これまでのあらすじ

前回までの内容はこちら。

時は幕末、新徴組の一員として江戸の市中見回りや海防警備に当たっていた男装の女剣士・中沢琴(なかざわ こと)

倒幕の機運がエスカレートする中、日本を二つに分断する戊辰戦争に巻き込まれた琴は、兄・貞祇(さだまさ)と共に主君である庄内藩の一員として奮闘。

戦闘でこそ新政府軍を圧倒したものの、同盟諸藩が次々と降伏する中で天下の趨勢を覚った庄内藩主・酒井忠篤(さかい ただずみ)は、とうとう降伏を決断するのでした。

降伏した琴や貞祇、庄内藩士たちの運命は?

……さて、降伏した庄内藩、そして琴や貞祇たちを待ち受けていたのは、新政府軍の総大将・薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)による寛大な措置でした。

西郷隆盛Wikipediaより。

通常、和議の場における敗軍の将士は武装を解かれた丸腰で力関係を受け入れさせられるのが習いでしたが、明治元1868年9月27日、庄内藩の本拠である鶴ヶ岡城に入った西郷は逆に庄内藩士の帯刀を許し、逆に自分自身を含めた味方は丸腰となって交渉に臨みました。

「お互い元より怨みなどなく、それぞれ信じる正義ゆえ、あるいはいっときの都合で敵味方に分かれたまでのこと。まして戦の勝ち負けは時の運、たとい敵であろうと武門たる尊厳を損なわぬように遇せよ

勝利で驕り高ぶる部下たちを厳しく戒め、どこまでも謙虚な至誠を示した西郷に多くの庄内藩士が感動し、後に西郷を慕ってその教えを学びに行く者が絶えなかったそうです(※西郷の教えは『西郷南洲遺訓』にまとめられ、今日の私たちに薫陶を与えてくれます)。

西南戦争。小林永濯「鹿児島新報田原坂激戦之図」明治十1877年10月

余談ながら、同じ東北でも会津藩を攻略した薩摩軍は敗者を徹底的に辱め、戦死した会津藩士の亡骸を葬らせず、野犬やカラスの喰い散らかすに任せるなど、冷血非道の処断に及んだため、後に西郷が挙兵した西南戦争では、少なからぬ庄内藩士が西郷軍に与した一方、会津藩士はことごとく薩摩憎しで官軍に加勢したそうです。

ともあれ庄内藩に対する処分は寛大で、一度は改易(かいえき。領地没収)とされたもののやがて復帰し(石高は17万石⇒12万石に減封された)、藩主・酒井忠篤の罪も明治二1869年9月23日に赦されました。

捕虜とされていたであろう琴たちは恐らくそれより早く釈放され、暫く庄内にいましたが、明治七1875年に兄・貞祇と共に暇を乞います。

浪士組に参加した文久三1863年から実に12年ぶりの帰郷(※江戸に居た期間に帰省くらいしたかも知れませんが)、琴は37歳前後になっていました。

強すぎて生涯独身!明治・大正を気ままに生きる

……さて、故郷に帰ってきた琴は「もう男装する理由もないから」と女性の姿に戻ります。

女性の姿に戻った琴(イメージ)。

実質上の引退宣言ですが、江戸警護や庄内戦争で活躍した女剣士とあって、求婚する男性が後を絶たなかったそうです。

しかし、これと言った魅力的な男性にはなかなか出会えず、いちいち会って丁重にお断りするのも面倒になって来た琴は、求婚者たちにこんな条件(ハードル)を設けます。

「私より強い男性と結婚します!」

つまり「自分と剣術の試合をして、勝った者と結婚する」と言ったのですが、これだけでも剣術の腕前に自信のない多くの男性を篩(ふるい)にかけることが出来ました。

求婚者との真剣勝負(イメージ)。

それでも勝負を挑んでくる腕自慢も表れたそうですが、誰一人として琴に勝てる者はなく、結局生涯独身だったそうです。

そんな事などお構いなく、琴は気ままな独り暮らしを満喫。時おり好きな酒を呑んでいい気分になると、陽気に唄って剣舞など楽しんだと伝えられますが、昔の武勇など思い出していたのかも知れません。

エピローグ

琴が亡くなったのは昭和二1927年10月12日、88歳の米寿ごろと言われますが、彼女の墓は故郷にあり、今も時おり幕末ファンが参詣するそうです。

ちなみに、琴や貞祇たちが修行に励んだ剣術道場は大正初期、貞祇の子・栄太郎(えいたろう)の代に火災で焼失してしまったそうですが、平成三十2018年4月に子孫の方が琴の墓の新調に合わせて、記念碑を建立されました。

かつて激動の幕末を闘い抜き、明治・大正の世を生きた琴や貞祇たちの遺徳は、今なお偲ばれ続けています。

【完】

参考文献
岸大洞ほか『群馬人国記 : 利根・沼田・吾妻の巻』歴史図書社、昭和五十四1979年4月
石村澄江『上州を彩った女たち』群馬出版センター、平成二十六2014年11月
石川林『事件で綴る幕末明治維新史 上巻』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、平成十1998年6月
斎藤正一 著/日本歴史学会 編『庄内藩』吉川弘文館、平成七1995年1月

 
関連画像