◆「いよいよはじまった」。宮崎駿監督の言葉の重さ
 に記事を書いてから、だいぶ時間が空いてしまった。筆者のことを覚えていない人がほとんどだろう。そこで少しだけ、前回のおさらいをしておきたい。前回の記事は、現在の日本の政治が、安倍首相の周囲による「人事権支配」を憂うものだった。キャリア官僚に対する、内閣人事局を通じた不透明な人事権の行使によってキャリア官僚たちが震え上がっているという背景の下で、統計データ収集方法の変更が行われたこと、そうした人事権支配による統計データの操作は、ソ連、中国、メキシコといった一党独裁体制においても見られる、というのが、前回の趣旨だった(「厚労省の統計不正、政党独裁体制との不気味な共通性」『ハーバービジネスオンライン2019年5月21日)。

 この問題を考えるとき、最初に思い出すのは、日本を代表するアニメーションスタジオスタジオジブリ宮崎駿氏と鈴木敏夫氏に密着したドキュメンタリー番組『夢と狂気の王国』である(監督・砂田麻美、2013年)。当時、ゼロ戦を開発した堀越二郎氏を題材にしたアニメーション映画風立ちぬ』を作成していた宮崎・鈴木両氏は、次のような会話を交わす。

 鈴木敏夫「あとねえ、ちょっと締め付けがすごくなってきたんですよ」「NHKをはじめこういうことをやっちゃいけない、ああいうことをやっちゃいけない」「先回りして」「映画作るときもドラマつくるにもその問題には触れない」「民放も全部なんですよ」

 鈴木氏は、数百億円規模のカネが動く宮崎駿プロデューサーとして、有名である。メディアの人間と接触することが多い鈴木が、映画の中でボソリと漏らしたこの言葉には強い印象を受けた。

 宮崎氏駿は言う。

宮崎「怒涛のごとく右傾化しようと思っているんですね」
鈴木「自由に作れるのは、ここまでですね」

 最後に、宮崎駿がこの会話を引き取る。

宮崎ある意味では、僕なんかがやってきた50数年は終わったんです」「さて、いよいよはじまったんですね」。

 このドキュメンタリーの公開から6年が経った。「いよいよはじまった」という宮崎氏の言葉は、筆者には重く響く。

 では、ソ連や共産党のような一党独裁体制と現代の日本に似ているところがあるならば、日本は実際に一党独裁体制なのだろうか。独裁体制なのだろうか。本記事は、この問題を考えてみたい。

◆独裁体制下では何が起きるのか? その実例
 最初に、映画監督の想田和弘氏の言葉を取り上げたい。想田氏は2018年ツイッターで、「いまの日本の政治状況は、政治学的にも『事実上の一党独裁』と呼んでいいんじゃないかな。政治学者のみなさん、どうですか。異論ありますかね」想田和弘氏、2018年7月11日のTweet)と書き、物議をかもした。想田氏は、自民党から市議会議員補欠選挙に出馬した新人候補の選挙運動を描いた映画『選挙』で有名な映画監督である。『選挙』は、私も、授業で学生に見せたことがある。

 それでは、最近の日本政治は、「事実上の一党独裁」になっているだろうか。想田氏自らが、「政治学者のみなさん、どうですか」と聞いておられるので率直に述べると、日本は一党独裁体制ではない。本当の「一党独裁体制」、本当の「独裁体制」とは、2019年安倍晋三氏を首相とする日本政府のように甘くはないからである。

 独裁体制では、基本的な権利が大幅に侵害される。そこでは、政府に対して一般市民が「要求を形成」し、その「要求を表現」し、「その要求を政府に平等に扱わせる」ための、最も基本的な権利が存在しない

 具体的には、次のような権利が存在しない。つまり、

「組織を形成し、参加する自由」
表現の自由
「投票の権利」
「公職への被選出権」
「政治指導者が、民衆の指導者を求めて競争する権利(政治指導者が、投票を求めて競争する権利)」
「多様な情報源」
「自由かつ公正な選挙」
「政府の政策を、投票あるいはその他の要求の表現にもとづかせる諸制度」

 といった権利および自由は、一党独裁体制あるいは独裁体制には存在しない(一連の権利および自由のリストは、ダール、R『ポリアーキー』岩波書店、10頁表1-1、2014年

 政府に一方的に支配されるのではなく、政府の決定にわずかなりとも一般国民が影響を与えるためには、上に挙げたような自由と権利が必要である。

 しかし、一党独裁体制や独裁体制には、そうした自由は存在しない。最も分かりやすい事例として、表現の自由を取り上げてみよう。まず、一党独裁体制の典型例であるソ連では、学問は当然のこととして、文学や芸術、音楽に至るまで、共産党による直接的なコントロール下にあった。一例を挙げよう。ごく例外的にソ連で言論の自由が保障された、ミハイル・ゴルバチョフ氏による「ペレストロイカ」期の出版物は、直接的に次のように書いている。ソ連の書物には、「責任編集者という立場の者が存在した。この責任編集者が責任を取る対象は、もちろん読者ではなく、当局であった。その書物に当局が是認できないようなものが入らないよう保証するのが、責任編集者の役割だったのである(アファナーシエフ編『ペレストロイカの思想』群像社、p. VIII1989年)。もちろん、日本の出版物に責任編集者なる役職は存在しない。

 これは過去の事例ではない。中国共産党の支配する現在の中国でも、おおむね同じことが起きている。最近でも、中国の清華大学法学院教授の許章潤氏は、その論文を批判されて停職処分となった(『世界』2019年7月号922号)。日本から富裕層が多数、移住しているというシンガポールの大学でも、政治学教授は、政治圧力から逃れられない。というのも、政治学の授業を開講すると、その第一回目の授業には、シンガポールの支配政党「人民行動党」の党員が、教授に挨拶するのが習わしだそうだからである。講義内容を監視しているのである。

 同じことは、軍事独裁体制でも起きる。アルゼンチンの著名な比較政治学者であるジェルモ・オドンネル氏は、アルゼンチン軍政時代に、暗殺予告を受けていた。当時のアルゼンチンの研究拠点、「国家社会研究センター」CEDES (Centro de Estudios de Estado y Sociedad)の創設者で、センター長であったオドンネル氏は、左右勢力から等しく脅迫を受けていた。まず、右派の軍事政権や、軍事政権に連なる右派の民兵から脅迫を受けた。同時に、軍政と敵対する左派ゲリラ組織からも脅迫されていたという。オドンネル氏は、「すくなくとも右派と左派のどちらが自分を殺すのかを知る人権はある」というブラックジョークを、同僚たちと交わしていたという。興味深いことに、この危機の時代こそが、政治学を研究するにあたってはとても創造的な時期であったということで、政治学という学問も、業が深い(O’Donnell, Guillermo 2007, “Democratization, Political Engagement, and Agenda-Setting Research, in Gerardo L. Munck and Richard Snyder eds., Passion, Craft, and Method in Comparative Politics, The John Hopkins University Press: 279-280)。

 とはいえ、こうした政治的圧力は、日本の軍部も行った。第二次世界大戦前戦後に活躍した政治学者の南原茂氏は、1942年、抑圧と弾圧の時代に出版した『国家と宗教』(岩波書店)の執筆にあたり、純粋に学問的な著述であるのに、丸山眞男氏に一句一句質問するほど、極度に神経をつかったという。それでも、内務省の検閲で、発売禁止にするかどうかで揉めた。「私の方がやられたのに、あれはどうか」と別の出版社が内務省に密告したからである。情けない話であるが、一行一行を気にするほどに気を遣っても、やはり攻撃されたという(丸山真男・福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』、151-152頁、東京大学出版会、1989年)。

 歴史を振り返れば、言論や出版の自由が保障されたのは比較的、最近のことでしかない。19世紀以前には、哲学者たちすら、政治的な迫害を恐れるという理由もあって、自らの思想を意図的に分かりづらく書いていたほどであった(Melzer , Arthur M. 2014. Philosophy Between Lines the Lines: The Lost History of Esoteric Writing, University of Chicago Press)。

 さて、分かりやすい例として、言論の自由の問題を挙げてきた。先に述べたように、政府批判を含む言論の自由は、もっとも基本的な自由の一つである。言論の自由が制約されているならば、選挙やデモをする権利、組織を作る権利は、全く意味をなさないことがわかるだろう。

◆日本は一党独裁体制ではないし、独裁体制でもない
 翻って、日本はどうか。中日新聞の名物記者である望月衣塑子記者は、多少は質問機会を与えられないことがあるにせよ、別に生命の危険があるわけではない。本も、出版されている。政権側にとって大きな痛手となった、森友・加計学園の問題についても日本のマスメディアは報道することができた。

 この一点だけをとっても、日本は絶対に一党独裁体制ではない。この点は、いくら強調しても強調しすぎるということはない。というのも、今の政治に残された利点や美点を完全に無視して、その問題点ばかりを指摘するならば、我々が獲得し、まだなんとか維持している様々な自由を失う契機になりかねないと考えるからである。

 筆者の念頭にあるのは、イタリアの知識人たちである。イタリアムッソリーニが登場し、ファシズム体制が打ち立てられようとしていたころ、それ以前の議会主義を激しく批判していた知識人たちは、次のような悔恨を表明せざるを得なかった。

「率直にいおう。ある感慨をもってわれわれは、一つの政治形態の葬儀に参列している。議会政治に哀悼の辞を述べる者が、まさか私自身になろうとは思ってもいなかったからである……議会に対し常に厳しい態度で臨んできたこの私が、今日、議会の消滅を嘆き悲しむ役割を負わされている。……しかし、心からいうことができる。議会政治のほうがはるかによかったと」(モスカによるイタリア上院における最後の演説、1925年)

 また別の者は次のように語った。イタリアが多大の犠牲をはらい、そして彼の世代の人びとが、永遠に獲得したと思っていた自由が、イタリアから奪われるということが起こりえようとは、夢にも考えていなかった」クローチェ)(ダール、ロバート・A『ポリアーキー』高畠通敏・前田脩訳、岩波書店2014年

 その意味では、例えば政治学者の中野晃一氏が岩波書店の雑誌『世界』に掲載した論文などは、行き過ぎた批判だと思われる(「見過ごされる「ポピュリストなき独裁」」『世界』2019年4月号)。というのは、中野氏は、1955年に成立した自民党社会党を基調とする1955年体制の下の日本も、民主主義ではなかったと言うからである。しかし、1955年以来ずっと日本が民主主義体制ではなかったという中野氏の議論には、政治学者の大多数は同意しないだろう。

 アメリカ合衆国CIA自民党を財政的に援助したことや、公安警察をはじめとする治安情報機関が、左翼勢力の監視と抑圧を行ったのも確かだが、それでも、1993~1994年そして2009年から2012年まで、自民党が政権を失ったことからわかるように、与野党間の競争は(もちろん多少の歪みはあっても)、民主主義体制ではないと言えるほどには歪められていなかった筈だ。

◆危惧すべきこと
 もちろん、安倍政権の下で、言論の自由を制約するためとしか考えられない動きが見られたことは、確かである。先ほど、森友学園・加計学園問題に関して、マスメディアは報道したと述べた。しかし、森友学園問題を報じたNHKの記者はその後、更迭された(相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK』、文藝春秋2018年)。批判的報道に対するこうした報復的人事は、「多様な情報源」という我々の基本的な権利を奪うものに違いない。

 また、研究を生業としている身としては、衆議院議員杉田水脈氏による「科研費」批判も無視できない。科研費とは「科学研究費助成」のことで、日本学術振興会という独立行政法人を通して、大学などに所属する研究者に与えられる助成金のことである。昨今の文教政策の変化によって、研究者はこの科研費を受給しなければ研究を継続するのが難しくなるばかりか、科研費を獲得することが大学等の組織内で評価されるようになっている。科研費を取れなければ、大学で肩身が狭くなるのである。そのため、科研費を取れるかどうかは研究者にとって極めて重要になっている。

 杉田水脈氏は、2018年3月半ばから突如、この科研費に対する批判を始めた。あわせて、科研費のデータベースの検索を、ツイッター上で促した。この科研費の採択は、4月1日に発表されるため、これに合わせて特定の研究者を批判しようとしたのだと考えられる(杉田水脈2018年3月18日2019年7月17日アクセス確認)。

 もちろん、杉田水脈氏は、政治家として駆け出しである。そうした政治家SNS上で何を言おうとも、歯牙にもかける必要はないと思われるかもしれない。ただし、科研費に対する批判を行い、ツイッター等のSNS上で話題になれば、ネットメディアに報じられるだろうし、最終的には新聞や雑誌、TVのようなマスメディアで取り上げられる。その場合の、研究者に対する委縮効果は無視できないだろう。とはいえ、杉田水脈氏はその後、MBSドキュメンタリー番組の取材に応えて、「科研費は詳しくないので答えられない」と回答しているなど、態度を軟化させてはいる。

 それだけではない。科研費批判とほぼ同時期、2018年1月ごろ、政権に対して極めて批判的な山口二郎氏の授業風景を隠し撮りし、SNSを通じて拡散を試みた事例もあった(2018年1月22日2019年3月18日アクセス確認)。インターネットに拡散された画像を見る限り、授業を利用して根拠の薄弱な政権批判を行う山口氏には、批判されて仕方のないところがあると筆者も考える一方、授業内容をSNSアップする形での授業批判が常態化すれば、大学教育の現場での委縮効果は無視できないだろう。先ほど書いたシンガポールを思い出して欲しい。

 また、これもほぼ同じ時期、2018年2月16日内閣府・知的財産戦略本部で、海賊版サイトへのブロッキング問題を扱った検証・評価・企画委員会コンテンツ分野第3回会合が開催された(座長は、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授、中村伊知哉氏)。この会合の後、議事録は非公開のまま、政府は4月13日に「漫画村」などの海賊版サイト対策として、民間のプロバイダー事業者など特定サイトの「サイトロッキング」を促していく方針を発表した。「通信の秘密」を脅かしかねない重要な問題を、法律を制定することもなく、不透明かつ早急に実施しようとしたと言える。

 これについても、反発が盛り上がった。背景には、安易な形で通信の秘密を脅かせば、それ以外の表現活動に対する制限につながるのではないか、という懸念があった(「『あまりにも性急でずさん』海賊版サイト緊急対策の問題点」FNN Prime 2018年4月19日)。その後、政府はブロッキングを法制化するにあたっても、議論を強引にまとめようとしたため、反対派および中立の委員が激しく反発した。その結果、ブロッキングを法制化する試みは事実上、挫折したと思われる(「海賊版「ブロッキング」法制化断念 政府、広告抑制など総合対策で対応」産経新聞2019年1月14日)。

 だが、政府による怪しげな動きはさらに続く。ブロッキング問題が膠着しつつあった2018年12月文化庁ダウンロード違法化対象範囲拡大のための法案を準備していた。従来は、音楽と映像に限定されてきた違法ダウンロードの範囲を、静止画テキストなど全てに拡大しようとする著作権法改正案を図ったのである。これについても、反対の世論が盛り上がり、元国家公安委員長自民党衆議院議員古屋圭司氏が反対したこともあり、首相みずからの指示によって撤回された。産経新聞記者の長嶋雅子氏は、「安定政権が続き、自民党に慢心が広がっているのではないか。わけても『言論の自由』に関わる法案にはもっと目を光らせてほしい」として記事を締めくくっている(「なぜ自民は了承したのか 首相の『鶴の一声』で違法DL項目削除へ」産経新聞2019年3月8日)。正直に言って、産経新聞および産経新聞の記者が、ブロッキングと違法ダウンロードの範囲を拡大する法案に明確に反対しているのは興味深く、また心強い。

 いずれにせよ、杉田水脈氏による科研費批判から始まり、海賊版サイトのブロッキング文化庁によるダウンロート違法化法案まで、2018年中の一連の政府および自民党の動きは、言論および表現の自由を制限しようとしたものではないか、と危惧せざるを得ない

 ならば、現代日本の「民主主義」は、決して盤石であるとは言えないのかもしれない。それでも、これらの事実をもって、日本がすでに民主主義ではないと結論するのは、やはり早計であろう。インターネット、新聞、TV等のメディアを通じた「世論」による政権の政策批判は、実際に効果を発揮している。自由は、いまだに残っていると言うべきである。

 宮崎駿氏は、「ある意味では、僕なんかがやってきた50数年は終わったんです。さて、いよいよはじまったんですね」と語った。この言葉に、筆者は深く首肯する。何かが始まってしまっているのは確実だろう。

 もちろん、「こんなものは民主主義と呼ぶに値しない」と呼ぶ人がいるだろう。実際、今の日本を「ファシズムだ」と語る人もいる。それでは、アメリカ合衆国民主主義がどのようなものかをごく簡単に見てみよう。

◆では、アメリカ合衆国は?
 まず、アメリカには民主党共和党の二党しかない。組織と結社の自由はある筈だが、政党については事実上、第3党は出て来ることができない。また、アメリカ合衆国の治安機関は、社会運動を激しく弾圧していた(Davenport, Christian 2015, How Social Movement Die: Repression and Demobilization of the Republic of the New Africa, Cambridge University Press)。大統領は、選挙タイミングにあわせて経済を刺激しているのはではないか、という疑いは昔から根強くある(たとえば、Bartels, Larry M. 2010 Unequal Democracy: The Political Economy of the New Gilded Age, Princeton University Press)。非民主主義国家でもしばしばみられる、選挙区割りを自らに有利なように操作する「ゲリマンダリング」は、アメリカ合衆国でも行われている。

 そもそも、1956年から2006年までを見た場合、連邦下院議員の再選確率は、80%以上、90%を超えることもある(待鳥聡史『<代表>と<統治>のアメリカ政治』講談社、58-59頁、2009年)。メディアについても、アメリカ大統領は、政治コラムニストの歓心を買おうと、「個別のオフレコ取材に応じる、国賓晩餐会に招待する、大統領専用機に同乗させる、著書を大統領も読んだと宣伝するなど手を尽くす」(谷口将紀『政治とマスメディア東京大学出版会18-19頁、2015年)。そもそも、アメリカ南部では1960年代まで黒人から選挙権がはく奪されていたという。

 アメリカ合衆国の「民主主義」といっても、実態はこの程度のものである。翻って、今の日本を民主主義だと言ったところで、それほど奇妙な話ではない。もちろん、日本やアメリカが、一党独裁体制や独裁体制ではないとしても、民主主義ではない、と言う人がいるかもしれない。その疑問は、完全に正当だろう。だが、もし今の日本もアメリカ民主主義ではないと言うならば、この世界に民主主義国家などは存在しなくなるだろう。

◆そんなものが「民主主義」と呼ぶに値するのか?
 もしかすると、我々が現に生きているこの政治体制を、「民主主義(デモクラシー)」と呼ぶことそのものが、誤解の素なのかもしれない。というのは、民主主義という言葉を生んだ古代ギリシアで、民主主義と呼ばれた政治体制は、今の我々が生きる政治体制とは、全く似ても似つかないものだったからである。

 まず、古代ギリシア、アテネの民主主義は、市民権をもつ市民全員が参加可能な民会と、くじ引きで選ばれる評議員、裁判官、執政官によって統治されていた。ポイントは、古代ギリシアでは基本的に選挙という制度を使わなかった点である。選挙という制度は、寡頭制的(少数者による支配)な制度、カネがモノを言う制度だと考えられていたからである(アリストテレス『政治学』田中美知太郎・北嶋美雪・尼ヶ崎徳一・松居正俊・津村寛二訳、中央公論新社、2009年、161頁)。

 現代の我々は、選挙こそを民主的とするが、「民主主義」の語源となった古代ギリシアでは、それは民主主義的なものではなかった。くじ引きこそが民主主義的だと考えらえていたのである。言葉が、完全に逆立ちしているのである。

 実際、選挙を通じて選ばれた「代表」が統治する、現代の我々の政治体制に対して、先人たちは「民主主義」以外の言葉を当てていた。たとえば、アメリカ合衆国憲法の制定にあたって大きな影響をもった『ザ・フェデラリスト』の著者は、彼らが新たに作り上げようとしていたアメリカ国家を、民主主義ではなく、「共和国」と呼んでいた(A・ハミルトンJ・ジェイ、J・マディソン『ザ・フェデラリスト』、斉藤眞・中野勝郎訳、岩波書店1999年)。

 イギリスで活躍したJ・S・ミル氏は、19世紀後半にあって、その政治体制を「代議政府」と呼んでいたし(ミル、J・S・『代議制統治論』、水田洋訳、岩波書店1972年)、20世紀のドイツ・ワイマール共和国を激しく批判した公法学者、カールシュミット氏は、我々がいま民主主義と呼ぶ体制を「議会主義」と呼んでいた。(シュミットカール『現代議会主義の精神史的地位』)稲葉素之訳、みすず書房、1972年

 第二次世界大戦後には、アメリカの著名な政治学者ロバート・ダールもまた、我々の生きる政治体制を、民主主義ではなく、「多数支配」を意味する「ポリアーキー」と呼ぼうと提案した(ダール、前掲書)。また、最近では「競争的寡頭制」と呼ぶ研究者もいる(Manin, Bernard 1997. The Principles of the Representative Government. Cambridge University Press)。他に新たな新語を作り出すべきだとする研究者もいる(空井護「ロバート・A・ダールの敗北について」『法学(東北大学法学会)』72巻6号、1014頁)。

 結局、我々は、「民主主義(デモクラシー)」と呼ばれる政治体制が存在した古代ギリシアとは似ても似つかない政治体制を、「これを民主主義という名前で呼ばないでおこう」という人々の試みを完全に無視して、「民主主義」と呼んでいるのである。我々の政治体制が、民主主義的ではないと感じられるのも、当然のことだろう。

民主主義という言葉を使うべきか?
 こんな奇妙な言葉づかいを止めるべきだろうか。民主主義という言葉は、あるべき理想と、実際に存在する政治体制を同時に表す言葉になっている。こんな言葉の使い方は、混乱をもたらすだけだろうか。著名な政治思想史家のジョン・ダン氏は、やめるべきだと言っているようだ。民主主義という言葉で、「正しい行動のための権威ある基準という意味」と、「現存する体制の実際的性格」の両方を意味するならば、「思考や用語法に厳格な専門家の間ですら容易に混乱の素になる。ましてや政治的営みのごたごたの中では、多くの人を混乱に陥れるのは必定である」と言う。「民主主義というたった一つの言葉によって、我々が世界政治のどこに位置し、何に価値を与え何のために努力するかを判断することは、いかなる基準からしても単に馬鹿げている」。だから、「民主主義という、催眠効果を持つようになった呪文の作用を認識することで、呪文を破る」必要がある(ダン、ジョン (2012=2017)「等身大の民主主義観」『アステイオン 創刊30周年ベスト論文選1986-2016 冷戦後の世界と平成』、789頁、791頁、田所昌幸要約)。

 しかし、筆者は民主主義という言葉の呪文を打ち破るべきだとは思わない。民主主義という言葉で、あるべき政治体制の理想と、実際に存在するこの政治体制の両方を同時に意味しても、別にかまわないと筆者は思う。もっと言えば、私たちは民主主義という言葉で催眠状態になるべきだ。

 なぜか。それは、民主主義という言葉に幻惑されたからこそ、我々の政治体制はここまで来ることができた、と考えるからである。我々が民主主義の美名の下で勝ち取ろうとしてきたこれは、この記事で書いてきたように、この程度のものである。にもかかわらず、これを勝ち取るためには、大変な苦労が必要であった。もし、これが競争的寡頭制とかポリアーキーとか呼ばれていたならば、誰がそんなもののために命をかけただろうか。

 先ごろ物故した政治学者、G・サルトーリ氏は、かつて次のように書いた。「民主的システムは義務論的圧力(豊田注:~でなければならない)の結果として確立されたものである。デモクラシーとは何かという問いは、デモクラシーとは何でなければならないか、という問いから切り離せない。デモクラシーは、その理想と価値がそれを存在せしめる限りにおいて存在する」。(空井p.1021,注52)。

 ジョン・ダン氏の民主主義という言葉の催眠術を説くべきであるという言葉に対して、こう言える。もし、「民主主義の詐術(democracy’s spell)」を破り、民主主義の夢から覚めた我々は、その結果として、物事をより鮮明にありのままに捉えるということはないだろう。民主主義の夢から覚めた我々は、独裁の悪夢の中に目を覚ますことになるだろう。

◆永久革命
 これが民主主義なのである。明らかに誇大広告であり、その原義からも大きく隔たってしまった。にもかかわらず、多くの人々のほとんど英雄的な苦労の下で、ようやく達成しえたのが、これである。学者も政治家にも、あるいは他の誰でも、「民主主義」がもたらしてくれる「自由」や「権利」を享受しながら、実はこれは民主主義とは関係のない何か別の物であったと言う権利は持たない筈である。

 筆者の結論は、次のようなものになる。我々が生きるこの日本の政治体制は、民主主義体制である。しかし、いまだに十分に民主的とはいえず、また、より民主主義的でなくなる危険も常に存在する。だから我々は、我々の獲得したこの民主主義の美点を守りつつ、それをより民主的なものにするために努力しようではないか。

 この言い方には、詐術も矛盾もパラドクスもない。

 つまるところ筆者には、60年近く前の政治学者、丸山眞男氏の言葉に付け加えるものは何もない

「いうまでもなく民主主義は議会制民主主義につきるものではない。議会制民主主義は一定の歴史的状況における民主主義の制度的表現である。しかしおよそ民主主義を完全に体現したような制度というものは嘗ても将来もないのであって、ひとはたかだかヨリ多い、あるいはヨリ少ない民主主義を語りうるにすぎない。その意味で『永久革命』とはまさに民主主義にこそふさわしい名辞である。なぜなら、民主主義はそもそも『人民の支配』という逆説を本質的に内包した思想だからである」(丸山眞男『新装版 現代政治の思想と行動』、574頁、未來社、2006年)。
 
◆次回の予告
 これで、「日本は民主主義か」という問いに対して、筆者なりの考えを述べることができた。しかし、近年の日本政治を見ていると、民主主義を脅かしかねない危険の兆候があることも事実である。そこで、次に「治安機関」に関して、私の知っている乏しい知識で、思うところを述べてみたい。

【参考文献】
相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK』、文藝春秋2018年
ファナーシエフ編『ペレストロイカの思想』群像社、pVIII1989年
アリストテレス『政治学』田中美知太郎・北嶋美雪・尼ヶ崎徳一・松居正俊・津村寛二訳、中央公論新社、2009年
シュミットカール『現代議会主義の精神史的地位』)稲葉素之訳、みすず書房、1972年
空井護「ロバート・A・ダールの敗北について」『法学(東北大学法学会)』72巻6号、2009年
谷口将紀『政治とマスメディア東京大学出版会18-19頁、2015年
ダール、ロバート・A『ポリアーキー』高畠通敏・前田脩訳、岩波書店2014年
ダンジョン「等身大の民主主義観」『アステイオン 創刊30周年ベスト論文選1986-2016 冷戦後の世界と平成』田所昌幸要約、2012=2017年
ハミルトン、A、J・ジェイ、J・マディソン『ザ・フェデラリスト』、斉藤眞・中野勝郎訳、岩波書店1999年
待鳥聡史『<代表>と<統治>のアメリカ政治』講談社、58-59頁、2009年
丸山眞男『新装版 現代政治の思想と行動』未來社、2006年
丸山真男・福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録東京大学出版会、1989年
ミル、J・S・『代議制統治論』、水田洋訳、岩波書店1972年
Bartels, Larry M. Unequal Democracy: The Political Economy of the New Gilded Age, Princeton University Press, 2010.
Davenport, Christian. How Social Movement Die: Repression and Demobilization of the Republic of the New Africa, Cambridge University Press, 2015.
Manin, Bernard. The Principles of the Representative Government. Cambridge University Press, 1997.
Melzer , Arthur M. Philosophy Between Lines the Lines: The Lost History of Esoteric Writing, University of Chicago Press, 2014.
O’Donnell, Guillermo. “Democratization, Political Engagement, and Agenda-Setting Research, in Gerardo L. Munck and Richard Snyder eds., Passion, Craft, and Method in Comparative Politics, The John Hopkins University Press, 2007.

【豊田紳】
日本貿易振興機構(ジェトロ)・アジア経済研究所研究員