現役期間が短命なスポーツ選手に特有の言葉だと思っていたセカンドキャリア。しかし今年5月、日本を代表する大企業トヨタ自動車の豊田章男社長が衝撃的なことを言い放った。「終身雇用は難しい」。

 これにより、給与は上がらずとも会社には居座れるとタカをくくっていた中年サラリーマンにとっても、セカンドキャリアは他人事でなくなったと言える。では、一体どうすれば?

 そのヒントになるかもしれないのが、現在発売中の『アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア』(宝島社)という本。AKB48グループを卒業したアイドルたちの“その後”を取材した異色のノンフィクションだが、著者の大木亜希子氏もまた、SDN48からフリーライターへと転身を遂げた経歴の持ち主だ。

 そんな大木氏に、セカンドキャリアへと至った経緯や、その考え方について語ってもらった。

アイドルの世界で自分を見失っていた

――大木さんは、女優活動を経て’10年に女性アイドルグループSDN48メンバーに加入されました。楽曲『淡路島タマネギ』ではセンターも飾っていますね。

大木:はい、16歳で女優として活動を始めましたが、思うように主演を獲得することはできず……。20歳のときにラストチャンスのつもりでSDN48オーディションに挑戦し、なんとか合格を勝ち取りました。

 ただ、たった数年ですが先に芸能の世界を垣間見てきたせいか、本来の自分よりも背伸びをしてしまい、アイドルブームの渦中にいながらも、どこか達観したつもりでいたというか。選抜から脱落しても「これだけの大人数のなかで、人気になるほうが難しいよね」と言い訳することで、なんとか自分自身を保っていました。

――女優としての経験が、かえってアイドル活動の足かせになっていた、と?

大木:毎日仕事があるわけでもなかったので、単純に不安だったんでしょうね。完全に自分を見失っていました。

 さらに拍車をかけたのが、アイドルという世界の特殊性です。10代から20代前半でピークを迎える極端に短期集中型の職業であることに加えて、「圧倒的なカリスマ性」や「天性の愛されキャラ」など、鍛錬や努力ではどうにもならないことで人気やポジションが左右される、ある意味で理不尽な世界でもありますから。

 そんな現実をこれでもか、これでもかと見せつけられると、それまで必死で積み上げてきた自尊心が少しずつ削ぎ落とされ、最後は“何者”でもなくなるんです。

――大木さんにとっては、やり直すというより、強制的に人生がリセットされる感じだったんですかね。そのような過酷な環境のもと、どうやって自分の居場所を見つけたのでしょう?

大木:どうやら私は、芹那さんや野呂佳代さんのような大きな存在にはなれないらしいぞ、と素直に気づいたんです(笑)。でも、アイドルとしての時間は流れていくわけじゃないですか。そうしたなかで、ちっぽけな自分にだって、他のメンバーにない特別な才能があるのではないかという“祈り”だけは消えなかったんです。

 だから、あがいて、抗い続けるしかありませんでした。その手段が私の場合、文章だったんです。劇場に足を運んでくれるファンのみなさんの心に刺さる言葉をいかに発信できるか。それを隠しテーマにしていましたね。

◆“元アイドル”の肩書きは武器であり呪縛でもある

――ライターとしての素地はそのときから作られていたんですね。’12年3月にSDN48が一斉卒業(グループ解散)すると、3年近くのブランクを経て、25歳で会社員となりライターとして働き始めます。その空白期間は何をされていたんですか?

大木:卒業後は、地下アイドルとして活動していました。SDN48のときは、西武ドームで何万人もの歓声を浴びながら歌って踊っていましたが、吉祥寺クラブハウスでは、ファンが3人なんてときもあって。

 芸能の道しか知らないから同じ業界に活路を見出してみたけど、ただライブを消化していただけで、ビジョンゴールをまったく設定していなかったんです。ファンの方も応援に駆けつけてくれて活動は楽しかったのですが、いつかは次のステージにいかなければならないと焦る気持ちは消えず。

――サラリーマンの転職でも、自分のいる業界では当たり前のスキルが、他業界では重宝されるということはしばしばあります。そこに気づけず、同じ業界に転職して苦悩する中年男性は多いのですが、それに近いですね。

大木:わかります。特に、10代から20代前半の若いうちにピークがくるアイドル業界では、否応なしに早い段階でセカンドキャリアの決断を迫られるんです。その後の道筋なんて誰も教えてくれません。

 でも、失敗は怖い。そうなると少しでも経験値や知識のある同じ業界に、と思ってしまうんです。結局、私がそうだったんですが、自分がどうなりたいか、わかっていなかったんですよね。

――耳が痛いです。その後、結局どうして地下アイドル活動をやめたのですか?

大木:芸能活動だけでは食べていけなくて。生活費を稼ぐために、ビジネスホテルトイレの清掃員のバイトをしたり、空いた時間で、業界の人たちが集まる飲み会やお食事会に参加するという生活をずっと続けていました。

 でも、どんなに“元アイドル”という女性性を売りにしても、彼らの階層やステータスが手に入るわけじゃない。虚しくなるだけでなんの実りにもならなかったんですよね。それで、彼らと同じレベルまでステップアップしようと覚悟を決めて、ライターの道に進むことにしたんです。

――会社員になりライターとして働き始めたのが25歳のとき。“元アイドル”という肩書は、同業から見ると正直、武器になるので羨ましいとも思ってしまいます。実際、背負ってみてどうでしたか?

大木:もちろん、元アイドルという肩書のおかげで原稿のオファーをいただいたり、広告案件をいただいたりしたこともあります。今回の本だって、私が元アイドルだったから執筆できた部分も大きいのは事実だと思います。

 でも、やっぱり周囲から色眼鏡をかけて見られているのではないかと、勝手に自分自身で邪推してしまうときもありました。そんなときは、いつまでアイドルの亡霊にとり憑かれないといけないんだろうって。私にとってそれは重荷で、まるで“十字架”を背負っている感覚でした。

――執筆したのはSDN48の大木さんではなく、ライターの大木さんですもんね。常に「ああ、“元SDN”の、ね」が付きまとうと、なんだか著書が浮かばれない気もします。

大木:その悶々とした気持ちがぎっしり詰まっていますね(笑)

――成仏はできましたか?

大木:成仏しつつあるって感じです。「元アイドル」という言葉と上手く調和し、ライターとして“第二の人生”を歩む準備と覚悟は、もうできていますから。

 まず私の文章が先行して世間に認められて、次に私の名前を知ってもらう。そして最後に、「SDN48だったアイドルが作家・コラムニストになってたんだ~」と気づいてもらう。この順番で認知されるようになったら勝利だと思います。

アイドルを辞めても続けても、みんな生き方に悩んでいる

――本に登場する元アイドルのみなさんのように、若くしてアイドルに見切りをつけてセカンドキャリアを歩み始める人たちがいる一方で、「いつまでもしがみついている」と揶揄されながらも活動を続ける方たちもいます。その違いってどこにあると思いますか?

大木:しがみついてもいいと思います。私もライターになるまで、芸能界にすがりついていました。早いうちにセカンドキャリアを見つけても、成功が約束されているわけじゃないし、挫折してまた別の道に進まなければいけないことだってあります。逆に、経営者や女優として大成するためのステップアップとして、戦略的にアイドルを名乗る人がいたっていいと思うし、そういう人が30代や40代になって花開くかもしれない。

「生きやすい」が前提の人生なんてどこにもないので、みんな生き方に悩んでいることに変わりはないと思うんですよね。それなのに、いつまでも「あの人は今」みたいに追いかけられるのは、やっぱり“十字架”だと私は思います。

 そのせいでいじけたり、もがいたりしている女性たちが、私の書くものを見て「こういう生き方もいいじゃん」と思ってもらえたら、ようやく私も成仏するのかな。

(取材・文/谷口伸仁 撮影/林紘輝)

【大木亜希子】
’89年、千葉県生まれ。’05年にドラマ野ブタ。をプロデュース』で女優デビュー。’10年にSDN48メンバーとして活動を開始。’12年に解散後は地下アイドルを経て、’15年にNEWSY(しらべぇ編集部)に入社。’18年に独立し、現在は数多くのWEBメディアコラムニストとして連載を持つ。祥伝社ウェブマガジン「コフレ」にて、50代の一般男性・ササポンとの奇妙な同居生活を綴った「30歳未婚女子、赤の他人のおっさんと暮らす」を連載中。

ノンフィクション作家としてのデビュー作『アイドル、やめました。』を刊行した大木亜希子さん