人見絹枝の物語があまりにも鮮烈だったNHK大河ドラマ「いだてん」26話。この熱量を受けて勢いに乗りたいところだが、参議院選挙開票速報のため今週は放送休止だ。ならばこのタイミングを生かして、改めて人見絹枝の功績について振り返りたい。特に「いだてん」では語られなかったことについて。

1928(昭和3)年のアムステルダム五輪で「日本女子初のオリンピアン」となり、女子800m走で「日本女子初のメダリスト」となって陸上界にその名を刻んだ人見絹枝。実は彼女、高校球界においても大きな功績を残しているのだ。

人見絹枝が発案した「甲子園盛り上げ企画」
来月6日に開幕する「101回目の夏」、高校野球・夏の甲子園大会。各地方大会を勝ち抜いた出場校も決まり始め、夏本番が近いことを感じさせてくれる。

そんな「甲子園大会」において欠かせない3つの儀式で、人見絹枝は重要なキーパーソンだった。その3つとは、開会式における「校名プラカードの先導」、勝利校の栄誉を讃える「校歌斉唱」、そして「校旗掲揚」だ。

実はこの3つとも、はじまったのは1929(昭和4)年の第6回センバツ甲子園からで、発案が人見絹枝とされているのだ。きっかけは、「いだてん」でも描かれた1928年のアムステルダム五輪だった。

センバツ甲子園といえば、今も昔も毎日新聞社主催。そして、人見絹枝は陸上選手であると同時に、大阪毎日新聞社の運動課員。自社事業の盛りあげに何か妙案はないか、と国際経験豊富な人見にアドバイスを求めたわけだ。

ここで人見が思い出したのはアムステルダム五輪での出来事。開会式での入場行進、そして金メダリストを讃えるために行われていた国旗掲揚と国歌斉唱にいたく感動した経験から、甲子園大会開会式の入場行進での「校名プラカードの先導」、さらには勝利校を讃えるための「校歌斉唱」と「校旗掲揚」を提案。翌春のセンバツ大会から採用されるに至ったのだ。

ちなみに高校野球では、センバツで導入された新機軸が数年後に夏の甲子園で導入される、というのがよくある話。背番号制度や金属バット導入など、革新的なアイデアはセンバツで試され、その後遅れて夏の大会でも実施されて定番化の道を辿る。

校歌斉唱」の場合、夏の甲子園で導入されたのは、センバツでの実施から28年後の1957(昭和32)年から。そして、勝利校の校歌斉唱が定着すると、甲子園で勝つことを「校歌を歌う」と表現されるようになった。

余談だが、後発ならでは新機軸を打ち出そうと、夏の大会ではセンバツとは違う試み=伴奏で流す曲を「歌入り」にする、という変更が導入された。それまで、センバツでの校歌斉唱ではメロディだけを流していたのだ。この「歌入り」校歌斉唱が好評を博したことから、センバツでも1975年以降は歌入り音源を使用するようになった。

1999年以降は春夏問わず、初戦の2回表裏に両校校歌を場内放送で流すことになり、全出場校の校歌を耳にすることができるように。時代とともに少しずつではあるが変化を遂げてきた高校野球。今年の夏、校歌を歌い上げる球児たちの姿を見たときには、人見絹枝の物語を思い出してほしい。
オグマナオト)