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 昨今、さまざまな個所で「発達障害」や「ADHD」という単語を聞く事が増えました。

それに共感を覚える事もあれば、強い反発を覚える事もあります。

あくまでも個人の考えですが、ここではちょっとそういった事をまとめてみたいと思います。

また、ADHD発達障害、ギフテッドというものに関して「セロトニンが関係するのではないか」など脳科学の観点から解明に迫っている部分もありますが、現時点の科学においては未解明と言っていいジャンルです。
精神医療の世界はあくまでも症状を分類し、効果のあったものを取りまとめているだけで、薬理がきちんと解明されているわけでもなく、臨床的手法に過ぎませんから病理的に完全解明されているとは言い難く、現時点で出回っている情報の全てが「不確定なもの」だと思います。

この文章もその点においては全く同じであり、1人の人間の感想に過ぎません。
しかし、世に出回っている「発達障害はこういうもの」とまるで病理的に解明されたかのように断言するものはそれ自体が嘘である気がしてなりませんので、この文章に辿り着いた人、この問題の解明を求める人は、絶対に1つの情報を鵜呑みにはせず、考え続ける柔軟性を持ち続けてください。
私自身そうあるべきなのは間違いありませんが、現時点で自論として思っている事を、この機会にまとめたいと思います。

ADHDとは?発達障害とは?言葉の定義とは?


ADHD」は、注意欠陥多動性障害とも言われます。

落ち着きの無さであったり、注意力の無さなどが特徴として言われますが、このあたりは他サイトの説明を色々読み込んでいただくとして割愛します。

発達障害」はADHDも含む総称で、他に自閉症アスペルガー症候群などを含みます。
これらが何故そうなるのか、また各個に区別されているそれぞれがどのように違うのかを、病理的に解明はされていません。
ただ、明確にグループがあり、そういった臨床的データによってグループ分けされています。

そしてそもそもに、「病理的」という単語を用いていますがこれさえ正しいかは微妙で、根本的に病気ではない、生まれながらに持つ「個体差」とも言える部分があるのです。

発達障害と区別する単語に「定型発達」というものがあります。これは、発達障害を「異端」と扱った際の「普通」とも言うべき区別です。
ところが、その両者に明確な線引きなど存在しません。
例えば「突然叫びたくなる」とか、「理由もなく、わけの分からないような手足の動きをしたくなる」といった欲求は、多数派の人が持たない事は事実です。
かしこれを「ちょっと貧乏ゆすりする」とか「少し落ち着きがない」という程度にしたらどうでしょうか?全く無い人間というのもなかなか難しいもので、程度の差こそあれ、多数の人が普通に持っているものです。

・合わせて読みたい→
ハイスペック成功者の子弟はなぜ道を踏み外してしまうのか(https://cocokara-next.com/stress/why-a-successful-parents-child-gets-out-of-the-way/)

程度の差こそが重要

つまり、発達障害か定型発達かを分ける境目というものは、なにもスイッチのようにとある要素がONかOFFかでどちらかにきちっと分かれるものではありません。
程度の大小が、かなり大きくあるのです。

ところがそれを見るのは、結果の行動からしかありません。他人の頭の中までは見えませんので。

したがって、本来は程度の差は「いきなり叫びたくなるかどうか」で判断すべきですが、実際には「いきなり叫んだか叫んでないか」で分類してしまうのです。

ここに、症例からのみ見ることの問題が1つあります。

発達障害やADHDにもいろいろある

発達障害の中が色々分かれるように、ADHDの中もいろいろに分かれます。
これを個人の推測ではありますが考えてみた時に、例えば「落ち着きが無い」といった要素1つにしても「落ち着き無く動きたい欲求が強い」のか「落ち着き無く動きたい欲求を抑える部分が弱い」のか、実は全く別個の要素2つが絡んでいる可能性があります。

結果として見える行動が「落ち着き無く動く」であった場合、「落ち着きの無さ」という1つのパラメータに数値を入れて分類しがちですが、実際には少なくとも「落ち着きたくない欲求の強さ」と「落ち着いて動きたい抑制」と、2つのパラメータに数値を入れて、その結果として「落ち着いて動くか否か」というものが決定されるのです。

ですから、例えば「突然駆け出したり踊り出したりしたいほど欲求が強くはない」ものの、「落ち着いて動かずにいる抑制が弱い」場合、貧乏ゆすりを始めます。

逆に「突然駆け出したり踊りだしたりしたいほど欲求が強い」ものの、「落ち着いて動かずにいる抑制が極めて強い」場合、動きません。
これら2者を比べると、前者のほうが多動のパラメータが高いと思われがちですが、実際には逆なのです。

ギフテッドという存在と呼称

「ギフテッド」これほど誤解されて都合よく使いまわされている単語もそうそう無いでしょう。
言うなれば「天才」と同義に語られていたり、あるいは発達障害の子を持つ親の一縷の希望として言われていたりします。

かしこれに関して最も素晴らしく著した日本語の文献は、wikipediaの「ギフテッド」の項目でしょう。アメリカの学術的な文章を誰かが訳したのでしょうか?他で見られるようなギフテッドの解釈とは明らかに毛色が違い、そこに共感を覚える人には涙なくして読めないほどです。

このwikipediaの「ギフテッド」には、ただ天才とか恵まれているとかでは語りつくせないギフテッドの悲しさが十分に詰まっているように感じます。

発達障害に様々な種類が存在するように、ギフテッドにも様々な種類が存在します。
ギフテッドはその総称に過ぎず、言い換えてしまえば「上手くやれる発達障害」がギフテッドに分類されるだけであり、ギフテッド発達障害も根は同じ・・・というのが持論ですが、これはまた後にあらためて説明します。

ギフテッドの問題点

ギフテッドという単語は主に、教育面での必要性に迫られてのものだと思います。

つまり、ギフテッドと分類される人たちは、ある特定の分野ではすさまじいまでの才能を発揮するのです。ところが、一般的な秀才と違い、既存の教育や社会の構造下で、その力を発揮することは出来ません。
それどころかむしろ、問題を抱えていて社会に適合できず、才能を発揮するどころか社会の底辺のクズのような扱いを受け、何倍も傷付いていて、しかしその能力の高さ故に、それを外には全く見せずにいたりします。

悲しいかな世の中には「出来ないんじゃない、やらないだけだ」と言っている人は大量にいます。しかし、そのほとんどの人は、やっても出来ないのが現実です。
ギフテッドは数少ない「やれば出来る人」です。出来る人どころか他を圧倒するクオリティがありますし、それがあるからこそギフテッドなのです。
ところがギフテッドは、その根底に非社会的な問題も抱えているために、既存の枠組みでは上手くやれません。やる気が出ない、という致命的な問題を抱えているのです。

先述しましたが「やる気が出ないだけ」と言う人はあまりに多くいます。
ところがギフテッドと分類される人は、実は各々が「やる気が出る分野」というものを必ず持っています。そしてそこでは、圧倒的な能力を見せつけています。逆に言ってそういう人がギフテッドと分類されるので、当たり前なのですが。

ですが社会は「特定の分野でのみ圧倒的な能力を見せる人」をほとんど認めるようには出来ていません。教育段階においても、ある一定の科目だけトップレベルである事を考えてみてください。平均した成績が一定以下であれば、結局は一定以下の扱いしか受けません。

このギフテッドの特性を指して「自分は特定の科目はできるからギフテッド」と称する人が多いのも、またギフテッドの実態を隠してしまいます。

ギフテッドは極めて高い能力を持ちますから、実は自分の得意な科目じゃなくとも、平均以上の点数は優に出せます。ところがこれも、大量の「出来ないんじゃないやらないだけだ」と言っている人達の声に埋もれていくのです。

発達障害とギフテッドを分けるものとは?

ここではあえて、感覚的な話をしたいと思います。
発達障害の特性、これは本当に多岐に渡って複雑とはいえ、ここでは「右脳的」という形でザックリまとめてしまいます。
これは言うなれば感情の強さ、衝動の強さ、そういった本能に根差すかのような、直感的な部分の強さです。

対する抑制の部分、これを「左脳的」と仮に称します。
残念ながら私は脳科学に明るいわけではありませんので非常に感覚的なものですが、合理的思考、利害を計算したもの、一切の感情を排したものが、左脳的な部分です。

発達障害と分類される人々は、右脳的な部分が強いのは間違いありません。
感情の振れ幅が大きく、同じ1つの出来事に対しても、喜怒哀楽の感じ方が強いのです。
これは言い換えればセンサーが過敏である、とも言えます。外部の入力に対して、例えば刺激が10あったとしてもセンサーが過敏でなければ5くらいしか受け取らないにも関わらず、センサーが過敏である人は10がそのまま入ってきてしまったり、しまいには増幅されて20にも30にもなるのです。

逆に左脳的部分は合理性であり、言い換えれば処理能力とも言えます。
外部から入ってきた刺激、あるいは自分の欲求という感情そのものを、合理的な観点から処理して実際の行動に結び付ける思考です。
私がよく例に出すのですが、お腹が極端に減っていたとしたら、右脳的には「ご飯を食べたい!」の一択です。もしスーパーで目の前にご飯があったら、それを食べない理由など右脳的にはありません。
ところが左脳的には、そこで会計前のご飯を食べてしまったら恥ずかしい、犯罪である、そんな事を考えますから食べたい欲求を抑制して、きちんとレジに持って行って会計を済ませてから、しかるべき場所で食べる、という行動に導くわけです。

仮にこの右脳が弱ければ。お腹が減っているにも関わらず、食べたいという欲求をあまり感じません。別に左脳でそんなに強く抑制しなくても、元々それほどどうしても食べたくありませんから、左脳がそんなに強くなくても、余裕で制御できます。

ところが右脳が強く、食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて仕方なかったら。
その場ですぐに食べてしまう欲求はとても強いものですから、おさえる左脳側も強い抑制が必要です。それがもし弱ければ「食べてしまって後から払えばいい」などと考えて、もはやその場で食べてしまう事もあるでしょう。

つまり。とある行動があったとしても、その中には右脳の欲求と左脳の抑制という、その2つがあわさった結果だけが出力されているのです。

とある人が怒っていたとします。そこだけを見たら「感情的な人だな」と感じるでしょう。
ところが実は、元々そんなに怒りやすい人でも怒りをたくさん感じる人でもないのに、それ以上に抑制が無いだけなのかもしれません。そういった人は他でも抑制がまったくありませんから、すぐに分かります

逆に同じように公衆の面前で怒っていた人を見た時に「我慢できない人だな」とも感じるでしょう。
でも実はその人はとても右脳的欲求が強く、普段からたくさん怒りも感じながらもそれ以上に強い左脳の抑制でずっとずっと耐えていて、それでも耐えきれないほど強い怒りの欲求で、ついに怒ったのかもしれません。
「我慢弱い」というのは実は間違いで、「我慢強いもののそれ以上に感情が強い」だけなのです。

ギフテッドは右脳も左脳も極めて強い

優秀な人間、賢い人間として何かを上手くこなすのに、左脳側の高い能力、つまり極めて高い合理的思考力や理解力が必要である事は間違いありません。
それが高くあるかどうかは、賢いかどうかの基準の中心になるものでしょう。

ところがそれとは全く別のファクターで、「右脳側の強さ」があります。右脳側が強くないけど左脳側が強い人、これは「一般的な賢い人」です。感情の起伏がそれほど無いので、人としての暖かみに乏しかったり他人の機微に気付けなかったりという部分はありますが、社会においてやっていくには最も強いものです。

対して左脳側が強いけれども右脳側も強い人、これこそが「ギフテッド」です。
右脳側が強いことは様々な衝動的欲求の強さを意味しますから、たくさんの問題点も抱えているのですが、それをそれ以上に強い左脳で常に抑制し続けているのです。
右脳側が強いということはすなわちセンサーも過敏ですから、10の情報に対して常に20とか30のインプットがあり、「一般的な賢い人」と比べた際に、成長スピードが圧倒的に速いことも特徴です。

ところが右脳側が強いのを常に抑制し続ける事は、自分という個人を常に殺し続ける事も意味し、非常に高い負担を常に受けています。
特に外部と接すれば接するほど負担が強くなりますので、世に隠れがちであり、これが結果的に社会不適合の方向へと向かってしまうのです。

つまり、左脳側の高いか低いかで「賢いか愚かか」が決まります。
右脳側の高いか低いかで「感情的な欲求が強いか弱いか」が決まります。
そろそろお察しかもしれませんが、右脳が強く左脳が弱い人が「上手くやれない人」すなわち発達障害者と分類される部分です。
そしてそれは厄介な事に、「右脳も弱いが左脳はもっと弱い」というただの能力不足な人と極めて似てしまうのです。これが、発達障害に真に苦しむ人を隠し、ただ我慢弱いだけの人に自称発達障害の言い訳を与えた結果、発達障害者全体への偏見まで生むのです。

それら二者の判別は、右脳側の強さで分かります
極端に言って右脳側の強さ故に苦しむ人は、例え自分が満足するような状態にいても、なんらかの苦しみは感じ続けるでしょう。常にインプットが強くありますので。
それがもし、自分が楽をしていればいい環境、怠惰が許される環境では何も問題が起きないようであれば、そもそもに右脳側が強いのではなく左脳側が弱いだけです。
社会を挙げて救うべきは、右脳側の強さに苦しんでいる人たちではないでしょうか。

発達障害でも活躍できる社会を目指して

ここで言う発達障害に、左脳側が弱いだけの人は含みません。
右脳側が強くて苦しむ人全般を、ギフテッドと分類される人も含めて、発達障害と分類します。
当然その中で左脳側の強さは人によってまちまちです。そこを、右脳側の強さによって惑わされず、左脳側の強弱、すなわち「賢さ」で純粋に評価してあげられる、そんな社会構造になるべきです。

右脳側のいかんによらず、左脳側が弱い人は、結局のところ「愚か」というものでしかありませんから、より強い合理的思考や抑制にむけて努力するしかありません。
しかし左脳側が強い人は高い知力を持ちながら、右脳側の理由によってそれが認められず、発揮する機会も無いのが現状の社会です。これは、あまりにもったいない事と言えます。

ところが残念な事に、この左脳側の能力をはかる事が、極めて難しいのです。

人は他人に対して、自分の能力分までしか理解できない

左脳側の能力、言い換えれば理解力が極めて高い人であれば、他人の能力の高さを理解できます。ところが現実にはそう簡単ではなく、誰かを評価して認めてあげるべき管理・指導的立場にいる人が、必ずしも頂点級の理解力を持つわけではありません。

ましてや右脳側の強い人は、理解するのに更に高い理解力を求めるような複雑さがあります。
これを理解しきるには、ギフテッドの持つ特有の「10のインプットから20でも30でも得るという部分とそれを処理しきるだけの合理的解決力」を兼ね備えていなければなりません。
これが極めて難しいからこそ、世のギフテッドはみな社会の陰に隠れていくのです。

もちろんギフテッドと言うからには得意じゃない分野まで人並み以上には出来ますから、それなりに上手くやっていて認められてもいる事がほとんどです。
しかしそれなりに認められていても、実は実際のポテンシャルはそれより遥かに高いものであったりしますし、それを本人達は知っているために・・・自分達が真に認められたとは全く思えずにいる、そんな不満も人生を通じて持ち続けています。
そしてなお困った事に、ギフテッド達は自己解決能力も極めて高いですから、外にそれを出す事なく解決してしまう、究極的には「自らの意思で人生を終える」という選択をしてしまう事も少なくありません。
ある意味では自殺においてこれほど前向きな自殺も無く、ある種の「合理的選択肢の遂行」とも言えますが、社会にとって損失である事は間違いありません。

そこまで飛びぬけた左脳側の処理能力を持つ一部の人間は置いておいたとしても、平均的な左脳側の能力は十分持っているにも関わらず、右脳側の問題に翻弄されている人は世に多くいます。
そういった人たちにもっと活躍できる場を与える、社会的に抑圧するのではなくもっと自由に自分らしくいられる場を与える、そうして社会にも貢献してもらう事は、社会が今後取り組んでいくべき1つの重要課題である事は間違いないでしょう。

自由なコラムライティングという働き方

これだけ書いても到底語り尽くせるものでもありませんが、ただ理念だけを言っていても何も変わりませんので、1つの方法を最後に示したいと思います。

それは、あくまでも自由な形でのコラムの執筆、です。
労働時間にも労働場所にも制約はありません。そしてテーマも自分が興味があればいいのですから、極めて自由度が高いです。
そして自由度が高いからこそ、発達障害やその他の右脳側の欲求が強い人達にとって、その欲求を抑えることなく吐き出していい、そんな場になりうるのです。
欲求が強いということは、それだけ興味も強いという事になります。その強い興味が向いたものは、文章として面白いものになりえます。

もちろん最低限文章としてまとめるスキルは必要ですが、これは文章を得意とする人間が校正・編集をする事でサポートする事ができます。
そして誰かが強い興味を持つものは、きっと他の誰かもまた興味を持つのです。そうしてそこに人の流れが起きれば、その興味を通じてもっともっとたくさんの関係性や行動に繋げていければ、そこでマネタイズできる、発達障害など右脳側の問題を抱える人も、その自分を殺さずにお金を稼いで生きていける、社会の経済活動もまわると思うのです。

現状では残念ながらまだまだ、マネタイズが弱いものがあります。
問題点が右脳の強さゆえなのか、左脳の弱さゆえなのかの判別さえ、システムにおいて行う事は出来ず、それを理解できる人間個人に大きく委ねられてしまいます。
コラムサイトは世の中に多くありますが、文章の深みを理解できない人間がディレクションしていても、文章の奥底に眠る輝きを見つけることは出来ないから、です。

ですがもしいつか、そんな個人を解き放つようなコラムサイトが作れれば。
それを通して、社会に合わせる事ばかりを強いるのではなく、個人に社会が合わせるだけの柔軟性を持てれば。
もっと彼らにお金を配ることができれば。

きっと社会はもっと良くなると思います。

[記事提供:国内最大級の婚活パーティー・お見合い・街コン情報サイトParties(パーティーズ)(https://parties.jp/)]

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ADHDと発達障害とギフテッドと、あるべき社会の方向性