『死者の饗宴』(国書刊行会) 著者:ジョン・メトカーフ


20世紀英国怪奇文学における幻の鬼才、ジョン・メトカーフ。知る人ぞ知る怪異談や幽霊物語の傑作を執筆し、怪奇・幻想文学ファンの間では評判となりながらも、何故か単行本の出ることのなかった異能の物語作家による待望の短篇集がついに刊行! そのメトカーフの数奇な人生について、翻訳者の横山茂雄氏の解説から抜粋してご紹介します。

ジョン・メトカーフとは何者か

英国の作家ジョン・メトカーフの名前は、我国の読者にはあまり馴染がないかもしれない。幾つかの作品がかなり早い時期から翻訳されているものの、いずれも散発的な紹介にとどまり、異能の物語作者としてのメトカーフの全体像を窺い知るのは困難な状況が続いてきたからだ。とはいえ、英米でも事情はさして異ならず、彼の遺した怪奇小説、超自然小説の中短篇群がようやく1冊にまとめられたのは、死後30年以上経った1998年のことにすぎないうえに、少部数の限定本としてカナダで上梓されるにとどまった。

メトカーフの知名度が低いままである理由として、彼の全作品の中で怪異譚の占める割合は多くはないうえに、間歇的に執筆されたことがまず挙げられよう。そもそも、いわゆる怪談集というものを生前のメトカーフは刊行したことがなかった。また、彼の秀作の大半では、曖昧さが無気味な雰囲気を醸成するのに大きな効果をあげているが、そのいっぽう、整合性のある解釈、ひとつに確定した読みが困難あるいは不可能になるという点で難解、晦渋と化す。さらに、彼の作品群の孕む狂気と妄想──それはわたしたちの日常の現実を突き崩し、脳髄がじかに侵犯されるかのごとき危険な眩惑感、眩暈感を惹起する。したがって、エンターテインメントとして広範な読者に受け容れられることはなかったわけだが、これは同時にメトカーフの尖鋭性の証しといえる。たとえば、20世紀後半に怪談というジャンルを極限まで追求したロバート・エイクマンにしても、メトカーフという先駆的存在からの影響を抜きには考えられないだろう。

 生い立ちと結婚

ジョン・メトカーフは、1891年、英国ノーフォーク州の小さな町で生を享けた。父親のウィリアムは元商船員で、その経験を生かして少年向け海洋小説にも筆を染めた人物である。のみならず、メトカーフの一族は海で働く人々が大半であり、彼の作品に船や船乗りに材を採ったものが少なくないばかりか、実生活でも海に惹かれ続けたのは、明らかにこうした家庭環境の影響だろう。父親の仕事の関係でカナダロンドンスコットランドなどで暮らした後、ロンドン大学で哲学を修めて、1913年にパリで教職に就いたが、翌年に第一次世界大戦が勃発すると、メトカーフは英国海軍歩兵師団に身を投じた。ただし、ほどなくして陸軍航空隊へと移籍している。戦争が終わると、今度はロンドンで教員となったメトカーフは、余暇に小説を書き始め、文芸誌に短篇が掲載されるようになる。1925年に処女短篇集『煙をあげる脚』が上梓されると、好評をもって迎えられ版を重ねると共に、翌年にはアメリカでも刊行された。メトカーフの傑作選を意図する本書では、この作品集から、表題作の他に、「悪夢のジャック」、「ふたりの提督」、「悪い土地」を採った。なお、『煙をあげる脚』には都合18篇の作品が収録されているが、怪奇小説、超自然小説の範疇に属するものは6篇にすぎない。

こうして作家として本格的にデビューしたメトカーフだったが、処女短篇集刊行の直後、アメリカ人女性と恋に落ちた。その頃たまたま英国に滞在していたイヴリン・スコットである。南部テネシー出身のイヴリンはメトカーフの2歳年下にあたるが、新進モダニズム作家として頭角を現し、アメリカ批評家たちから高い評価を得ていた。彼女は20歳のときに中年の既婚者と駆け落ちして、ブラジルに渡ると同地で6年間を過ごし、1919年にアメリカに戻ってきた。駆け落ちの相手はフレデリッククライトン・ウェルマンという熱帯医学の専門家にして昆虫学者──後には小説家、美術家としても活動するなど多芸多才な人物だった。両者は正式に結婚していないが、ウェルマンの筆名がシリル・ケイ= スコットであることから、イヴリンはスコット姓を名乗っていた。ちなみに、ウェルマンが前妻との間にもうけた子供のひとりが、サイエンス・フィクションや怪奇小説の分野で活躍した作家マンリー・ウェイド・ウェルマンである。
さて、1925年に始まったメトカーフとイヴリン・スコットの共同生活は最初から波乱含みだった。なぜなら、ふたりとも精神的にきわめて不安定な人物であるばかりか、メトカーフは重度のアルコール依存症に苦しんでいたからだ。しかし、同じ小説家である女性との出会いには創作意欲をかきたてられたようで、彼は教職を辞して最初の長篇小説Spring Darkness の執筆に専念、これは1928年に刊行された。同年の暮れ、それまでイギリスアメリカカナダの間を頻繁に往来していたメトカーフは、ようやくアメリカへの正規の移民の許可を得る。本人自身が語るところによれば、アメリカ移住の当初はニューヨークイースト・リヴァーで「艀(はしけ)の船長」をしながら執筆に勤しんだという。

メトカーフとイヴリン・スコットが正式に入籍するのは1930年のことになるが、この頃、イヴリンは、前年に刊行した長篇The W ave の成功によって同時代のアメリカ文学を代表する小説家のひとりとまで目されるようになっていた。当時まだ知名度的には群小作家の域を出なかったウィリアムフォークナーの『響きと怒り』(1929)を推薦する文章をイヴリンが執筆し、同書の版元から小冊子として出版された事実はその証左となろう。ただし、この時期が彼女の名声、栄光の頂点であった。同じく1930年にメトカーフは長篇Arm’s Length 、翌年には短篇集『ユダ』を刊行した。後者から本書には「永代保有」、「時限信管」の2篇を採ったが、処女短篇集と同様に、純然たる超自然物語は少なく、全部で4篇しか含まれていない。メトカーフにとってはこれが2番目にして最後の短篇集となる。なお、彼は生涯に5冊の長篇を刊行したが、1冊を除いては「普通」の小説である。また、1932年には、本書に収録した短篇「ブレナーの息子」が限定本として単行出版された。
 

精神の混迷、そして破滅

1930年代の半ばを過ぎる頃から、メトカーフの心身は深刻な危機に瀕しはじめた。長篇Foster-Girl1936)を何とか書き上げたものの、37年にはメトカーフは精神病院に入るのを余儀なくされる。さらに、これを契機として、イヴリンが別居を決意したので、彼は大きな衝撃を受けた。1939年第二次世界大戦の勃発にともなって、メトカーフはカナダ英連邦空軍に加わり、3年後にはロンドンが任地となった。大戦終結後の46年、除隊したメトカーフの許にイヴリンが戻ってきてからも、ふたりは英国にとどまるが、どちらも作家として生計を立てることはできない状態にあった。フォークナーが1949年度ノーベル文学賞を授与されたとき、イヴリンは完全に忘却された小説家となっていたばかりか、夫と共にロンドンで極度の貧困に喘いでいたのである。ちなみに、1940年、フォークナーは、とあるインタヴューで同時代の女性作家について意見を求められた際、イヴリン・スコットの名を挙げ、「女にしては、かなりいい」と述べていた。1953年、ふたりは旅費を何とか工面してアメリカへと戻る。とはいうものの暮らしがさして好転したわけではなく、メトカーフとイヴリンは相変わらず惨めな生活を送る。こういった状況の下で、メトカーフは過去20年間に断続的に執筆した中短篇を1冊にまとめて刊行しようと計画した。だが、イギリスで出版を引き受けてくれる書肆は見つからず、結局、刊行に同意したのはアメリカオーガスト・ダーレスだけだった。中篇だけを単行出版するという条件である。こうして、1954年ダーレスの経営するアーカムハウスから『死者の饗宴』が上梓された。これは本書に収録した。

『死者の饗宴』から2年後に、生涯最後の単行書となる長篇My Cousin Geoffrey をメトカーフは発表した。この作品は、大戦間の英国の中流階級の家族を背景に、従弟によって精神的に支配される男を描いたものだが、冗漫で退屈というほかない。ただし、結末近くになって、霊魂の入れ換わりという、唐突にして驚くべき展開を見せる。1963年夏にイヴリンが癌で死亡して以降、さらに酒に溺れるようになったメトカーフはニューヨーク精神病院に収容されたが、周囲の友人たちの助けで、翌年秋にはイギリスに帰ることができた。故国で死にたいと本人が強く希望したためである。1965年夏、階段からの転落事故がもとで、彼はロンドンで息を引き取った。

[書き手]横山茂雄(奈良女子大学大学院教授、作家、翻訳家)

【書誌情報】

死者の饗宴

著者:ジョン・メトカーフ
翻訳:横山 茂雄,北川 依子
出版社:国書刊行会
装丁:単行本(319ページ
発売日:2019-05-24
ISBN:4336060657
死者の饗宴 / ジョン・メトカーフ
要注意!? 錯乱と妄想にまみれた禁断の書!