1993年Jリーグ創設前は、報道陣不在の遠征も珍しくなかった

「とにかく私たちの時代は、とことん結果にこだわりました。それしか伝わらなかったですから」――八重樫茂生(元日本代表主将)

 コパ・アメリカ南米選手権)で9年半ぶりに日本代表戦がテレビ中継されなかった。だが海外での日本代表戦中継の歴史は、まだそれほど長くはない。Jリーグが創設される前は、テレビ中継どころか、報道陣不在の遠征も珍しくなかった。

 例えば、1992年に中国で開催されたダイナスティカップ(現E-1サッカー選手権)で、ハンス・オフト監督が指揮する日本は大方の予想を覆して初優勝を飾った。それを機に低迷の歴史にピリオドを打つことになるのだが、この時同行した取材陣は2人だったそうだ。

 さらに55年前の東京五輪まで遡ると、サッカーは最もチケットが入手しやすい競技だった。

 日本は初戦で優勝候補のアルゼンチンと対戦し、3-2で逆転勝利を飾る大番狂わせを演じている。しかし試合が行われた駒沢陸上競技場では、動員された子供たちがスタンドを楽しく駆け巡る光景を、ピッチ上の選手たちが確認できたという。

 まだ日本には、アマチュアリーグ戦もなく、ノックアウト方式のカップ戦のみだったので、日本代表は予算さえやり繰りできれば、長期遠征が可能だった。国際Aマッチを組めるのはアジア内だけで、欧州や南米に出かければ、代表同士ではなくクラブチームと親善試合を重ねた。そんな状態だから、アウェーの試合は翌日の新聞にスコアが載れば良いほうだった。

 八重樫茂生は、そういうアマチュア時代に、ただ1人だけ3度も五輪に出場した名手だった。1956年早稲田大在学中にメルボルン大会に初出場し、64年東京大会でベスト8、68年メキシコ大会では銅メダルを獲得している。

 最初の五輪に出場した頃は、完全にマイナーだったサッカーが、東京大会で少しだけ人気に火がつき、メキシコ大会ではブームに変わる。それを体感してきた。

メキシコ五輪開幕戦を前に長沼健監督が選手にかけた言葉

「とにかく私たちの時代は、とことん結果にこだわりました。だって、それしか伝わらなかったですから」

 当時の代表選手たちは、なんとかサッカーという競技を知ってほしいという使命感に満ちていた。

 八重樫東京五輪を最後に引退するつもりだった。だが日本代表監督ながら2歳しか違わない長沼健から「アジア大会で優勝するチャンスだから、あと2年だけ頑張ってくれ」と説得され、アジア大会を3位で終えると、さらに2年間現役生活を続けることになった。

 メキシコ五輪開幕戦を前に、長沼は選手たちに声をかけた。

「今は、こんなにたくさんの子供たちが応援してくれている。ありがたいもんじゃないか。その期待に絶対応えような」

 銅メダル獲得で第一次ブームが到来し、日本リーグに4万人の観衆が集まることもあったが、低迷とともに人気も下降の一途を辿った。結局アマチュア時代の金字塔から、プロ創設までは四半世紀を要した。(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランススポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。