アニメ『どろろ』(→公式サイト)。今日6月10日(月)22:00より、TOKYO MXほかで、最終回第二十四話「どろろと百鬼丸」が放映される。ラストにして初の「巻」のつかない回。
Amazon Prime Videoで毎話24:00頃から配信予定。

陸奥と兵庫
陸奥と兵庫は、多宝丸と共に育った兄弟のような関係。共に誠実に頑張ってきた様子が描かれ続けてきた。
だからこそ、あっさりと殺されてしまったのには、Twitterなどで実況していたファンも驚愕。ドラマチックさもなにもなく、首をもぎとられ、蹴飛ばされて、ゴミのようにぐちゃぐちゃになって終了。

二人の死を見た多宝丸は激しく慟哭する(ここの演技がすごい!)。全く関係ない村人たちが、二人の遺体を弔う。
今まで登場してきた、たとえば飢え死んでいった村人たちに比べれば、思ってくれる人がいる分ましかもしれない。けれども二人の死は決して美しくはない。死んでしまえばモブだろうがメインキャラだろうが同じだ。
鬼神の力を借りてまであがいたのに、馬の鬼神に殺され、百鬼丸を討ち果たせなかった二人の無念は、誰も救うことが出来ない。

こうなってくると、多宝丸の悲劇がどんどん目立ってくる。
多宝丸は感情移入しやすいキャラクターだ。
彼は一切、私利私欲のために動いたことがない。すべて民のためを思っての行動。なのに彼は国の惨状を見続ける羽目になり、挙句の果てに最も信じていた、親よりも大切にしていた二人を失った。
なにより、彼は作中で一人も人を斬り殺していない。憎む要素がほとんどない、理想の君主的なキャラクターだ。
そこまで徹底して描かれるからこそ、間違ったことをしていないはずの百鬼丸との主張のバランスが、ちょうどいい具合になっている。どちらが正しいのか、判断しづらくなる演出だ。

人間ってなに?
腕を取り戻した際、「お前が取り戻す身体は人の血にまみれたものになる。そしてその時、お前は人でありえるのか」という十七話「問答の巻」の寿海の発言を思い出す百鬼丸。
まわりから「お前が鬼神だ」と散々言われてきたら、戸惑うのも無理はない。
百鬼丸「人、人とはなんだ? 俺は?」

縫やどろろ、村人に、琵琶丸はぽそりと言う。
琵琶丸「力を求めて行きつく先は、修羅鬼神かもしれないよ。と言って、力を持たず争わず、仏の道、情けの道を行けば……どちらに振り切れても、人じゃなくなっちまうのさ」

「人間とはなにか」は、手塚治虫作品でも幾度となく描かれてきたテーマの一つだ。
それに対しての、2019年アニメ版なりのアンサーが、ここから描かれていく。

百鬼丸の母親・縫は、狂いそうなほど悩み続けた結果、「人は結局、その狭間でもがいていくしかないのかもしれませぬ」と悟っていた。
なるべく直接介入せず見守ってきた琵琶丸は「逆に言やあ、だからこそ人でいられるって事で」と、人間の曖昧な立場にいる苦しみを受け止めていた。

どろろの考え方は、二人と違う。
どろろ「力をつけたからって人でなくなるわけじゃねぇ。おいら、あにきと散々見てきたからわかる。力じゃねぇ、心持ちさ。そいつがしっかりしてりゃ、鬼になんかならねぇ!」
彼女のポジティブな発言は、諦念しかけていた村人の気持ちを奮い立たせる。

もっとも、縫とどろろの立場が全く違うので、みんなが同じ発言ができるわけではない。
縫は夫が手に入れてしまった「力」の責任の重さと、息子・百鬼丸への心咎めで泣き続けてきた。
前向きな選択肢が一切無かった彼女は、人の生と死について諦念するしかなかったのだろう。

どろろは、まだまだ自由だ。これからの人生を選んで掴み取る若さも強さもある。
言うなれば、六話「守子唄の巻」で手に入れた、これから芽吹く貴重な稲の種籾のような状態だ。
どろろ「もう目ん玉でも手でも足でも鬼神にくれてやれ! 欲しけりゃおいらが目になってやる、手足んなってやる! だから、鬼んなっちゃダメだ!」
百鬼丸が「鬼神寄り」だとしたら、無条件で百鬼丸に愛を注ぐどろろはかなり「仏寄り」だ。
だからといって、二人が人間をやめるわけじゃない。
力をつけても、優しさを施しても、心さえ保ちさえすれば、中庸の間でもっと前進していい、希望を持っていい、という考え方だ。

誰かの力を借りても
村人がぽろっと「つまりまた身体を鬼神に渡せば……」「俺たちだってそれがいいとは思ってねえ、お前の兄貴一人と国一つを比べたら」と、戸惑いながら言った言葉に、どろろが殴りかかる。視聴者の「ひょっとしたら」というモヤモヤを払拭してくれたシーンだ。

生贄と加護の問題に対して、この作品は縫を通して一つの答えを出している。
縫「何者かに頼って築く平安は脆い。それが骨身に滲みてわかりました」「自らの手で掴まなかったものは、守ることもまたできない」

醍醐の人々の誤りを認めると同時に、どろろはこの発言から、百鬼丸の行動を考えている。
どろろ「守りたいもんがあるなら、欲しいもんがあるなら、あにきみたいに、自分の手で地べたはいつくばったって、掴まなきゃいけねえんだ」

百鬼丸の行動原理は、最初からシンプルだ。
身体を取り戻したい。
縫はそれを、赤子がおもちゃを取り戻すようだ、と以前表現していた。身体を取り戻すのは当たり前のことで、そこに意味など考えてはいなかっただろう。

終盤にきて、彼には身体を取り戻す理由ができた。
どろろを守りたい、どろろと同じ世界を見たい。
彼はどろろに助けられ、導かれ、育てられてきた。母親のような存在だ。
しかし、どろろに頼って身体を取り戻そうとしたことは一度もない。すべて自力だ。

百鬼丸の「人間とはなにか」の苦しみや、兄弟の殺し合い、陸奥・兵庫の死もあって、残忍なムードの強い二十三話。
しかしどろろと縫の決意が見えたことで、二十二話のような滅びの絶望感はなく、前向きな空気が漂いはじめてきた。
自作の仏を持ってやってきた、百鬼丸にとっての「おっかちゃん」の一人、寿海が近づいているのも、希望に見える。
アクションシーンの力の入れようも尋常ではなくなってきた。最終回に向けて、今まで描かれてきたあらゆる人々の思いが収束しはじめている。


ところで、この作品は加賀国が舞台。醍醐景光が朝倉領と戦っていることからも間違いなさそう。
ここは戦国時代に、浄土真宗一向一揆があった地域。宗教自治を行い、「百姓の持ちたる国」とまで言われた。
農民が今回念仏を唱え、立ち上がろうとしているのは、今後の最終回と、実際の歴史とが交わる表現なのかもしれない。
浄土真宗が唱えないはずの般若心経なのが気になるけれども……)
(たまごまご)

どろろBlue-ray BOXイメージイラスト