江戸時代を通して江戸の町には人口の上水道はありました。新興都市だった江戸では水道の設備を作らないと水をまかないきれなかったからです。

家康は江戸に入るとすぐに家臣に水道づくりを命じました。当時の江戸には台地の湧き水と溜め池(現在の港区溜池)の水が飲み水に適していたのですが、これだけではとても江戸の人口を賄いきれなかったからです。そこで、家康は井の頭池を水源とした神田上水に着工したのです。日本で初めての水道工事でした。

番町や駿河台など、幕府にとって重要な土地であり、旗本の武家屋敷があった場所は、水道をひいていません。なぜならば、これらの場所は台地だったため、井戸を掘れば水が出るので、水道を必要としなかったからなのです。

「台所美人揃」喜多川歌麿

江戸の町が日本ではじめて水道を必要としたのは、街を形成した土地のほとんどが海に近い場所であり、埋め立て地であったためです。そこには井戸を掘って生活用水にすることができないという事情があったのです。

ただ、水道といっても、現在のように浄水場があるわけではなく、冷蔵庫で冷やして飲めるわけでもなかったため、夏になると水が臭くなりとても飲めるような代物ではありませんでした。

そこで登場したのが「水売り」と呼ばれる商人たちです。

楊洲周延「時代かゞみ 弘化之頃(部分)」国立国会図書館

彼らは、夏の暑い盛りに、江戸の町では「ひやっこい、ひやっこい」という声が響かせながら、江戸の町中で水を売り歩いていました。

笠をかぶり、天秤に二つの桶を担いで売り歩いている水売りの姿は、まさに江戸の名物でもありました。「滝水」「冷水」の看板もかけ、前のほうの桶には小さな屋台があり、茶碗や白玉が収納されていました。この時代の川柳に「銭金わく土地水を買ってのみ」というものがあり、当時の様子が分かります

喉が渇いた人はこれらの水を買って飲んだそうです。その姿は今のようにコンビニや自動販売機でなどでミネラルウォーターやお茶などを買う様子とほとんど違いがありません。

参考:中江克己『お江戸の意外な生活事情―衣食住から商売・教育・遊びまで』

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