ラーメンも軍艦も「全部のせ」が最強かどうかは議論の分かれるところですが、飛行機も飛ばせる戦艦、あるいは超ド級艦の主砲も撃てる空母という艦を実際に造り、実戦投入したのは旧日本海軍だけでした。航空戦艦「伊勢」「日向」のお話。

生まれは超ド級戦艦

ひとくくりに「軍艦」とよばれる水上戦闘艦艇ですが、戦艦と空母の人気は別格です。やはり強いものに惹かれるのは人間の性なのでしょうが、それではその2大巨頭の両方の性格をあわせ持つ「航空戦艦」は、ある意味最強といえるでしょう。

実は日本は、かつてその航空戦艦を造った実績があるのです。それが戦艦として生まれながら、後に艦体後部に航空機甲板とカタパルトを装備し、航空戦艦に生まれ変わった伊勢型です。

伊勢型は、そもそも出自は超ド級戦艦であり、1番艦「伊勢」が1917(大正6)年12月1日に、2番艦「日向」が翌1918(大正7)年4月30日に竣工しました。

ただし当初は、この2艦は扶桑型戦艦の3、4番艦として竣工する予定でした。しかし、扶桑型に多くの欠陥が見つかり、その欠陥を補うために大幅な設計変更が行われた結果、別のクラスとして誕生したのです。

伊勢型の2艦が就役した当時、ヨーロッパでは第1次世界大戦が続いていました。戦艦は海上戦力の中心的存在であり、そういったなかで超ド級戦艦として生まれた伊勢型は、武装こそ45口径35.6cm連装砲塔を背負い式で6基装備と、扶桑型と変わりませんでしたが、船体は扶桑型を上回る全長208.5m(扶桑型は205.13m)あり、基準排水量は3万5350トン(同2万9326トン)と大きいものでした。なお、扶桑型の欠陥の多くは改善されたものの、一方で住居空間は狭く、操縦性はお世辞にも良いとはいえないものだったそうです。

1920年代から30年代の戦間期には、金剛型や扶桑型戦艦とともに大きな近代化改装を受け、射程の延伸、装甲の増加、機関の換装強化など走攻守すべてが強化されました。しかし、太平洋戦争が始まっても「伊勢」と「日向」には出番がありませんでした。

それどころか1942(昭和17)年5月、「日向」は主砲の射撃訓練中に、船体後部にあった第5砲塔の爆発事故を起こしてしまいます。

なぜ世にもまれな「航空戦艦」が生まれたのか?

死者重傷者62名を出す大惨事となった爆発事故を受け、「日向」は損傷した第5砲塔を撤去し、そこへ応急的に25ミリ3連装機銃4基を搭載、なおかつ日本戦艦として初めて対水上電探(水上レーダー)を装備しました。

その1か月後、日本海軍は「ミッドウェー海戦」で大敗し、主力空母4隻を失うという大損害を出してしまいます。海軍は、航空戦力増強のために急いで空母を量産しなければならない事態に陥りますが、空母を一から造るとなれば、時間もお金も膨大なものになります。「もっと手軽に空母の代わりになる船は作れないだろうか」と頭を抱えた首脳部の目に留まったのが、旧式かつ足が遅いため活躍の場が限られる扶桑型と伊勢型の4隻の戦艦でした。

特に「日向」に関しては、爆発事故により砲塔の一部が取り除かれた状態であったため好都合とみなされ、最初に改装に入っています。ただし、砲塔全部と艦橋まで含めて全通甲板式(通常の空母に見られる、艦首から艦尾まで障害物のない航空甲板を持つこと)の空母に改装するには、時間的にも費用的にも問題があるため、船体後部の第5(「日向」は撤去済み)、第6砲塔部分のみの限定改装とし、そのぶんカタパルトを装備して航空機の運用能力を補うこととしました。

そのため、水上機(フロート付き機)はともかく、着水できない(フロートのない)普通の空母艦載機は、カタパルト射出した後、着艦は陸上基地かほかの全通甲板式空母に任せることとしていました。着艦は、F-35BのようなSTOVL機(短距離離陸垂直着陸機)でもない限り発艦よりも滑走距離が長く必要で、なおかつ難しいものです。

こうして「日向」は航空戦艦に生まれ変わったのです。これに「伊勢」も続きました。ただし扶桑型の「扶桑」と「山城」については、時間的な都合から改装は断念されたため、結果的に伊勢型の2隻は、日本の軍艦史上ほかに類を見ない「航空戦艦」となったのです。

その後「伊勢」と「日向」は、輸送作戦などに従事したのち、1944(昭和19)年5月1日には第六三四海軍航空隊とともに第四航空戦隊を編成し、第三艦隊に編入されました。

「航空戦艦」実は問題山積

こうして「航空戦艦」として戦力化された「伊勢」「日向」でしたが、「空母と戦艦の両方の性能を持っているからこそ最強」とはなりませんでした。

なぜなら、まず戦艦として大口径砲を搭載した場合、その大きさから船体の中心線をはずして搭載することができません。左舷寄りや右舷寄りに大口径砲を搭載すれば、一発発射しただけでバランスを崩し、後の照準がつけられなくなり、なおかつ副砲を含めたほかの砲の射撃にも影響を与えてしまいます。中央に「どっかり」と主砲が居座っている以上、同様に大きなスペースを要する艦載機用の飛行甲板の設置は難しくなるのです。

また仮に、この主砲と飛行甲板の問題が解決できたとしても、次の課題は艦載機です。航空機の発着艦は非常にデリケートで、主砲の射撃時は、艦が揺れるため艦載機の運用はできません。場合によっては主砲の射撃時の衝撃で航空機が破損してしまうため、甲板上に並べることはできず、艦内に収容する必要が生まれるでしょう。

加えて、艦載機用の格納庫や燃料タンクは、船体内部の場所によっては主砲の旋回を限定してしまううえ、逆に甲板上では敵の攻撃にさらされやすく、大変危険な艦になってしまいます。

そのほかにも、艦の上部が重くなりやすく(トップヘビー状態)バランスが取りにくい、主砲の存在意味がなくなる、など様々な問題が噴出しましたが、当時の日本海軍首脳部はそんな欠点に耳を貸している暇はなく、とりあえず艦載機運用が可能な軍艦が1隻でも欲しい状態であり、むしろ「空母としても使える能力を持つ戦艦」として航空戦艦を生み出したのです。

そのため、戦艦と空母の両方の長所を兼ね備えた「最強軍艦」としてではなく、「航空機の運搬が可能な戦艦」として「伊勢」と「日向」を戦場に送り出した、というほうが真相に近かったといえるでしょう。

結局、「伊勢」と「日向」は、戦場で航空戦艦として結果を出すことができませんでした。しかもその理由は、上記のような多数の欠点からではなく、艦載機がなかったからという、根本的な問題でした。

唯一の海戦は「戦艦」として…その後の「伊勢」「日向」

艦載機の生産の遅れなどにより、予定されていた空母戦には参加できず、唯一参加した「レイテ沖海戦」には航空機なしで、通常の戦艦として参加しました。それからの作戦では航空機格納庫を物資積載場所として使用し、輸送艦のように運用されたといいます。

その後は、燃料も底をつき、さらに日本沿岸にまでアメリカの潜水艦が跋扈(ばっこ)するようになったため、呉軍港に留め置かれるようになりました。2隻とも飛行甲板となるはずだった場所には対空兵装が搭載され、最後は呉を守る砲台になりました。そして戦争末期の呉空襲によって、2隻とも大破着底、そのまま終戦を迎えます。

ちなみに終戦後、2隻とも浮揚・解体の道を辿るのですが、「伊勢」については浮揚後しばらくのあいだ、外地からの引揚者の住宅として艦内が割りあてられたことがありました。

この航空戦艦という考え方は、日本だけでなく、イギリスやアメリカでも戦前、戦中に計画されはしましたが、結局プランだけで形にはなりませんでした。実際に造ったのは日本だけなのです。とはいえ前述したように、日本もむしろやむを得ず実施したようなものであり、正規空母が多数ある状況ならば行わなかったでしょう。

しかも戦後は航空機の発展により、戦艦すらも不要になってしまいました。そう考えると、航空戦艦とはまさに戦争が生み出した仇花だったともいえるのです。

1943年8月24日、鹿児島県の佐多岬沖にて撮影された「伊勢」。航空戦艦への改造完了直前(画像:アメリカ海軍)。