中央政府で大蔵卿、第一次伊藤(博文)・第二次松方(正義)内閣で外務大臣として財政、外交への意欲と自信を見せた大隈重信だったが、いざ総理大臣としてオールラウンドのリーダーシップを問われる立場に立つと、脇の甘い性格を暴露、わずか4カ月の短命で第一次大隈内閣を崩壊させた。

 その政治手法は、1世紀後の平成時代に総理大臣になった小泉純一郎に似ていた。小泉は「抵抗勢力」をあえて仕立て上げ、目指す政策の実現が、「抵抗勢力」の壁によりどうにもならぬとして国民の同情を買い、この判官ビイキをバックに至難の「郵政民営化」を達成してしまったものだった。パフォーマンスぶりも、なかなかであった。

 一方の大隈はと言えば、藩閥勢力の厚き壁の中で伊藤博文と対峙する姿勢で臨んだことで、これまた判官ビイキ、国民の同情と支持を受けたのだった。また、小泉、大隈とも無防備な“ヤンチャ性”という個性があり、頼りなさも国民のバックアップにつながっていたという共通点があった。

 さて、トップリーダーとしてのリーダーシップ不足を露呈させた大隈であったが、なんと総理退陣から16年後に第二次内閣を組織することになる。時に大隈、じつに76歳、昨今のわが政界ならあり得ない“奇跡の復活”であった。

 折から、大正デモクラシーの護憲運動下で、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣が「シーメンス事件」を契機にして崩壊した。当時、大隈は早稲田大学総長の一方で、時事雑誌「新日本」を発行、評論に健筆をふるっており、国民の「民衆政治」への熱烈な待望論が起きていた中で、再び「在野の雄」の大隈に白羽の矢が立ったということだった。

 時の元老・井上馨(いのうえかおる)の強い推薦、また長州藩閥の実力者だった三浦梧楼(みうらごろう)による「もはや早稲田のポンプ(大隈)でなければ、民衆の(大正デモクラシーという)大火事は消せない」などの声もあっての、総理大臣としての復帰ということであった。

 しかし、16年間のブランク、齢76、加えて、元々リーダーシップ不足を露呈した人物だっただけに、大隈が政治への情熱を燃やしても限界があった。「外交刷新」「国防充実」「産業奨励」などをスローガンとしたが、とりわけ得意とした外交で致命傷を負うことになった。人は、よく得意で躓つまずくとされている。不得意なことには慎重に構えるが、得意には慎重さを忘れることが多いことにほかならない。大隈も、これで足をすくわれたということだった。

 その顛末は、日英同盟をタテにしぶるイギリスを説得、第一次世界大戦に参戦してしまったことに始まった。その後、権益強化を狙って中国に進出、「対華二十一ヵ条」を強引に要求したのが命取りとなった。40年来の知友の国民党党首だった犬養毅(いぬかいつよし)らに反対されながらの、政策ミスということだった。この経緯がのちに日本が中国への本格的侵略を果たす出発点にもなっている。

 また、外交以外にも、「国防充実」のスローガンの陰で国民生活のための諸政策がおろそかになり、政権最大のバックグラウンドだった民意もさすがに離れざるを得なかった。結局、国民が泣き、軍部と一部の資本家が笑うという2年半の失政続きの中で、第二次内閣に幕を引いたのだった。

 晩年の大隈は、さすがに「才気、村正の妖刀の如し」とかつて木戸孝允(きどたかよし)が評した煥発さは影をひそめ、「顧みて過去の行程を想うとき、多くは失敗と蹉跌との歴史である」(大正10年)と、来し方を振り返ったのであった。

大隈重信の略歴

天保9年(1838)3月11日佐賀県城下の生まれ。立憲改進党結成、東京専門学校早稲田大学の前身)を経て、伊藤、黒田、松方内閣で外相。憲政党結成後、60歳で外相兼務の第一次大隈内閣を組織。76歳で第二次内閣組織。大正11年(1922)1月10日、83歳で死去。国民葬。

総理大臣歴:第8代1898年6月30日1898年11月8日、第17代1914年4月16日~1916年10月9日

小林吉弥こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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