2019年5月1日に幕を開けた新時代「令和」。
思えば、改元を巡る報道合戦がスタートしたのは、上皇陛下となられた明仁さまの生前退位の意向が報じられた2016年7月13日。そして新元号「令和」が発表された4月1日まで実に993日もの月日が流れたことになる。

この期間、どのようなプロセスを経て新元号が決まっていったのか。そして、どんな人がどのようにこの事業に関わっていたのだろうか。『ドキュメント「令和」制定』日本テレビ政治部著、中央公論新社刊)は、今回の「時代の変わり目」を迎えるまでを関係者の証言を交えて解き明かしていく。

■新元号の準備は平成がスタートした頃から始まっていた

あまり知られていないが、「平成」の次の元号の準備は、生前退位の意向が報じられてから始まったわけではなく、実は平成がスタートして間もなくの頃に始まっていた。

当時は「生前退位」という考えはなく、改元は「天皇陛下の崩御」が前提となる。つまり「天皇陛下の死に備える」という性質を帯びるため、おおっぴらにはできなかったのだ。

水面下ではじまった新元号の準備だが、その任を担っていたのは歴代の内閣官房副長官補だという。
内密に中国文学や東洋史、日本文学を研究する学者に元号の考案を依頼し、案の提出を受ける。2012年の時点で、案のストック100案以上あった。これらは副長官補室の金庫に保管されていた。

■実は候補の中に「令和」はなかった?

では、大量にあつまった元号案をもとに、新元号をどう決めていったのだろうか。

政府はこれらの案の中から元号を選ぶ過程で、6つの条件を定めている。

・国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること
・漢字2字であること
・書きやすいこと
・読みやすいこと
・これまでに元号またはおくり名として用いられたものでないこと
・俗用されているものでないこと

こうした条件のもと、ストックされた元号案の絞り込みが始まったのが2019年の年明け。この作業の末に残った6案と、すでに亡くなった学者の案(縁起が悪いとして破棄される)を除いた70案程度の「不採用リスト」に安倍首相が目を通したのが2月末だった。

おもしろいのは、このとき提示された案に、どうやら「令和」は入っていなかったらしいという点だ。
安倍首相は、かねてから「元号の出典は日本で書かれた書物がいい」(平成以前の日本の元号はすべて「書経」「易経」など中国の古典からとられてきた)という希望を示していた。そのため、室町時代以前の日本の古典に由来する案も候補になっていたが、それらを見た時の反応は鈍いものだったようだ。

そのため、事務方は複数の学者に「追加案の考案」を依頼しはじめたが、その中にも首相が気に入るものはなく、「不採用リスト」から「英弘(えいこう)」という案を復活させた。また「天翔(てんしょう)」も気に入ったそうだが、これは万葉仮名であるために採用されなかったようだ。

候補案が決め手に欠ける中、さらに別の候補を出す必要がある必要があると考えた事務方は、「天翔」を考案した文学者・中西進氏に追加の依頼を行った。これが3月22日。すでに発表の10日前。そこで考え出された追加案の中に含まれていたのが「令和」だったという。

たかが元号。されど元号。
「令和」という新元号が発表されるまでの間に、驚くほどの紆余曲折と関係者の奔走があったことが本書からはうかがえる。

特に新元号発表の当日を追った章は必見。新時代の幕開け役を担った人々の奮闘は興味を引くものにちがいない。

(新刊JP編集部)

新元号 実は選定段階の候補の中に「令和」はなかった?