「いだてん」第26話「明日なき暴走」が放送されました。

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第一部の、次代につなぐラストも神回でしたが、今回も神回でした。主役は人見絹枝。日本人女性として初めて参加した第9回アムステルダムオリンピックで、日本人女性として初のメダルを獲得。

100mでのメダル獲得を有力視されていた絹枝でしたが、周囲からのプレッシャーもあってか、準決勝で敗退。「男は負けても帰れるけど、女は勝たなければ帰れない」という絹枝の叫びは、女子スポーツを背負って立つ存在として、次の世代につなぐ立場としてのプレッシャーも感じさせます。

おそらく多くの人が涙したこの場面、「やっぱり女は……」と言われることを懸念するところなどは特に共感を呼んだのではないでしょうか。この時代からそういった考え方がほとんど変化していないことを痛感させられる場面でもありました。

銀メダルだけど、タイムは金と同じ!

講演を行った高田高等女学校の運動部員達と共に(1927年

ほとんど100mに注力していましたが、800mにも出場することを決意し、見事銀メダルを獲得しました。

タイムは2分17秒6。1位のラトケ選手とは胸一つ分の差しかなく、記録は同じでした(世界タイ記録)。

オリンピックこそ優勝を逃しましたが、その前後に参加した各種大会では100mや走り幅跳びなど複数種目で7度も世界記録を樹立する選手でした。

スポーツが殺したのではなく、スポーツに死んだのです

オリンピック以外でも世界各地を飛び回り、日本の女子スポーツ発展に大きく貢献した人見絹枝ですが、無理がたたって24歳の若さで亡くなります。

1931年、オリンピックでの快挙から3年後のことです。スポーツ選手として、そして新聞記者として精力的に活動していましたが、3月に病で床に伏してしまいます。過労でした。喀血し、肋膜炎で入院することになります。そこからはわずか数か月の間にみるみる弱り、7月には肺炎を併発。お見舞いに訪れた恩師・二階堂トクヨや共にオリンピックへ行った仲間である織田幹雄らは変りはてた姿に驚いたといいます。

結局そこから快癒することなく、絹枝は8月2日に息を引き取りました。その日は奇しくも、銀メダルを獲得したのと同じ日でした。

後進の育成に力を入れていた絹枝は、自分がスポーツに身をささげたあげく早死にしてしまうことを案じており、こんな言葉を残したといいます。

わたしが死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ、女の子スポーツやらせるのは危険だといわないだろうか」

女子スポーツに対する世間の目はいまだ好意的とはいえませんでした。オリンピック以前から、人見絹枝が矢面に立って功績をあげることで、「これからの女子選手たちには私のような思いをさせないように」と行動で示してきたのです。彼女は最後の最後まで、次代の女子スポーツ選手の行末を想っていました。

絹枝が亡くなったあと、恩師である二階堂トクヨは彼女のそんな思いをくみ取ってか、こんなふうに言ったそうです。スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」と。

絹枝の死後、オリンピックでは新たな女子選手たちが活躍し始めます。絹枝がシマの想いを受け継いで励まされたように、絹枝の活躍に励まされ勇気をもらった女子選手がいたのです。またバトンをつなぐように登場するのは女子水泳選手の前畑秀子。来週また登場しますよ!

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