昨年10月に女優の樹木希林が亡くなったあと、暮れに刊行された『一切なりゆき 樹木希林のことば』(文春新書)がベストセラーとなって以来、樹木の生前の発言などをまとめた本が出版各社からあいついで出て、書店にずらりと並んでいる。

樹木が亡くなって半年も経たないうちに、夫でミュージシャン・俳優の内田裕也もこの世を去った。先ごろ刊行された『内田裕也 反骨の精神』(青志社)は、樹木の一連の本と同様に、内田の生前の著書や雑誌などでの記述・発言をまとめたものだ。

ニューヨークハドソン川をスーツで泳いだ男
本書のカバーを飾るのは、パルコのCMの撮影で、ニューヨークハドソン川をスーツ姿で泳いだときの写真である(撮影は加納典明)。このCMはもともと内田から当時のパルコ社長・増田通二に直接提案して実現したという。当初は「そんなことできるわけないじゃないか」「いや、できると思うから言ってんじゃないですか」と水掛け論になったが、1週間後、会議室に呼び出されると、広告制作のためのスタッフが勢ぞろいしていた。こうして実現したCMは、高い評価を受けることになる。内田はこのときもう一つ、エンパイアステートビルのてっぺんに登るというアイデアも持っていたが、こちらは高額の保険に入らなければ許可できないと言われて実現しなかったらしい。

内田のアイデアマンぶりは、少年の頃からだったようだ。戦後まもない中学時代には「真空式洗濯機」なるものを考案して、全国中学発明コンクールで一等に選ばれたりしている。ロックンロールと出会ったのは高校時代。やがてギターを手にすると、学校もやめて、地元・関西のジャズ喫茶をバンドを率いてまわるようになる。1960年前後に上京してからは、芸能事務所の渡辺プロダクションに所属しながらプロデュース的なことにも手を染めた。このころ大阪で発見したのが、沢田研二らのいたファニーズというバンド、のちのザ・タイガースだ。彼らを東京に呼んで、「内田裕也とザ・タイガース」として活動を始めるも、バンドの人気が出てくると内田だけ契約を切られ、それを機に渡辺プロを飛び出した。

じつのところ、沢田研二をはじめタイガースの面々とは出会ったときから、その輝きやエネルギーには勝てないと思っていたという。それもあって内田は、29歳から30代にかけては裏方に回るようになる。こうして彼の手で世に出たミュージシャンは数多い。1973年からは多くのロックミュージシャンを集めて年越しライブ「NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL」をスタートさせた。

映画にも俳優として出演するうち、神代辰巳監督に求められてアイデアを出したのがきっかけで、プロデュースや脚本を手がけるようになった。その代表作の一つ「コミック雑誌なんかいらない!」(1986年)は当初、東映に企画を持ち込んだが、社長の岡田茂から「そんなの映画になるかあ!」と断られたという。完成後もしばらく配給が決まらなかったが、ミニシアターでの上映をきっかけに評判を呼び、国内外で映画賞に輝くことになる。なお、同作で監督を務めた滝田洋二郎は、のちに内田の娘婿・本木雅弘の主演で撮った「おくりびと」で米アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

「女にも食わせてもらえない程度の人間だったら、ロックをやるな」
コンサートに、映画にと、内田は自分のアイデアを実現するためしょっちゅう金策に走っていた。後楽園球場でコンサートを開催したときには、結婚したばかりの樹木希林がマンションを抵当に入れてくれ、どうにか費用を工面することができたという。そんな体験からか、《女にも食わせてもらえない程度の人間だったら、ロックをやるな》と彼はうそぶいた。

ギャンブル好きも災いして、カネにはしょっちゅう泣かされた。あるとき、ニューヨークでギャンブル好きの板前に誘われ、ドナルド・トランプが建てたホテルのカジノにヘリコプターで出かけたことがあった。最初のうちこそ勝ち続け、つくったばかりのゴールドのクレジットカードで次々と現金を引き出しては賭けていったが、数日もすると負けが込んで、ついにはカジノのスタッフにキャッシャーまで連れていかれると、目の前でカードをハサミで切られたという。

また、広島の競艇で有り金を全部はたいてしまい、帰りの電車賃がなくなったときには、駅で入場券を買ってそのまま新幹線に乗り、車掌には切符を落としたと言って押し通したという。しかも自由席ではなくグリーン車に座ったというから、肝が据わっているというか何というか……。本人いわく《自由席かに座っちゃうと、逆にバレると思うんだ。グリーンでバーンと、堂々と。逆境に強いんだね》。堂々としていた甲斐あってか、新大阪に着くと車掌が改札まで送ってくれたうえ、運賃をあとで返しに行くと伝えたところ、「いいです」と言われたとか。

とにかく内田裕也の人生はこういうエピソードの連続で、破格というしかない。なお、彼はギャンブルで儲けたカネも、映画やコンサートの資金に充てるつもりでいたらしい。俺が俺がというタイプのようでいて、そのじつ、他人に対しては世話を惜しまない一面もあった。その点は、樹木希林と似ているのかもしれない。樹木との関係についても、本書にはさまざまな壮絶なエピソードが収録されている。

岡本太郎に本気になって反論
私が本書で、とくに最高だと思ったのは、巻末に再録された作家の中上健次と画家の岡本太郎との対談(「平凡パンチ」誌で内田が連載していた「爆発対談」の一部)である。前者の対談では年下のはずなのにほぼタメ口で話す中上に対し、内田は終始敬語で通した。後者では、岡本が内田との対談を「こういう、うれしくないような対談」と口にするや、すかさず《今日は、非常にまじめな話をと思ってきたんです。タモリ風に茶化すんじゃなくて、アーティスト同士として、これまで話されないようなことを話そうと》と言い返している。

こうした対談での言動からは、内田がどんな相手にも、あくまで対等の立場で接していたことがうかがえる。しかし、相手からバカにされたと思えば、むきになって反論する。岡本太郎ぐらいの大物が相手なら、たとえ失礼なことを言われても、こちらが我慢すれば、そのまま穏便に済みそうなものだが、それをよしとしないのが内田裕也なのだろう。誰にでも本気でぶつかっていく。相手から無礼を働かれれば本気で怒るし、逆に褒められたら素直に喜ぶ。そんな内田を、彼と何度か一緒に仕事をしたことのある美術家の横尾忠則は、《芸術の重要な核であるインファンテリズム、幼児性の人で、こういうところが格好良くて、人から嫌われ、愛されるところなんですよね》と評した(本書「まえがき」参照)。仲間に対し面倒見のよさを発揮した内田だが、一方では、妻をはじめ周囲の人たちから助けられて逆境を乗り切ったことも少なくない。それも天性の幼児性の賜物なのだろう。(近藤正高)

『内田裕也 反骨の精神』(青志社)。今年3月に内田が亡くなったあと、その生前の発言を一冊にまとめて6月に刊行された