片や参院選、片や京都アニメーション放火殺人事件と、シリアスな問題が報じられる中で、異例の長時間記者会見その他でマスコミ的には露出の多い「お笑い芸人」の「闇営業」問題。

JBpressですべての写真や図表を見る

 多くの方が全く触れない部分で、テレビ番組制作に関わった経験を持つ一個人として、どうにも気持ち悪く、違和感を抱かざるを得ない点がいくつかあり、それを記したいと思います。

 まず時系列的に先になった、「反社」として報道される詐欺集団から金銭を受け取った芸人側の記者会見、報道される様々な内容にここで触れるつもりはほとんどありません。

 ただ、分かる人には最初からはっきり分かる、非常に気持ちの悪い点が、ほとんど一切メディアに取り上げられていない。

 それは一人称の問題、それから「笑いと涙」の問題です。

「ボク」と称して、謝罪の会見を行っているのですが、これがもし政治家の謝罪会見だったら、あるいは一般企業で発生した不祥事であったら成立するでしょうか?

 さらに、大の男が人前で、涙を浮かべたり、実際泣きながら会見するということ、そのものが既成事実として報じられているようにみえる。そのこと自身が、古いタイプの人間だからかもしれませんが、私には気持ち悪くて仕方がありません。

 官庁の不祥事で、担当官が泣いて頭を下げながら、一人称「ボク」で語って納得する納税者がいるでしょうか。

 いるわけがないじゃないか、というのが私の主観的な判断です。皆さんはどのように思われますか?

 つまり、この「芸人会見」は1から10まで「芸人」であることを前提に準備され、その通りに演じられたお涙頂戴の浪花節・・・。

 いまや、コメンテータの中には「先週までは闇営業が問題だったのに、パワーハラスメントに論点が移ってきた」などと「解説」するケースもあるようですが、それって論点のすり替えなのではないか?

 番組の制作や演出の観点からコンテンツを見る習慣が完全に身についている私には、そのようにしか映りませんでした。

 自分は芸人であることを全面に出し、他の立場の人間、あるいは一般人であれば到底許容されない「ボク」呼称で、事務所から受けた被害に多くの説明時間を割き、保身のため虚偽の発言をしたことは一言謝るにとどめる。

 こうした一連の配分には、一定の準備を読み取ることが可能と思います。

 というのも、それをそのまま反芻して、もう一つの記者会見が行われている。こうした基本的な点を、どうしてほとんどすべてのメディアがスルーするのでしょうか?

 つまり、興行プロダクション社長の、異例の長時間記者会見でも、この基本的な構図は完全に踏襲されているわけです。

 さらにもっと踏み込めば、その背景も原点から明確に指摘することが可能な、古典的な「芸」が繰り返されている。

 すなわち、一人称「ボク」と、人前で見せる「涙」、この2つの要素を、社長会見も見事にそのまま繰り返していたことに注目せざるを得ないのです。

浪花節だよ、会見は

 こんなことを書くと、なんて醒めた冷たいものの見方をする人間かと、筆者を見る人がいるかもしれません。

 しかし、何かというとトラブルがつきもののテレビの世界にあって、この種の「泣きの涙」と、今回は目にしていませんが「土下座」の類ほど、辟易させられたものはありません。

 今回、長時間会見した興行会社社長も、もとはお笑い芸人のマネジャーや制作現場の長い人だと思います。

 現場は常にトラブル続き。

 そういうとき、演技とかそういうことでなく、本当に感極まって涙が出るような人が、土下座して泣いてその場を収拾して・・・といった「成功経験」を積むことで、プロの「泣き男」になるケースを私にはいくつか思い当たります。

 それなりに胆力もあり人間性もあり、かつ、ここぞというところで泣いて土下座してその場を収める、といった経験を積んでしまい、逆に「この俺がここまで頭を下げてるんだけれど、それでもあんた、言うこと聞いてくれんのですか?」的な、別の振り回しになるケースも経験するわけです。

 あくまでメディア現場での個人経験で、今回のこととは全く関係ありませんが、もっとも鼻持ちならない事態をこの種の「泣き男」とか「プロ土下座」で身近に記憶してしまっているので、この種のものを見ると、どうしてもフラッシュバックせざるを得ません。

しゃべくり漫才:一人称「ボク」の起源

 仮に政治家や国家公務員、企業経営陣などが謝罪で記者会見するとしたら、冒頭でクレームが入ること請け合いの、一人称「ボク」。

 この呼称には明確な由来があり、その歴史を築いたのは、ほかならぬ吉本興行という会社そのものであった経緯に触れておきましょう。

 「漫才」と呼ばれる芸は、その発生時期と命名がはっきりと知られている、非常に若く、また例外的な芸能です。

 今から89年前にあたる1930(昭和6)年、当時の吉本興業部に在籍していた横山エンタツ・花菱アチャコは、同世代で30代に入ったばかりの吉本興業部総支配人、林正之助の勧めでコンビを組み、「しゃべり」だけによるかけ合い話芸で舞台に上がり始めます。

 ここで縁あって、当時はいまだ20代半ばで、東京帝国大学・支那哲学科の左翼学生崩れであった、のちの漫才作家「秋田實」こと、林広次のアドバイスにより、当時のモダンな時事を扱う「しゃべくり芸」のスタイルが確立しました。

 そして、エンタツ・アチャコは「漫才の祖」と呼ばれることになります。

 しかしこの新芸能に「漫才」という漢字を当てて、今日の「しゃべくり漫才」のフレームワークを確立したのはエンタツ・アチャコ自身ではなく、吉本興業プロモーターでのちに社長も務める橋本鐵彦です。

 ナチス党がドイツで政権を取った1933年に命名しました。

 橋本は東京大学ドイツ文学と左派の新劇運動に没頭しますが、縁あって5歳ほど年長の吉本興行部総支配人、林正之助と出会って入社します。

 学生時代からの友人である林広次(秋田實)や美術史出身の長沖一(ながおきまこと)など東京帝国大学OB、京都帝大出身の吉田留三郎などを次々と吉本興業部に入社させ、今日に続く「しゃべくり漫才」の基礎を築きます。

 橋本が「漫才」の表記に統一する以前、マンザイは「萬歳」「萬才」などと表記され、元来はお正月に新年を寿ぎ、鼓などをもって「角付け」で囃して回る歌舞音曲の芸でした。

 筆者が子供時代の昭和40年代頃までは、お正月ともなると「獅子てんや 瀬戸わんや」のコンビが尾張萬歳の「大夫」と「才蔵」のいでたちで、鼓をもって古来の萬歳芸を模した出し物をテレビで演じていました。

 やや脱線しますが、父親が瀬戸わんや氏とよく似たハゲ頭と眼鏡であったことから、私は幼時から「てんや・わんや」が大好きでしたので、狂言のような扮装で、鼓を手に踊り歌うご両人を鮮烈に覚えています。

 エンタツ・アチャコは、まだ若い20代だった秋田實の勧めで「スーツの背広」を着て舞台に上がりました。

 これがどれくらい驚天動地のことであるかは、直前まで「烏帽子・直垂」で鼓をもって、曽我物語などをチャカポコ歌い踊るのが「萬歳」「萬才」だったわけですから、推して知るべしと思います。

 横山エンタツは当時としては高学歴の中学に進学、中退したのち中国大陸で演劇や映画の活弁などに挑戦するも失敗を続け、20代後半になってから「萬歳」「萬才」を職業とするようになった後発組。

 花菱アチャコも元来は仏壇職人の子で新派演劇からスタートしますが、ハイティーンで「萬才」に転じ、エンタツよりもこの技芸には通じていたことが、後々の活躍からも伺われます。

 しかしエンタツ・アチャコはいずれも、小さな頃から芸を仕込まれた代々の芸人ではなく、言って見れば「萬歳芸」では一歩遅れを取り、またその分、時事のしゃべくりなどには常識人の可能性も持っていたのだろうと思います。

 そこに「大正デモクラシー」の自由な空気を吸い、東大・京大などでプロレタリア文学・演劇活動に身を投じた青年たちが、世界大恐慌の大不況の中で新登場した「最初のマスメディア」ラジオを念頭に、モダンな内容をあたかも大卒の新米銀行員のような上下スーツの背広にネクタイ姿で演じさせた。

 いわば「モボ(モダンボーイ)」の演芸が、新たに誕生した「漫才」の本質で、1925年から定例化していた「早慶戦」など、東京で流行りの話題を関西で扱い、全国的なヒットを飛ばすようになった。

 そこで用いられたのが「キミ」「ボク」「**クン」などの呼称にほかなりません。

 エンタツ・アチャコはしゃべくり漫才の元祖ではありますが、昭和5~9年に活動したのち、昭和9年アチャコがコンビ解消を申し出ます。

 この芸を大成したのは、鼓こそ持ちませんでしたが、背広姿ながら扇子片手の松鶴家光晴・浮世亭夢若であり、兄弟しゃべくり漫才の大成者というべき中田ダイマル・ラケット&夢路いとし喜味こいしの2組でした。

 密かにライバル意識なども持ちながら完成させていったものにほかなりません。

「えー萬歳の骨とう品でありましてぇ」で始まる砂川捨丸(1890-1971)中村春代(1897-1975)コンビの、和服で鼓を叩きながら演じる「萬歳」には、まずもって「キミ・ボク」のような一人称は登場することがありません、

 一人称「ボク」あるいは三人称「クン」の表現は、明治末期に生まれた左翼系インテリ旧制高校大学生のモダンボーイたちが、ラジオメディアの登場とともに成立した「漫才作家」という新しい職業のもと、第1次大戦後の1920年教育改革で成立し始めた、若い中産階級をターゲットに作り上げたスタイルの代名詞と呼べるものです。

 こうした話風は1980年代初頭の「MANZAIブーム」以降、ほぼ完全にオワコン化した、古いお笑いの古いスタイルですが、お笑い関係者が自分を言外に業界人であると伝える「話法」として、一貫して今日まで残存していることが、今回の2つの記者会見で改めて日本全国に発信されている。

 本稿を執筆するにあたって、かつて芸人が不祥事を起こした際に行った記者会見などをスキャンしてみると、例えば島田紳助の引退会見が一人称「ボク」でしたが、これは芸人としての最後のポジショントークとして使っているものにほかならず「明日からは一般人ですので静かに暮らさせてやってください」と組みになって使われていました。

 一人称「ボク」は、あくまで自分はお笑い関係者であるので・・・という留保を相手に求める表現で、それに基づく暗黙の忖度を相手に求める働きを持つことは、テレビで仕事していた時期、トラブル収拾に際していくつか経験があります。

 もし、法に触れかねない問題に関して、本当に一個人として謝罪などする場合には、何をどうひっくり返しても出てこない「ボク」で一貫している時点で、記者会見の応酬そのものが、土俵そのものからある種の論点のすり替えになっているように見てしまうのは、私の僻目でしょうか。

 もう一つ気になったのは、興行会社社長の会見について、判で押したように「分かりにくい」「誠意が感じられない」といったコメントが出回ったことでした。

 率直に申すなら、5時間にもわたって、あらゆる質問を封殺せず、「よくあの会社が長尺の記者会見をやったな、相当の覚悟だな」と私は思いました。

 そこで話す内容は、企業人として準備したものをきちんと話すよう努力しており、決して分かりにくいわけではない。

 問題は、VTRの一部を切り出した後、コメンテーターが「分かりにくい」「誠意がない」というレッテルを張りつけてしまうと、そちらの方が現在の社会では、はるかに大手をふって情報として流通してしまうことではないかと思います。

 裏方である事務所の会見が「分かりにくい」というのは、芸人の「会見」のように、一目見てファンや視聴者が<感情移入しやすくない>というだけのことです。

 むしろ私には芸能人の、論理をほぼ一切欠き、涙や笑いという情に訴えることで、その場の空気を換えてしまう傾向がある「寝技」の方が、はるかに「さっぱり分からない」ことが少なくありません。

 いつのまにか論点がずれてしまうことも少なくなく、かつて業界で仕事していた際、何かというと土下座で水に流したがる人が実際に存在しましたが、そんなことしてもらっても全く何も解決しないので、「そういうことはやめてください!」と語気を強めたこともありました。

 そういう「浪花節気質」の応酬において、芸人による視聴者やコメンテーターへの感情移入吸引力の方が、企業経営側として一部は理を語る義務を負う事務所のそれよりもはるかに大きいわけです。

 「分かりにくい」とか「誠意が感ぜられない」といったセンチメントの表層で音声動画メディアの自走を招くのは、メディアリテラシーの観点から最も避けるべきことにほかなりません。

「分かりやすい」感情にアピールするパフォーマンスをもって「是」とするような姿勢で今回の「闇営業」問題をうやむやにしていいような性質のものなのか?

 一人称「ボク」を知った瞬間。反射的に抱いた本質的な疑問にほかなりません。

 在京キー、在阪キー局が興行会社の安定株主であって・・・といった議論が出てきました。

 こうした内容は「芸人でんがな」「しゃれでんがな」といったポジション・トークで済まない可能性が高い。

 横山やすしも、息子が事件を起こした際には、芸人うんぬんのポジションなど一切通用しませんから、素の一人の人間に帰って謝罪していたように思います。

 やや芸能史を長く遡行しましたが、これを端折ってしまうと「たかが一人称くらい」と読み流してしまわれる読者も多いだろうと思いましたので、あえて骨子は略さずに記しました。

 私個人は、光晴・夢若やダイマル・ラケットの古典的な「キミ・ボク」漫才をこよなく愛する関西DNAの人間でもありますので、そうした風土を別の俎上に持ち込む攪乱には心を痛めざるを得ない、という個人的な思いもあります。

 関連の問題には、もう一つ深層があります。

 紙幅も尽きましたので稿を改めて、ジャニーズ事務所に関して指摘される問題との対照を続稿では記したいと思います。

(つづく)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  子供への指導法:自らの成功体験は間違っていないか

[関連記事]

世界中を震撼させた京アニ・ガソリン放火無差別殺人

ガソリン爆燃放火、再発の防止を!

エンタツ・アチャコ(左が花菱アチャコ、右が横山エンタツ。本来の立ち位置とは逆(ウィキペディアより)