前回のあらすじ

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親子二代にわたり甲斐の戦国大名・武田氏に仕えて数々の武勲を立ててきた笠井肥後守高利(かさい ひごのかみたかとし)

長篠の合戦で大敗し、退却していた主君・武田勝頼(たけだ かつより)公は、その愛馬が草臥れて進退窮まり、織田・徳川の軍勢が猛然と迫ってきます。

主君・勝頼公を、最期まで守り通す土屋惣藏(左下)。歌川国綱『天目山勝頼討死図』江戸後期

勝頼公をお守りしていた初鹿野伝右衛門(はじかの でんゑもん)と土屋惣藏昌恒(つちやそうぞうまさつね)が死を覚悟していたところへ、それまで乱戦ではぐれていた高利が追いついたのでした。

……さて、三人は勝頼公を救うことが出来るのでしょうか?

勝頼公を我が馬に乗せ、自分は敵を食い止める!

「おう肥後守よ、生きておったか!」

「笠井殿が助太刀なれば、千人力じゃ!」

高利の加勢に、勝頼公の伝右衛門と惣藏は大喜びですが、高利は勝頼公に早急に退却するよう急き立て、馬が動けなくなった事情を聴くなり自分の馬から飛び降りました。

御屋形様、それがしの馬にお乗り下され!……伝右衛門と惣藏も、早う行け!」

思ってもない申し出を受けた勝頼公は、俄かに動揺してしまいます。

「そのような事をすれば、そなたの命はなかろうに!」

甲州騎馬軍団、かつての雄姿。歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』明治七1874年

馬は武士にとって足であり、中でも人馬一体の機動力こそがその精強さの基(もとい)となる甲州武者が馬から下りることが何を意味するか、知らぬ高利ではない筈……しかし当然の如く、高利は覚悟を決めていました。

「命など、大義の前には軽いものです。我が死をもって主君代々の御恩に報いて御覧に入れます……ところで、それがしには子が一人おりまして、もしご無事に戻られた暁には、お傍に取り立てて頂けると……」

【原文】……命は義に因(よ)りて輕(かろ)し、一死以て君恩に答へ奉らんのみ、臣一子あり事平(たいら)かば、幸(さいわい)に御取立(おとりたて)下(くだし)置かれたし……
『長篠軍記』武田方の陣容及び両軍の大戦 より。

「……相分かった。肥後守よ、そなたの忠義、末代まで忘れはせぬ!」

「勿体無きお言葉……さぁ早く!伝右衛門、惣藏……御屋形様を頼んだぞ!

「「承知!」」

笠井肥後守高利(左)の愛馬に乗り換えて、捲土重来を期する勝頼公。

かくして勝頼公主従を先に行かせた高利が、少しでも距離を稼ごうと徒歩(かち)で街道を一町(約109m)ばかり戻ったところで織田軍の先鋒と遭遇。追撃の魔手は、もうギリギリのところまで迫っていたのでした。

槍一本で殴り込め!笠井肥後守高利、これにあり!

こうなったら、少しでも時間を稼がなければなりません。

追撃に迫る織田軍の先頭を率いるは、歴戦の猛将・滝川左近将監彦右衛門一益(たきがわさこんのしょうげん ひこゑもんかずます)。相手にとって不足はありません。

落合芳幾太平記英勇伝」より、滝川一益の肖像。慶応三1867年

高利は織田の大軍に向かって大音声で名乗りを上げます。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!……その昔、頼朝公に御味方して坂東に武名を上げた葛西壱岐守三郎清重が末葉(まつよう)にて、父子二代にわたり武田家三代の覇業を守り立て、数多(あまた)なる戦場(いくさば)にて武勲を奉りし笠井肥後守高利とは我がことなり……!

源平合戦の頃ならいざ知らず、戦国時代にもなるとこんな時代がかった名乗りはすっかり廃れていました。しかし決死の覚悟を固めるため、あえて祖先の功業を再認識することで、自分の守るべき存在、果たすべき使命を確かめたかったのかも知れません。

高利は、かつて勝頼公より戦の恩賞とて拜領せる千手院(せんじゅいん。刀工のブランド)の槍を馬上の武将に突きつけ、殺意と喜悦に満ちた眼光を向けます。

武田勝頼公より拜領せる千手院の鎗(長さ三尺五寸≒約1.3m)。『笠井家哀悼録』より

「そこにおわすは、滝川左近殿とお見受けした!いざ、槍合わせ願おう!」

狙いは敵の大将・滝川一益ただ一人。彼を討ち取り、俄かに混乱した敵軍を掻き乱すことが出来れば上々です。

しかし、一益はそんな手の内などお見通し、高利の挑戦に乗るどころか、鼻で嘲り嗤(わら)う始末。

「戯け……徒歩の土侍(どざむらい)に馬上の武者が相手など致すものか……者ども、血祭りにせぃ!」

「「「おおぅっ!」」」

徒歩には徒歩で充分とばかり、雑兵らが束になって槍を突き出して来ます。

「何を小癪な!甲州武者が馬上にあれば、うぬら木っ端侍など相手になるか!徒歩でおるのは武士の情けと知るがよい!」

勝頼公を逃がし、敵軍を食い止める笠井肥後守高利の活躍ぶり。この伝承では抜刀している。

戦を決するは兵の衆寡にあらず、己が技量と勢い、そして天運。高利はこれまでの戦場に臨んだのと同じ通り、槍一本を奮い舞わして敢然と敵中へ殴り込んだのでした。

【後編に続く】

参考文献
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
皆川登一郎『長篠軍記』大正二1913年9月
長篠城趾史跡保存館『長篠合戦余話』昭和四十四1969年
高坂弾正 他『甲陽軍鑑』明治二十五1892年

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