近年,ゲーム研究の本が注目を集めつつある。そんな折,「ゲーム学の新時代 遊戯の原理 AIの野生 拡張するリアリティ」という書籍が2019年3月にNTT出版から刊行された。

 4Gamerでもおなじみの徳岡正肇氏も参加している本書は,2018年1月に明治大学で開催されたシンポジウム「ゲーム研究の新時代に向けて」の講演者を中心に,新たな執筆者を加えてまとめられた論文集だ。収録原稿は講演そのままではなく,さらに掘り下げたものになる。

 このシンポジウムはそもそも,明治大学のなかに「ゲーム学」の講座を立ち上げようというキックオフイベントだった。諸外国では大学でゲーム研究やゲーム開発の講座が設けられていることも珍しくないが,日本ではまだまだ,そこまでの浸透は見せていないのだ。
 4Gamer読者は,すでに多くのゲーム作品に慣れ親しんでいるだろう。が,こと「ゲーム研究」には馴染みがない人も少なからずいるはずだ。そこで,ゲーム研究入門,あるいはゲームを通じた人文社会科学入門という視点から,「ゲーム学の新時代」の読みどころを,収録論文をピックアップする形で紹介していきたい。


■中沢新一「はじめに 人新世のゲーム学へ」,遠藤雅伸「基調報告 日本ゲームの本質にあるもの」――「ゼビウス」から「ゲーム研究」を振り返る

 本書の冒頭には,思想家/人類学者の中沢新一氏による「はじめに 人新世のゲーム学へ」と,ゲームクリエイター/東京工芸大学教授である遠藤雅伸氏による「基調報告 日本ゲームの本質にあるもの」が掲載されている。
 いずれも読みやすいので,ぜひ現物をあたってもらえればと思うが,なぜこの2人が巻頭言(かんとうげん)を書いているのか。ここでは関係性を解説したい。

 中沢氏は,「ゲームフリークはバグと戯れる:ビデオゲームゼビウス』讃」という論文を,「現代思想」1984年6月号に寄稿している。これは日本における最初期のデジタルゲーム論の名作として知られ,中沢氏の単行本「雪片曲線論」(1985年)に収められている。
 その中で中沢氏は,国産シューティングゲームヒット作「スペースインベーダー」(1978年)と「ゼビウス」(1983年)の違いを「物語的な展開の有無」で区分けしている。「ゼビウス」には「ゲーム全体を貫流し,支配しているエネルギー体のごときもの」として物語性が存在し,その「神話的な生成力」こそが,「ゼビウス」がプレイヤーヒットを与えた原因だと分析しているのだ。

 一方,遠藤氏は本書「ゲーム学の新時代」において,当時の議論をアップデートした形でそれを示している。内容は,「メカニクス:ルールを決定する」「ダイナミクス:操作を決定する」「エステティクス:体験を決定する」といった要素のほかに,ストーリーとは異なる「ナラティヴ」という考え方を重視しているというものだ。
 遠藤氏は「ゼビウス」が製作される前の時点で,その背景世界を解説する3部作の小説を書いていたという。その中では,社会工学的な「システム」と「人間」というメタテーマがあること,あるいは「ゼビウス語」や「ゼビウス記数法」,さらには「ゼビウス軍の兵器マニュアル」といった独自の設定をあたためていたそうだ。そのように厚みのある背景があったからこそ,「ゼビウス」には「ナラティヴ」が生まれたのだという。

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 遠藤氏の小説は,のちに「小説ゼビウス――ファードラウトサーガ」(2005年に復刊,オンデマンドペーパーバックとして入手可能)として発表されたが,井上尚美氏が手がけたゲームブック版「ゼビウス」(1985年)のように,シェアード・ワールドとしての広がりも併せ持つ「ナラティヴ」だったのだ。

「小説ゼビウス ファードラウトサーガ」オンデマンド(復刊ドットコム。※Amazonアフィリエイト

 そして,中沢氏の論文「ゲームフリークはバグと戯れる」が優れていたのは,こうした「ナラティヴ」を「物語生成力」「神話生成力」と読み替えながら,シューティングゲームにおける「意表をつく出現や運動」「分裂的なさく裂」「変化するスピード」「ユーモラスな身ぶりなど」がナラティヴに融合していると,最も早い時期に指摘したことにある。
 しかも,プログラマが想定していなかった「バグ」をプレイヤーが発見し,積極的に参加を促し,想像の世界を拡張させていく点まで見据えていた――このことは,現代の動画実況やMOD文化などに,そのままつながっているだろう。

 従来,「ゲームフリークはバグと戯れる」という論文は,アカデミックな文学研究や文化批評において,概ね高度化した資本主義の礼賛という文脈で,しばしば受け入れられてきたものだ。しかし,“ゲームスタディーズ”が成熟を見せてきたいま,むしろ中沢氏の論文は,その先駆けであったと捉え直すのが正解だろう。
 中沢新一氏の名前を本書で知った若いゲーマーや,あるいは遠藤雅伸氏の研究者としての顔を知らなかったオールゲーマーは,この序文を手がかりに,彼らの仕事を追い直してみても面白いかもしれない。


■「Part1:ゲーム学の射程と最前線」――(1)井上明人氏の民俗学的な「遊び/ゲーム」論

 有名研究者とクリエイターの後を受けるのは,気鋭の研究者によるサーヴェイ(調査と要約)だ。それぞれ,井上明人氏の「〈遊び/ゲーム〉の来歴をめぐって――何が歴史的に構築されたものなのか」,松永伸司氏の「本質論としてのゲームスタディーズ 」,小林信重氏の「プロテスタントの倫理から〈ルディフィケーション〉へ――フィンランドゲームプレイヤーゲーム研究」といった3本の研究がまとめられている。

 井上氏は,「ゲーミフィケーション“ゲーム”がビジネスを変える」(2012年)などで広く知られるゲーム研究者だ。本書では「ゲーム」という概念の歴史的な位置づけについて,アフリカの狩猟採集民である「バカ族」の「遊び」の内実を書いた「バカ・ピグミーの生態人類学」(著者:安岡宏和氏。2011年)を軸に解説している。

 ともすれば「ゲームgame)」は,「遊び」であるため「まじめ」ではない,「ふまじめ」な行為と社会的にみなされることが多い。しかし,バカ族の子ども達は「遊び」を通して,狩りや食物採集の方法を学ぶ。そこでは「ゲーム」を遊ぶことと社会学習とが連続しているというのだ。
 加えて,狩猟採集民だけではなく,東南アジアの農耕民に伝わる「遊び」や「ゲーム」も存在する。そこから考えられるのは,「ゲーム」が遊びを目的とした「ふまじめ」なものだとする議論は,近代の社会が事後的に構築したものだと井上氏は言う。

 世間でゲーム論と言えば,デジタルゲームを論じたものだと理解されることが多い。しかし,デジタルゲームが普及する以前から親しまれ,また,現在進行形で研究が進んでいるアナログゲームにも研究の蓄積が存在してきた。
 さらには,遊び論,賭博論など広義の民俗学,あるいは,それらを総合した遊戯史学と呼ばれる分野にも,相応の研究蓄積が存在している。近年,それらを教育学ビジネス科学へと応用する動きがあるのは,井上氏の「ゲーミフィケーション」に記されたとおりである。

リンク関連記事:ゲーミフィケーションはゲームを社会化しようとする6度目の試み。井上明人氏によるOCG 2012のセッションレポート

 今回の井上氏の論文は,民俗学や遊戯史学の仕事に分類することができる。しかし,それは歴史的な事例のサーヴェイに終始するのではなく,あくまでもゲームデザインが発想の基盤になっている。そして,「まじめ」と「ふまじめ」,さらに「遊び」と「学習」を区別する発想自体が,事後的に構築されたものではないか,と井上氏は問題提起するのだ。
 そうした構築性は功罪を併せ持つ。けれども,オリンピック憲章に代表される近代のスポーツマンシップのような,「ルールを遵守する」といった姿勢は何に由来するのか,その点を再考する契機にもなるだろう。つまり,「ゲーム」の社会的役割とは根っこの部分でどういうものなのか,各々が問い直す契機を,この論文はもたらしてくれる。


■「Part1:ゲーム学の射程と最前線」――(2)松永伸司氏の「ゲーム研究」概説

 松永伸司氏は,イェスパー・ユール氏の「ハーフリアル」(2005年)や,日本語版が出たばかりのミゲル・シカール氏の「プレイ・マターズ」(2014年)の翻訳を手がける,現在最も注目されている研究者の一人だ。松永氏の論文は,井上氏とは対照的なアプローチを採っている。すなわち,狭義の「ゲームビデオゲームを専門に研究する分野」としてのゲーム研究の歴史と文脈を整理するのだ。

 氏によれば,オンライン学術誌「ゲームスタディーズ」が発刊されるにあたって,2001年ゲームスタディーズ(ゲーム研究)の元年だと位置づけている。
 もちろん,それ以前にも,ゲーム研究に分類されるものは存在する。スチュアート・キューリン氏の「北米インディアンゲーム」(1907年),ハロルドマレー氏の「チェスの歴史」(1913年),エリオット・アヴェドン氏&ブライアン・サットン=スミス氏が編纂した「ゲームの研究」(1971年)などだ。
 しかし,1970年末から1990年代にかけて,デジタルゲームが飛躍的な発展を遂げるにつれ,それらを研究する「ニューメディアスタディーズ」と呼ばれる分野が新たに成立した。自身がゲーム開発者でもあったブレンダ・ローレル氏の「劇場としてのコンピュータ」(1991年)などが挙げられる。

 ニューメディアスタディーズでは,文芸批評の方法論である物語研究の側面からデジタルゲームを捉えていたが,北欧の研究者は,それに飽き足らなかった。デジタルゲームは単なる「物語の媒体」ではなく「ゲームの媒体」である,といった主張のもと,ゲーム固有の表現形式は何であるのかを模索し始めたのだ。
 つまり,前述した2001年ゲーム研究の元年である,という松永氏の論評は,ニューメディアスタディーズの流れを汲むゲーム研究のことだと理解して差し支えないだろう。

 21世紀のゲーム研究の特徴は,「そもそもゲームとは何なのか」という哲学的な問いが主軸に置かれたことだ。ここで,ヨハン・ホイジンガ氏の「ホモ・ルーデンス」(1938年),ロジェ・カイヨワ氏の「遊びと人間」(1958年),バーナード・スーツ氏の「キリギリスの哲学」(1978年)といった,哲学的に「遊び」や「ゲーム」を思考した著作が再評価されることになる。
 そして,ケイティ・サレン氏&エリック・ジマーマン氏の「ルールズ・オブ・プレイ」(2003年)や,松永氏が翻訳を手がけたイェスパー・ユール氏の「ハーフリアル」(2005年)など,現代におけるゲーム研究の基本書が確立することになるわけだ。

ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎ニューゲームズオーダー)

 松永氏は,さらに考察の射程を伸ばす。「ゲームを定義する」ことは,そもそもどういった営みなのかを,改めて問い直そうとするのだ。ゲーム研究は「あらゆるゲームに共通する性質を抽出すること」を目指しがちだが,そんなものは本当に存在するのか。ただ,似ている点や似ていない点がある……そう捉えておいたほうが,ゲームの特質を正確に理解することができるのではないか。

 こうした「ゲームを定義すること」そのものを考察する行為は,「メタ定義論」とみなされている。「メタ定義論」を進めるにあたって,松永氏の専門でもある分析美学では,方法論の蓄積が役に立つという。実際,松永氏の博士論文をベースにした「ビデオゲームの美学」(2018年)は,ゲーム研究と分析美学が本格的に融合した本で,次に読むべき一冊として挙げておきたい。

※松永伸司「ビデオゲームの美学」(慶應義塾大学出版会)

【コラム】
ロジェ・カイヨワ氏の著書「ポンス・ピラト」 (景文館出版)

 ロジェ・カイヨワ氏は著書「遊びと人間」において「遊び」を4つに分類している。その類型を応用する箇所が,本書の収録論文では少なからず出てくるのだ。
 そんなカイヨワ氏は「遊びと人間」の3年後に「ポンス・ピラト」(1961年)という小説を書いている。これはピラトがキリストの処刑を決断せず,ゆえにキリスト教が存在しない可能性を描く小説で,「聖なるもの」は何かという問いかけと民俗学的な関心のありようは,「遊びと人間」にも通じるものだ。
 このように,「遊び」や「ゲーム」を掘り下げると,既存の学問と必ずつながる。そのことを確認するのも,本書をひもとく醍醐味と言えよう。



■「Part.2 ゲーム研究のためのアーカイブ戦略」――産・官・学が連携する必要性

 このパートでは,細井浩一氏の「研究資源としてのゲームアーカイブ――立命館大学の取り組みを通じて」,川口洋司氏の「ゲーム研究において産学はいかに連携すべきか」,ルドン・ジョゼフ氏&ルドン絢子氏の「ゲーム保存協会の取り組み――アーキビストから見た日本のゲーム保存の問題点」という3つの論文が収められている。

 共通のテーマは,技術的な進展のスピードが速く移ろいやすいゲームをどのように保存できるかの試行錯誤だ。その中で,立命館大学文化庁メディア芸術デジタルアーカイブ事業,業界人のトークライブを中心としたオーラルヒストリーの蓄積,さらには特定非営利活動法人ゲーム保存協会の活動など,さまざまな切り口や団体での試みが紹介されている。これは本書のなかでも,最も資料性の高い部分だろう。各々の試みは,ウェブでも広く紹介されているが,それらをまとめて参照できるのはことのほか便利だ。

 そもそも,なぜ本格的なアーカイブ事業が必要なのか。
 フロッピーディスクカセットテープの寿命は,長くても30年ほどである。CD-ROMUSBメモリなども意外に劣化しやすい。それだけではなく,オンラインゲームや携帯情報端末をベースとするゲームは,プログラムが依存するプラットフォームの多様化と移り変わりが激しく,しばしば開発企業のもとにもデータが存在しない,ということになってしまう。
 ゲームの保存は,それを楽しんだプレイヤーの記憶をそのまま残す試みでもあるのだが,産・官・学が共同しなければ成り立たない。このとき重要なのが,ルドン・ジョゼフ氏らが心がけているという,できるだけ多種多様な資料で当時の文化のコンテクストを捉え,全体像を残そうという試みだろう。つまり,一般に売れたものや作品としての完成度が高いものだけが保存の対象になるわけではない,ということだ。むしろ,マイナーな作品や珍作・怪作のほうが入手しづらく,希少価値が生まれるというのは,読者も身に覚えがある話だと思う。

 保存にあたっては偏りを作らず,しっかりとした基礎研究のための土台を提供しようというアーカイブ事業に関わる人たちの姿勢は,とかく地味に思われがちだが「ゲーム研究」の屋台骨を提供してくれるものなのだ。


■「Part.3 ゲームデザインテクノロジーが拡張するもの」――(1):徳岡正肇氏が伝える「戦争」とシミュレーションの関係性

 このパートでは,徳岡正肇氏の「『戦わない戦争ゲーム』にみるゲームデザインの多様性――インディーゲームが描いた,もうひとつの『戦争』」,田中治久氏(hally)の「ビデオゲームサウンドは,いかにして聴かれるか――近くて遠い,プレイヤーサウンドの関係」,水野雄太氏の「『メタAI』がひらく可能性――よりリアルになるゲーム世界へ向けて」と,3つの論文が収められている。
 作品としてゲームを捉えた場合,大きく分けて,クリエイターの作家性によって生まれる表現と,テクノロジーの進展によって可能になる表現という2つの側面が存在する。それらをカバーするのがこのパート,というわけだ。

 徳岡氏が対象とするのは「ゲームにおける戦争表現」の問題である。徳岡氏によれば,戦争ゲームは「戦う」ものと「戦わない」ものに大別されるという。つまり,戦争そのものを再現するのか,戦争を背景とする状況そのものをシミュレーションするかの違いだろう。
 ここで徳岡氏は「バトルフィールド」や「コール・オブ・デューティ」「信長の野望」のような大作ゲームに言及し,それと対比する形で,インディーズゲームアナログゲームの作家性に着目する。

 例えば,大作ゲームでは,大規模な予算をつぎ込んで戦争を「画面」として再現しようとする。当然,大作デジタルゲームは投資に見合う利益,つまり「一般受け」が期待される。一方,インディーズゲームアナログゲームは,そこまで投資の回収を重視する必要性がないので,それだけ「尖ったゲーム」にできるのだ。

 その尖った一例が,少し前まで戦時下にあった世界で入国審査官の立場をプレイヤーに疑似体験させ,行き詰まった共産主義国家における人々の生き様を見せつける「Papers, Please」(2013年)。あるいは,戦時下の民間人として生き延びることを目指す「This War of Mine」(2014年)だ。また,敵に勝利するのではなく,第一次世界大戦から「全員」で生きて帰ることを目指す「グリッズルド」(2015年)といったアナログゲームもある。
 ただ,徳岡氏はこれらの“尖った”作品を,デジタルゲームの最初期から存在するシミュレーションゲーム,さらにはその起源でもあるアナログでのウォーゲームの延長線上にあるものだと捉えている。一見風変わりなアプローチに見えても,それは,戦時下において特定のジョブ(職業)をシミュレートするのか,あるいはサバイバル(生存)そのものをシミュレートするのかという,よくあるコンセプトの流れで理解できるからだ。要は,ゲームデザインにおける発想の転換こそが“尖った”部分を生み出しているということだろう。

 徳岡氏の論文では,さらに多様な戦争ゲームのあり方が紹介されていくが,ゲームデザインが豊穣な成果を生む営みだということを,ダイナミックに,かつわかりやすく伝えてくれており,優れた文芸評論のような読み味がある。

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■「Part.3 ゲームデザインテクノロジーが拡張するもの」――(2)田中治久氏が論じるゲームサウンドと「没入」

 デジタルゲームはしばしば,映画やオペラのような総合芸術に準(なぞら)えられる。そこには音楽が重要な位置を占める――と思われがちだが,本当にそうなのか。

 ゲームにおける音楽史を専門とする田中氏によれば,実はデジタルゲームの大半は,固有の音がなくとも成立するのだという。2005年BBCが行った調査では,なんと70%以上のプレイヤーが,ゲームプレイの最中に,自分のお気に入りの音楽を流すと答えている。
 ないよりはあったほうがよいものの,なければないで困らない。こうしたユーザーの実感と,音楽をゲームにおいて欠くべからざる要素と位置づける研究者の姿勢は,しばしば齟齬を引き起こしてきた。それはゲーム研究の方法論が,映画音楽を研究する延長線上で捉えられてきたからだろう。

 さらに問題をややこしくしているのは,ゲームのなかにはFPSや「音ゲー」のように,音がなければ困る作品も少なくないことだ。こうした事情があるため,ゲームにおける音楽を研究するにあたっては,プレイヤーにとっての「没入(immersion)」の度合いという観点が必要になってくる。

 ゲーム音楽は単体で成立するものではなく,プレイヤーへどのように「没入」を促すのか。効果音なのか,BGMなのか,それともプレイヤーの達成を讃える報奨としてなのか。こうした視点を提示することにより,田中氏はプレイヤーの認知のあり方にまで切り込んでいく。

 徳岡氏が歴史学や経営学で用いられるシミュレーションにこだわったのだとしたら,田中氏の切り口は認知心理学に通じると言えるだろう。


■「Part.4 現代ゲームの潮流が導く未来学」およびあとがき――三宅陽一郎氏の論じるメタAI

 このパート,およびあとがきでは,福地健太郎氏の「コンピュータゲームが社会規範を拡張する」,三宅陽一郎氏の「人工知能からはじめるゲーム学――現実とゲーム,人とAIの対称性」,犬飼博士氏+吉見紫彩氏の「『ゲームデザイン』から『楽しい』ドリブンの世界へ」,中川大地氏の「遊戯の原理,AIの野生,拡張するリアリティ」と,3本の論文と1本の対談が収められている。
 キーワードとなるのはAI(人工知能)のあり方なので,パート3における水野雄太氏の論文も,こちらのパートセットで読んだほうが理解しやすいかもしれない。

リンク関連記事:AIはゲームをどう変えるのか。三宅陽一郎氏と森川幸人氏がゲームAIのこれまでと現状,そして今後の展望を語った「黒川塾 五十二」をレポート

 デジタルゲームRPGは,もともとテーブルトークRPGTRPG)における司会進行役を務めるゲームマスターの役割を,コンピュータに代補させる形で成立してきた。だが,臨機応変で柔軟な判断はコンピュータにとって苦手とするところだとされ,結局はTRPGゲームマスターは人間が担当している。単純な戦闘の処理などは得意だが,プレイヤー予想外の行動をとった際の行動は,どうしても後手に回らざるをえない部分があったからだ。
 しかし,近年はゲームAIの発展により,コンピュータゲームにおいてもプレイヤーの自由度は増す傾向がある。こうしたゲームAIのなかでも,着目されているのが「メタAI」というあり方である。AIをどれも同じもののように理解するのではなく,機能毎に「エージェントAI」「ナビゲーションAI」「メタAI」という3つの層に分けるのだ。

 「エージェントAI」はゲーム世界における個々のキャラクター情報を受け持ち,「ナビゲーションAI」はゲーム世界の環境に伴う情報を実装するAIとなる。そして「メタAI」は,言うならば,それらを統制する役割のAIだ。ゲーム世界内のみならず,個々のプレイヤーにも働きかけるという点で,現実世界にコミットメントする役割も併せ持つ。

 こうした分類の仕方は,現場でゲームAIの開発に携わりつつ「人工知能のための哲学塾」といった実験的イベントを開催してきた,三宅陽一郎氏の研究を踏まえてのものだ。
 三宅氏は,AIの認知のモデルを,知能と世界を分けることを前提に組み立てる。こうした把握の方法の背景には,動物の観点から世界を認知するモデルを具体化した「環世界論」が存在するという。「環世界論」を提唱したのは生物学者のユクスキュルだが,三宅氏はそのモデルを,西洋哲学(フッサールの現象学など)や東洋哲学(西田幾多郎や井筒俊彦といった日本の哲学者の仕事など)を応用する形で,明快に図式化していくのだ。

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■「ゲーム研究」は制作の役に立つ!

 以上,本書の収録論文の一部を紹介してきた。通読して確認できたのは,実は「研究」自体もゲームプレイするのに勝るとも劣らないほどに楽しい,ということだ。少なくとも,「ゲーム研究」を経由することで,作品としてのゲームがいかなる可能性を有しているのかを知ることができ,より深くゲームを味わえるのは間違いない。

 いかなる社会状況がゲームを成立させているのか。あるいは逆に,ゲームの方法論そのものが社会に与える影響にはどのようなものがあるのか……。それらを分析することで,歴史や現在についての新たな知見も獲得できる。「日本」の「ゲーム」といっても単一ではない。多様な背景や文化との相互の影響のもとで成り立っている「文化」だからだ。

 何より,本書は新しい価値の提示を目指しており,今までに見ないタイプゲームを開発する役に立つかもしれない。実際,欧米のゲーム研究者で開発者を兼ねている人は多いのだ。
 より現実的な話をすると,ゲームは移り変わりが早い分野なので,きちんと研究やアーカイビングを行わなければ,過去の話が「なかったもの」にされてしまいかねない現状がある。

 ともあれ,書籍としてのまとまりがよい本書は,「ゲーム研究」の“いま”を知ろうとするときに便利なツールである。のみならず,ゲームを通じて,既存の人文社会科学を再構築するという野心的な本でもある。ぜひとも手にとっていただきたい。

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なぜ「ゲーム研究」が必要なのか? 書籍「ゲーム学の新時代」から読み解く,ゲーム研究からの人文社会科学