◆なぜMMTは国定貨幣論に接近したのか

 前回述べたように、筆者はMMTを支持していません。それにもかかわらず、MMTにはいいところがたくさんあることを認めます。なにより、主流派経済学が理論上の貨幣(お金)を経済学から消してしまったのとは対照的に、MMTは、現代経済の中心には貨幣(お金)があると見極めて、貨幣を中心にした経済学を独自に組立てようとしていることには好感がもてます。

 もしかすると、お金が経済の中心にあるなんていうことは当たり前じゃないかと思われるでしょうか。この点は「世間の常識は経済学の非常識」であることを端的に物語っています。いまでも、主流派経済学にはお金が登場しないのです。(嘘だと思うなら、ミクロ経済学マクロ経済学の教科書を開いてみてください。貨幣は、まったく取扱いがないか、附録か補論に位置づけられているだけです。)

 貨幣論を中心に研究してきた筆者にとって、MMTは心のオアシスのように見えます。しかしそれはただの横恋慕。MMTがどうして国定貨幣論に大きく振れてしまったのかと、そのいきさつを思うと、少々やるせない気持ちになります。

 前回は国定貨幣論と信用貨幣論の関係をみました。今回はMMTにおける商品貨幣論の取扱いについて説明します。MMTが信用貨幣論の着想を受容しながら、国定貨幣論との無理な結婚を迫らざるをえなかったのは、商品貨幣論とのつらい別れがあったためです。過去の商品貨幣論がしっかりしていればこうはならなかったでしょう。

 多少なりとも貨幣的な経済学に触れたことのある方であれば、信用貨幣論が国定貨幣論と仲がいいなどという考えは通常とりえず、むしろ商品貨幣論と親和的であることに気づきます。商品貨幣論ベースに信用貨幣論を発展させられていれば、こんなことにはならなかったのです。それができなかったのは、もちろんMMT自身の限界ではありますが、商品貨幣論側にも問題なしとはいえなかったでしょう。

商品貨幣論の誤り
 躓きの石は、現代の不換銀行券と預金通貨を経済学が適切に説明できていない点にあります。私たちが普段使っているお札(銀行券)は、冷静に考えればただの紙きれです。銀行に預けているお金も、通帳に記載された数字にすぎません。どうしてこれらが価値をもつのでしょうか。お金として使われるのでしょうか。

 お弁当を買うためにお店のレジで1000円札を支払います。お客さんはお弁当を食べて嬉しいですが、お店の人は1000円札を使ってどうやって楽しみを得ようというのでしょうか。額に入れて眺める楽しみ方もあるでしょうが、それがお札の本懐とはいえません。1000円札そのものを使うことによって得られる価値があるとは考えられず、モノとしての使用から切り離された価値があると考えるほかありません。

 この価値がどこから来るのか。市場で売買される商品から来ると考える商品貨幣論と、国が市場の外部から与えると考える国定貨幣論があります。

 本稿で問題にしたいのは、MMTでは、商品貨幣論金属主義的な貨幣観との混同がはなはだしいということです。お札と「金(=gold)」との交換が約束された金本位制のもとでは、お金の価値は「金」によって支えられていると考えることができました。しかしそう考えると、「金」との交換ができない現代のお金の価値を説明できなくなります。MMTは、「金」と商品の区別がつかないために、「金」による説明原理を失った途端に、商品貨幣論そのものを否定し、国という外部の要因で説明するしかなくなってしまうのです。

 評論家中野剛志氏は『富国と強兵』(東洋経済新報社、2016年)で、次のように商品貨幣論を批判します。

「現在の主流派をなす経済学は、アダム・スミスを開祖とする『古典派』、およびその後継たる『新古典派』という系譜をもち、その歴史は200年以上に及ぶ。しかし、『古典派』および『新古典派』経済学は、商品貨幣論または金属主義という誤った貨幣観を抱いてきた。金属主義は、物々交換の効率の悪さを克服するために、交換手段として利便性の高い『物』として金属貨幣を導入したと考える。金属貨幣は、金銀などの貴金属でできており、それ自体が価値のある『商品』として取引されるのである。

 このように、金属主義の考え方によれば、金属貨幣は『商品』の一種とみなされる。したがって、金属主義の貨幣観に立つ『古典派』および『新古典派』の経済学説は、物々交換経済と貨幣経済との間に大きな違いを見出すことがない。貨幣は商品の一種に過ぎず、商品と商品の交換を円滑にするための単なる媒介物なので、金融的な要因が実体経済に影響を与えることはない。すなわち、貨幣は中立である。これが古典派及び新古典派経済学の仮定である。

 要するに、主流派経済学は、市場経済を物々交換と同等にみなしているのであり、その理論の中には、(信用貨幣という)現実の貨幣が存在しないということである。
 ダドリー・ディラードは、この古典派および新古典派経済学の想定を『物々交換幻想』と呼び、その系譜をたどっている。」(『富国と強兵』、なお、誤植と思われる部分は引用者が修正した。)

 長々と引用しましたが、要するに中野氏は、古典派と新古典派の経済学は、貨幣を、物々交換を円滑にするための便利な道具とみなす「商品貨幣論または金属主義という誤った貨幣観」に陥っていると批判しています。

 筆者が最も信頼する研究者の一人である大月短期大学教授の内藤敦之氏も、商品貨幣論には手厳しく、『内生的貨幣供給理論の再構築』(日本経済評論社、2011年)にて、次のように述べています。

「しかし、信用貨幣が現実においては重要な役割を果たしているのに対して、経済学の理論上は、貨幣に関しては信用貨幣を不規則なものと見なし、あたかも商品貨幣であるかのように扱う見解が主流となっている。そのような理論では、現実の貨幣的な現象に接近することも困難であろう。」(『内生的貨幣供給理論の再構築』)

 両者の金属主義批判の内容は正しいものです。金属が貨幣の本質だと考える見方はたしかにおかしく、現実を説明できません。ところがMMTでは、金属主義としての商品貨幣論は採りえないと考えるがゆえに、国家の力によって貨幣に価値を与えるとする国定説に助けを求めてしまうのです。金属主義批判には一理あるものの、解決法は下策をいってしまいました。

 しかし、これらの商品貨幣論批判には抜け落ちている視点、あるいは慎重に回避されている論点があります。それはカール・マルクス商品貨幣論です。商品貨幣論は古典派と新古典派の専売特許ではありません。相当雑な議論をする方々を除けば、大部分のMMT論者はマルクスに敬意を払い、金属主義批判の対象から省きます。

 実際、内藤氏の批判の矛先は新古典派の経済学者を念頭に向けられており、またその問題点を、物々交換モデル、お金を交換の道具と考える説(交換手段説)、物価がお金の量で決まると考える説(貨幣数量説)においている点で、マルクス商品貨幣論とは無縁です。内藤氏は慎重に断っています。

「ここで批判の対象としている商品貨幣説は、メンガーに代表される新古典派的、オーストリアン的な理論である。マルクスおよびマルクス経済学に関しては、ここでの批判が単純に適用しうるかどうかは、それ自体大きな問題であると思われるため、ここでは扱わない。」(『内生的貨幣供給理論の再構築』)

 MMT国定信用貨幣論が、商品貨幣論の研究史を慎重に吟味していれば、古典派・新古典派の挫折からすぐさま国定説へと飛びつくような、没理論的な解決を求めることはなかったといえるでしょう。

マルクス商品貨幣論
 筆者は、経済理論学会の学会誌『季刊経済理論』(55巻4号、2019年)にて「貨幣的経済学の展開」と題する特集を組みました。そこで先に紹介した内藤敦之氏に論文を寄稿してもらい、巻頭言にて「内藤論文が紹介した、表券主義商品貨幣論批判は金属主義を指弾するもので、マルクスの商品貨幣理解と平仄(ひょうそく)が合わない。金属主義はむしろ財貨幣とでもいうべき内容であり、」財と商品の意味「をはっきりさせれば、古典派以来の交換手段的な金属貨幣論とマルクス的な商品貨幣論とが混同されることはない。」(括弧内は引用者による挿入である)と述べました。

 内藤氏が、マルクスは取扱いが難しいと率直に述べているように、マルクス商品貨幣論と古典派・新古典派の商品貨幣論とを同じ内容とみなすことは決してできません。

 これは経済学の初歩の初歩ですが、そもそも新古典派に商品という概念は存在しません。新古典派が考える市場で取り扱われる「物」は財です。したがって、新古典派の商品貨幣論といわれているものは、厳密には財貨幣論というべきものです。財交換または物々交換に基づく理論だからです。

 つまり、物々交換論をベースに貨幣を考えるから、「物」(財)が交換の道具になり、最も便利な道具は金属だ、という解釈になってしまうのです。そうすると、金本位制は説明できるけれども、不換銀行券は説明できないことになります。しかも、りんごと魚を交換するような物々交換論を徹底するなら、そもそも貨幣に固有の問題を考える必要がなくなるので、経済学に貨幣論はいらない、という結論になります。

 さて、商品の概念はマルクスによってはじめて与えられたものです。これは「物」(財)でもありませんし、金属でもありません。市場で売られているすべての「物」が商品です。つまり、みかん著作権も等しく商品であり、かたちがあるとかないとか、金属か非金属とかいうことは関係がありません。商品には、売り物としての価値がある、これが貨幣の基礎なのです。

 内生的貨幣供給論も指摘するように、現代の貨幣は中央銀行の債務です。そして、この債務の価値は中央銀行の資産にある商品によって支えられています。この関係は兌換があるかないか、商品が金属か金属でないか、という論点にかかわりません。

 マルクスは、古典派の物々交換論を捨て、商品がお金で売買される資本主義論として経済学を再構築することで、古典派・新古典派、そしてMMTが解決できなかった商品貨幣論と信用貨幣論との関係を説明したといえます。

 商品貨幣論に結びつけられた信用貨幣論の知見は極めて常識的なものです。すなわち、貨幣の価値は、銀行システムを媒介にして、市場で売買されている商品の価値にリンクされます。財政は、税を通じて市場で生み出された価値を集めて使うだけです。魔法を使う余地はどこにもありません。MMTが、物価という恣意的な留保を付けて、無制限ともいえる財政支出を容認してしまうのは、貨幣を論じるときに市場との関係をいったん切って、国の力という外部的な要因を持ち込んでしまうためです。財政を市場から遊離させる理論的な操作をしているようにもみえます。

 ところで、冒頭「商品貨幣論側にも問題なしとはいえなかった」と述べました。新古典派とマルクス派と、マルクス派内部での二重の論争関係が複雑であったために、金属主義マルクス商品貨幣論との混同を、放置する結果になってしまったためです。

◆国家権力説の限界
 日本経済研究センターの岩田一政代表理事の見解にたいする中野氏の批判に、MMTの問題が典型的に現れています。中野氏は前著の中で、岩田氏の見解をこう整理しています。

「たとえば、岩田一政は、ペーパー・マネーの出現により、金属主義ではなく表券主義が正しかったことが示されたと指摘しつつも、『ただし、クナップの『貨幣国定説』のように、貨幣をもっぱら国の法による創造物であるとみることは正しいとはいえない。多くの発展途上国にみられるように、国が貨幣を法定しても、人々は貨幣とは別に金を退蔵することが多い』とクナップを批判している。」(『富国と強兵』)

 この岩田氏の国定説批判にたいする、中野氏の反論は次の3点です。

 1点目は、金が選ばれるのは「発展途上国では貨幣の背後にある政府権力が不完全ないしは弱体だからである。したがって、岩田が持ち出している例は、むしろ貨幣を貨幣たらしめるものは強力な国家権力であることを証するものである。」(『富国と強兵』)というものです。

 中野氏は「貨幣を貨幣たらしめるものは強力な国家権力である」といいます。ここで問題とされるべきは、「国家権力」そのものではなく、その「強力」さです。国が貨幣を創ると主張しながら、弱い国では創れないともいうのです。しかしその国の強さはどうやって測るのでしょうか。また、「自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない」ともいわれます。この場合、国が強いから自国通貨建て国債を発行できると説明されるべき内容が、自国通貨建て国債を発行できることが国の強さの証拠とされ、転倒した説明になっています。

 2点目は、ドイツ経済学者であるクナップの主張に関するものです。クナップは、貨幣は「国の法による創造物である」としていますが、岩田氏はこの説を批判しています。中野氏は、それに対して、クナップは「貨幣の本質」を「法貨」だとはいっていない、と主張しているのです。

 この主張はなかなか面白いものです。中野氏はクナップの国定貨幣のベースには信用貨幣があると解釈し、私人間で形成される信用貨幣だけでは経済が安定しないので、「信用貨幣は、法律そして国家を必要とする」とか「『国定信用貨幣論』は、貨幣供給の内生性を基礎としつつも、国家という外生性を導入して補完したものと言える」とかと指摘します。これでは文字どおり国家は「補完」であり、貨幣の本質を規定していません。中野氏の著書の矛盾点といえますが、国定貨幣の解釈としては斬新であり、内容上、信用貨幣論に優位性を与えている点で非常に好ましい解釈です。

 3点目は「これが最大の問題点なのであるが、岩田が、不換紙幣が貨幣として通用している理由は国家権力以外にもあることを示唆しながら、それが何かを明らかにしていないということである。おそらく岩田は、現実問題として表券主義を受け入れざるを得なくなっているにもかかわらず、なぜ表券主義が成り立ちうるのかを理論的に理解できず、金属主義的な貨幣観から完全に抜けきることができていないのであろう」との指摘です。

 反論されている岩田氏にも、金との兌換がある紙幣が、不換紙幣(不換銀行券)になったときの説明原理をもっていないという限界があるようですが、「不換紙幣が貨幣として通用している理由は国家権力以外にもあることを示唆」する着眼は正しいといえます。

 発展途上国は国が弱いから、金が商品貨幣になり、貨幣を国定できない、との説明は、国が貨幣を創るとの命題に矛盾します。権力の強弱で貨幣が商品貨幣になったり、国定貨幣になったりすると考えてしまうと、国定貨幣論は貨幣の本質を説明する理屈ではないことを認めてしまうことにもなります。日本やアメリカは国の権力が強いから貨幣を国定できるわけではなく、ドイツフィンランドが国の権力が弱いから貨幣を国定できないわけでもありません。国の力は経済力です。経済成長率や経済規模に現れるその国の商品経済の強さが貨幣の価値を支えているのです。MMT国定信用貨幣論では、こんな基本的な関係さえも見落とされてしまうのです。

 繰り返しますが、発展途上国ユーロ圏の国々の権力は本当に弱いといえるでしょうか。自国通貨建て国債の発行ができないことをもって権力が弱いとみなしてはいないでしょうか。

 ところで、岩田氏にも問題なしとはしません。現実が変わったから旧説が間違っていたと解釈する、反省的でない思考法はあらためなければなりません。その発想は、ニクソン・ショックに直面した経済学者たちが、商品貨幣論から国定貨幣論に飛び移った態度と変わるところがありません。直ちに説けない難解な問題に直面しても、踏みとどまって考え続ける知的な忍耐力が要されるのです。

◆政策論の前にMMTをアカデミックな観点から評価すべき
 MMTについて論じた2回の連載では、純粋に経済学的な話をしたかったので、れいわ新選組や反緊縮派の話は省略してきました。MMTの議論が政治運動のスローガンに使われるときには、経済学の話からだいぶズレてしまいますし、彼ら・彼女らがMMTのみに依拠しているわけではないためです。参院選前に間に合わせられず恐縮ですが、そういった話も今後できればと思います。

 なお、最後に一言だけ苦言を申し上げさせてください。

 MMTは、理論的にはまだ若い学説です。150年以上の研究蓄積がある主流派経済学マルクス経済学とは違います。有効な経済政策を早く採用してほしいとの気持ちは分かりますが、性急に政策を主張するのではなく、まずはきちんとした、アカデミックな評価を受けてもらいたいのです。それがアベノミクス以降に政策を語るものの務めではないでしょうか。それはアベノミクスサポートする理論家たちが決してやらなかったことでもあります。しかし、だからといって、アベノミクスと同じ流儀で政策を語らなければならないということにはなりません。むしろ、経済学界をバイパスして、政治的な支持を取り付けることに腐心したことが、期待と異なる結末をもたらしたといえます。

 MMTには正しい点もあるかもしれませんが、筆者が一瞥しただけでも、矛盾やほころびが散見される程度の内容です。受け入れがたい批判もあるでしょう。しかし多くは善意からなされるものであり、MMTの自己点検に活かされるべきものです。少なくとも学術研究の観点からは、そういうものとして論争を捉えてほしいと願います。

【結城剛志】
埼玉大学大学院人文社会科学研究科・教授。専門は貨幣論。著書に『労働証券論の歴史的位相:貨幣と市場をめぐるヴィジョン』(日本評論社)などがある。