(盛永審一郎:富山大名誉教授)

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安楽死」に対する関心が高まっている。

 少し前になるが、6月2日NHKスペシャルで放送された『彼女は安楽死を選んだ』は賛成・反対双方から大きな反響があったようである。

自らストッパーを外して点滴パックに入った致死薬を体内に

 放送は、難病の女性2人の選択を追ったものだった。1人は寝たきり状態になっても生きることを選び、もう1人は安楽死(正確には介助自殺)を選んだ。ただ、放送でよりフィーチャーされていたのは安楽死を選んだ女性の方だった。重い神経の病気に冒され、歩行や会話が困難になりつつある彼女は、医師から「やがて胃ろうと人工呼吸器が必要になる」と告げられている。そのような状態になって生きることを望まなかった彼女は、周囲を説得し、日本では認められていない安楽死をするためスイスにわたり、現地の安楽死団体(ライフサークル)の手を借りて自ら命を絶つ。そこまでカメラは追っていた。おそらくテレビカメラの前で安楽死した日本人は彼女が初めての人なのではないだろうか。

 この番組と彼女の選択を、個人の「死ぬ権利」を全うした逝き方、として肯定的にとらえる人もいたようだが、「重度障害者になるよりも死んだ方がマシというメッセージだ」として批判する人もいる。

 私は正直に言えば違和感のほうが強かった。「患者の自己決定権の尊重」という側面は理解できるのだが、それがまるで医療者には責任がないように、死を他人事のように受け止めることが強調されすぎているような気がしてならないのだ。例えば、彼女の安楽死を手助けする安楽死団体の女性医師の態度だ。スイスでは、事前に2名の医師が、それぞれ本人を診察、本人の意思を確認し、「安楽死もやむを得ない」と認めれば、介助自殺を受けることが認められている。

 すでに2名の医師の承認を得て、いよいよ安楽死に臨む当日、ベッドに横たわった彼女の腕には点滴のチューブがつながれている。介助自殺を施す女性医師は、チューブの先の輸液パックに致死薬を注入する。そして横たわる女性に最終的な意思確認をし、本人の気持ちが揺るいでいないようだったら、「点滴のストッパーを外していいわよ」と告げるのだ。本人がストッパーを外すと、ものの数十秒で眠るように亡くなっていく。

 番組が追った日本人女性はこの逝き方に満足したようだが、「安楽死で逝きたい」と思った人すべてが、いざ自分の生命が絶たれるという状況に置かれて、同じような態度でいられるわけではないだろう。私はこのシーンを見て、これでは医療者は死刑執行のスイッチにすぎないのではないかと感じてしまった。なぜなら、医療者が彼女の自己決定の内容につゆ関与することはないからだ。患者の自己決定権を尊重することと、患者の自己決定の内容を事務的に受容することとは異なると思う。そして患者にとっては、焦って死へと急かされない対応こそが必要であるという思いを改めて強くした。

 実は現在、フランスでもある男性の「ソフトな安楽死」(鎮静)を巡って、大きな論争が起こっている。

 2008年、オートバイの事故で脳に重度の損傷を受け、10年以上ほぼ植物状態にあるフランス人男性、バンサン・ランベール氏(42歳)についてだ。

参照:安楽死反対のフランスで始まる「ソフトな安楽死」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56445

 ランベール氏の妻は、「事故以前に『もし自分の身に何か起きた場合は延命治療を中止し、尊厳死を望む』という彼の意思を聞いていた」と訴えた。しかし、裁判所は、法的に有効な事前指示書が存在しないとして、その意思を認めなかった。担当医は2014年1月、2005年に成立していた尊厳死を認める法律と、妻と兄弟8人のうち6人の同意に基づき、栄養の静脈投与を停止することを決定した。

 ところが敬虔なカトリック教徒の両親と兄弟2人は、これに納得しなかった。回復の可能性もあるとして、生命維持の継続を求め訴訟を起こしたのだ。

 こうして植物状態になってしまったランベール氏の親族間で、意見が全く対立してしまったのだ。

親族間の意見対立で患者の扱いが二転三転

 一審では生命維持停止を認めない判断が下されたが、フランスの最高行政裁判所である国務院は2014年6月、「回復の見込みが全くない患者の治療を中止することは合法」との判断を言い渡した。

 これを受けてランベール氏の両親は、今度は欧州人権裁判所に訴えを起こす。2015年6月、欧州人権裁判所の判断は、フランスの裁判所が下した判決を支持する、というものだった。

 その後もランベール氏の両親は延命措置の継続を求め続けた。今年1月、医師が延命措置の中止を決断、裁判所や国務院もその決定を支持したため、担当医はランベール氏の家族に「5月20日の週に生命維持装置を外す」と告げていた。

 5月20日、医師は生命維持装置の停止に踏み切るが、その日のうちに、パリの控訴院(日本の高等裁判所にあたる)からランベール氏に対して治療の再開のため「あらゆる措置をとるよう」に命じられる。

 このように、事態は二転三転してきたのだが、このたび、ついに「最終的決定」が下った。AFPなどの報道をまとめると以下のようだ。

 日本の最高裁に当たるフランスの破棄院は、6月28日、ランベール氏に対する水分補給と供給の再開を命じたパリ控訴院の5月20日の決定を覆し、生命維持装置の停止を認める判決を下した。もっとも、控訴院が判断を下す権利がないとされただけで、生命維持を停止することそのことに判決が下されたわけではない。だから論争はまだ続くことが予想されるが、ランベール氏の両親に対する有用な救済策はもはや存在しなくなり、医療チームがいつ決断を下すかどうかだけの状況となった。

 母親は、7月1日に国連の人権理事会でランベール氏の状況について、「バンサンは植物状態でない」と演説した。そして「生命維持装置が取り外された場合、裁判所に医師たちを殺人罪で告発する」とし、さらに国連の障害者権利委員会の決定を待たないとするならば大臣も釈明を求められるだろう、と脅かした。

 だがその翌日には、担当医らが破棄院の判断にのっとり、生命維持装置を取り外し始める意向を家族に電子メールで伝えたという。

 このようにランベール氏の一件で、彼の家族が分断され、国や欧州人権委員会、さらには国連障害者権利委員会まで巻き込んでの大論争に発展したのは、第一に、ランベール氏本人が「事前指示書」を書いていなかったからだ。そのためフランスで定められた安楽死に関する2016年の新法では、当時国民の2%しか所持していないとされた「事前指示書」の内容の充実が図られた。さらに2005年の尊厳死法では患者が意思表示できない場合、医師は「事前指示書」を参照する義務しかなかったのに対して、新法では重大な緊急時以外は、医師は診断、処置、治療の決定に際して患者の指示書に従わなければならないという強制力が「事前指示書」に与えられたのである。

 事前指示書の徹底が図られないままだと、いくら患者本人が「万が一の場合には、延命措置は望まない。尊厳死を望む」と語っていたとしても、ランベール氏と同じような「泥沼」が繰り返される可能性がある。

家族が患者本人の最善の利益を代弁してくれるとは限らない

 実際にアメリカでも、1990年から15年間、テリー・シャイボさんというほぼ植物状態になってしまった女性を巡り、親族間で深刻な対立が起こっていた。

 ランベール事件とシャイボ事件、これらの二つの事件からわかったことは、残念ながら、家族は本人の意思を推定したり、最善の利益を代弁してくれたりするとは限らないということである。とくにシャイボ事件では、「本人は無意味な延命よりも尊厳死を望んでいた」として、生命維持装置の取り外しを主張していた彼女の夫に、実はもう交際している女性がいて、シャイボさんのお金を当てにしている、という噂が立った。

 人間は、いつどのような状況に陥るかわからない。そしてそのとき自分の望み通りの死を迎えたいならば、われわれはあらかじめそのような状況を想定し、事前指示書の文書を、しかもできるだけ詳しい文書を残しておかなければならない。それが不可能なら、本人の最善の利益を代弁してくれる受任者を指定しておくということだ。

 ドイツの本屋で売られている事前指示書では、「私が、十中八九、不可逆的な(もはや回避できない)死の過程にある時、私は、以下のことを要望します」というチェック項目がずらっと並んでいる。その中には、「死の始まりを遅らせる処置を断念すること」「心肺停止の場合いかなる蘇生術も講じないこと」「人工栄養を与えないこと」「人工呼吸を施さないこと」といった日本の類似の書式でもなじみの項目に加えて、「医師の判断で人工輸液を減らすこと」「たとえこの薬剤が事情によっては生命を短縮したとしても、与えてください」といった項目まであった。相当細かい点まで、意思を明確にしておかなければならないのだ。

 望み通りの死を迎えたいならば、このような事前指示書で指示しておくことが必要だ。だが一方で、事前指示書の作成は、項目にペンでチェックするだけでいい、というような簡単なものではないだろう。われわれは事前指示書を作成する際に、死の恐怖で動転し感情的になるかもしれないし、逆に妙に落ち着いた理性的な態度(『死ぬ瞬間』の著者、キュープラ=ロスが指摘する「感情が欠落した状態」)になることもある。

 この理性の冷淡さにも気をつけなければならない。文書を作成するとなると、どうしても感情より理性のほうが先行しがちになる。その、理性的に「こうありたい」という気持ちが、「生きたい」という感性を押し殺す場合もあるのだ。

 確かに古代のストア派の哲学者たちは、情動に動かされないことこそ、賢者の理想の境地と説いた。しかし自らの生命を左右する「事前指示書」を書く段にあたっては、あまりに理性的になりすぎて、「潔く」「格好良く」ありたい気持ち(日本では「恥」)が先に立ってしまうと、大切な人とのこの世での再会のチャンスを永遠に失うことになりかねないのである。

同意していなかった「気管切開の処置」に感謝した患者

 京都大学名誉教授の哲学者・加藤尚武氏は、その著作の中で次のように述べている。

「私のよく知っている先輩の哲学者が、まだ三十代のころに『医者は死にかかった患者の気道を切開して数日間を生き延びさせる。しかし、患者は言葉を発することができなくなる。自分にはそういうことは絶対にして欲しくない』と言つた。・・その彼が六十歲で死ぬことになるのだが、死の直前に気道切開を受けたという。彼自身は気道切開に同意していなかったはずである。というのは、夫人から『最期のときに自分の喉を指さして医師に向かって〈ありがとう〉という仕草を何度かした』と聞かされたからである。つまり『自分は気道切開に反対していたが、(奥さんと再び会えた)いまでは医師が気道切開をしてくれたことに感謝している』ということを、文字通り必死の思いで伝えようとした」(加藤尚武著作集第8巻、未來社)

 意思表示が明確にできる時に示した意思が、その人にとって最良の選択肢なのかどうかはまた別の問題だ。本人が事前に示していた意思とは違った処置を受けたほうが、幸福な最期になることだってあるのだ。加藤氏の一文は深くそのことを示唆している。

 だから医療者は患者が「事前指示書」を作成する際に、そのことも気づかせてあげる必要がある。そして何度でも書き換えることができる自由も必要だ。

 そのためには、もう一歩踏み込んで、患者―医療者の「共同の意思決定」が求められると私は思う。重篤な病気を抱えている患者は、闘病や家族への気兼ねなどで、精神的に追い込まれていることが多い。医療者はそうした患者の状況をよく理解し、患者の意思決定の「分業」を担う必要がある。

「それは患者の自由の侵害にならないのか」と批判する人がいるかもしれない。そうではない。それは、患者を死のストレスから解放させ、自由を取り戻させるという意味で他者危害排除とも言えるだろう。行き過ぎた理性も一種の狂気なのだ。そこで求められるのが、引用した文章に登場する医師のような態度なのだ。

 ただ、現在の日本の医療者にそのような役割は期待できるだろうか。日本では諸外国と比較して医療者の絶対的な数の不足が指摘されている。医療者には患者の身になって相談に乗る時間がないというのが現状らしい。問題はそれだけではないだろう。フランスでも新法作成において指摘されたのだが、やはり医療を学ぶ者は、「たこつぼ的な」専門教育だけでなくて、緩和ケア・倫理・終末期の専門知識、さらには不必要だとしばしばいわれている哲学をはじめとする一般教養を身に着ける必要がある。医師の人間的な責任は、患者の身体的な機能的完全性を超えて、患者の幸・不幸という次元の中に向けられているからだ。

 それら無くして、「スイスオランダで取り入れられているから」「制度を望む声が多いから」という理由だけで、安楽死や自殺ほう助の法整備を進めるようなことになれば、この国の終末期医療は救いようがないほどの混乱を来すことになるだろう。

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