の棚上げ判断も、米国議会に超党派議員たちが6月13日、「香港人権・民主主義法案」を提出したインパクトが大きかったと思われる。

 この法案は、米国政府に香港の一国二制度を前提とした高度の自治が守られているどうかを毎年検証することを求め、高度の自治が失われたと判断された場合は、従来の香港政策で決められていた関税やビザの優遇措置を取り消すといった制裁措置をとることなどが内容に含まれている。米国が香港に対してこうした切り札を切れば、香港の国際貿易、金融のハブとしての優位性は完全に失われ、香港ビジネス界はもちろん、中国経済も大きな損失を被る。親中派の香港ビジネス界、議会が動揺し、中国もあわてたことは言うまでもない。

 こうした動きを受けて6月15日キャリー・ラムは、期限を設けずに審議の延期を発表。中国国務院(政府)香港・マカオ事務弁公室報道官は、「キャリー・ラム行政長官が今日(15日)の談話で、関連の条例修正法案の立法会での二読審議を暫定的に延期したと発表したことは、さらなる広範な社会各界の意見に耳を傾け、社会の平静を一刻も早く取り戻すために利する。我々はこの決定を支持し、尊重し、理解する」とコメント。つまり、中国も条例改正については事実上断念したわけだ。

 だが香港市民デモはそこでとどまらなかった。翌16日には条例改正案の撤回やキャリー・ラム辞任を求めて「200万人+1人」の空前の大規模デモを実現した。デモ参加者の「+1」とは、15日にパシフィックプレイスで抗議の飛び降り自殺をした35歳の男性の「魂」を指す。このデモ主催者が「+1」の数字を発表したのは、すでにこの“戦い”に犠牲者が出ていること、その犠牲者のためにも勢いが増しつつある運動を簡単には終わらせない意志がにじむ。キャリー・ラムが「政府として足りないところがあった。香港社会に矛盾と紛争をもたらし、多くの市民を失望させ、悲しませたことを、ここに謝罪します」と全面降伏に等しい謝罪コメントを発表したのは、デモに臨む市民の気迫におののいたからではないだろうか。

中国共産党はキャリー・ラムに失望

 さて、ここからが問題だ。香港デモは今後何を求めていつまで続くのだろうか。そして、2014年の雨傘運動で一切の妥協を見せずに運動を解体させた中国習近平政権の対香港強硬姿勢が初めての挫折を味わったことの意味は何なのか。

 さらに香港マカオ弁公室報道官のコメントを見てみたい。

「中央政府はキャリー・ラム行政長官と特区政府の仕事ぶりをずっと十分に肯定的に評価している。そして今後も継続して行政長官と特区政府の法に従った施政への支持を堅持し、社会各界人士とともに香港の繁栄安定を維持していきたい」

香港警察隊は市民安全と社会の安寧の庇護者であり、その執法専業のレベルは広汎な称賛を得ている。中央政府は強烈に今回の関連の暴力行為を譴責(けんせき)し、警察隊が法に基づき懲罰によって香港の法治と社会の治安を庇護者となることを堅く支持する」

 このコメント内容から考えると、中国政府は条例改正延期を容認したものの、キャリー・ラムの長官辞職は何としても避けたいようだ。

 中国共産党内では、キャリー・ラムの行政手腕の低さに大きな失望が広がっていると聞く。というのも、逃犯条例改正を決めたのはもともと北京の指示ではなく、キャリー・ラム側の判断だったらしい。

 キャリー・ラム周辺筋によれば、逃犯条例改正について香港政府として中国政府に事前に相談した形跡がないそうだ。中国が香港に望んでいたのはあくまで香港基本法(ミニ憲法)23条に基づく国家安全条例(治安維持条例)の施行だ。昨年11月、キャリー・ラムが訪中し習近平と会見した際、「香港は基本法に与えられた法律の責任を無期限に延期することはできない。つまり、煽動叛乱罪、国家政権転覆罪、国家分裂罪、謀反在などを取り締まる国家安全法のことである」ときつく釘を刺されたことが、新華社報道などが伝えている。

 想像するにキャリー・ラムは、中国から「国家安全条例」の施行を急ぐようにせっつかれ焦っていた。だが、国家安全条例は2003年に50万人の反対デモを引き起こしており、キャリー・ラムには、その施行にこぎつける自信がなかった。逡巡しているときに、台湾で陳同佳事件がおきた。この事件に乗じて逃犯条例の改正を行うことは、国家安全条例法案を成立させることよりもハードルが低く、中国に対しても国家安全条例施行が遅れていることの言い訳が立つ、と思ったのではないか。

 彼女自身は、この条例改正がそこまで市民の反発を呼ぶとは予想してなかった。実際、最初の法案を提出したときの最初のデモは1万3000人程度だった。

 だが、次の大規模デモは13万人に増え、6月12日の二読審議の直前の日曜の9日には103万人という、国家安全条例反対デモの2倍の規模のデモが起きた。この予想外の出来事に、キャリー・ラムも中国も、これは国内外の敵対勢力(米国など)の陰謀だ、と思ったようだ。キャリー・ラムは「香港の母親として子供(香港市民)のわがままを許さない」といった、とんちんかんなコメントを出し、強硬姿勢を貫こうとした。中国もキャリー・ラムに妥協を許さなかった。その結果、80人以上の負傷者を出し、1人の自殺者を出し、11人の拘束者を出した12日の香港警察のデモ鎮圧事件となる。香港市民はそれにひるむどころか空前の200万人+1人デモを成功させた。外国の煽動だけで200万人デモが組織できるはずはない。この段になって彼女も、デモが市民の総意だと認識し、謝罪せざるをえなくなったわけだ。

 もちろん、米国を中心とした国際社会の力は大きい。だが米国の煽動で香港市民が動いたのではなく、香港市民の声に国際社会が反応し、国際社会の支援に勇気づけられてさらに多くの市民がデモに参加した、ということだ。米国としては、中国との貿易戦争、5G戦争の対立に加え人権カードを使って中国包囲網を固めようとしているときに、この香港問題がタイミングよく盛り上がったので利用したい、という面もあるだろう。

中国が恐れる「普通選挙」要求デモの再燃

 さてキャリー・ラム自身が引責辞任したくとも、中国は辞任させない判断のようだ。理由は容易に想像がつく。デモに押される形でキャリー・ラムの辞任まで認めれば、次の行政長官補選を機に、2014年の雨傘運動でいったん挫折した「普通選挙」要求に火が付きかねないからだ。そして今「普通選挙」要求デモが再燃すれば、それは習近平政権に致命傷を負わせかねない

 というのも、2014年当時と今とでは、国際社会情勢、特に米国の対中強硬姿勢が決定的に違うからだ。2014年当時は、香港市民も国際社会も習近平政権の恐ろしさをまだ認識していなかった。だが雨傘運動挫折後、香港市民は、銅鑼湾書店事件、蕭建華失踪事件を経験した。国際社会も、南シナ海を実効支配したうえ「ハーグ裁定」を紙切れと言い放ち、ヤミ金のやり口のような「一帯一路」で他国を浸食する中国の「植民地主義」を目の当たりにした。対中嫌悪の国際世論はかつてないほど高まっている。今、香港で普通選挙要求運動が起き、それを中国が力業で抑えようとすると、おそらく米国の香港人権・民主主義法案が可決され、発動するだろう。

 その動きは、来年1月に予定されている台湾総統選挙に伝播する。中国は今度の台湾総統選で何としても国民党を勝たせ、和平協議の実現を経て“平和統一”の道筋をつけたい考えだ。しかし、香港で普通選挙要求運動が広がり、それに対して中国が圧力を加えるようであれば、普通選挙をすでに有する台湾人は、少なくとも習近平政権の中国との統一は絶対ありえない、という判断に傾くだろう。

 実際、香港デモを受けて、国民党総統候補予備選に出る親中派の郭台銘が急に、香港一国二制度支持を言い出し、王金平(反中国台湾派の古参国民党員)に秋波を送り出している。彼は台湾のひまわり学生運動に対しては「民主で飯が食えるか」と言い放ったのに。

 だから習近平政権としては、キャリー・ラムを守ると同時に、香港をこのまま勢いづかせ、デモを長引かせてはならないのだ。

中国の民主化運動に与える影響は

 だが、香港デモはここで終わらない可能性の方が強い、と私は思う。

 1つ目の理由は、雨傘運動カリスマ指導者であったジョシュアウォン(黄之鋒)が釈放されたからだ。5月に雨傘運動の道路占拠禁止命令妨害の罪で禁錮2カ月の判決を受け、収監されていたが、模範囚として前倒しで出所できた。どんな力が働いてこのタイミングで彼が出所できたのかはまだわからないが、ジョシュアは出所するなり、キャリー・ラム辞任を求めると記者団に発言している。「キャリー・ラムの謝罪は何の役にも立たない。彼女は警察の発砲を指示し、市民に負傷者を出した。政治的責任を負って辞任すべきだ」と。

 2つ目に、香港返還記念日の7月1日に毎年行われている大規模デモ(七一デモ)まで2週間切っている。さらにその七一デモ直前には大阪という比較的香港に近い場所でG20が行われ、トランプと習近平のバイ(二国間)会談で香港問題が提示される。200万人デモを成功させた熱がこのまま冷めずに七一デモにつながれば、世界記録的な規模のものになるかもしれない。このデモが求めるのは、キャリー・ラム辞任だろう。彼女は持ちこたえられるだろうか。

 習近平を追いつめれば、どんな暴挙に出ないとも限らない、という恐怖はあろう。だが、香港が普通選挙という目標を勝ち得るチャンスは今、このタイミングしかあるまい。

 そして、もし香港の社会運動が秩序を大きく乱すこともなく、その目的を達成した前例を作ることができるなら、強烈な閉鎖的監視統制社会を構築しつつある中国で、内心は強い不満と恐怖に耐えて沈黙している中国国内の知識人や少数民族や宗教関係者にも勇気を与えることだろう。

 かつて英国が香港を一国二制度の枠組みで中国に引き渡した際、本音としては、香港の民主と法治がいずれ中国本土に波及するとの期待があったはずだ。私はまだ、大衆の社会運動が中国を変えるきっかけを作る日が来ることは、あり得る、と思っている。

 だが香港のデモが継続し、その目的を達成するためには、国際社会の主要国が足並みをそろえ、中国に圧力をかけることが重要だ。繰り返すが、日本がホストとなる大阪G20こそ、そういう世界の潮流の変化の大きな節目になる舞台になってほしいと、個人的には注目しているのだ。

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