黒田官兵衛(くろだかんべえ)と竹中半兵衛(たけなかはんべえ)。2人は共に豊臣秀吉に仕え、軍師として秀吉を支えていました。

半兵衛の方が先に秀吉に仕えていましたが、官兵衛と年齢も近いこともあり、良きライバルとして功を競い合っていました。また2人は共に兵衛がつくことから「両兵衛」と呼ばれていました。

そんな2人に関する面白いエピソードがありましたので、今回はそれをご紹介します。

信長の家臣の謀反に官兵衛が動く

官兵衛は最初に小寺政職(こでらまさもと)という大名に仕えていました。やがて織田信長に将来性を感じ天正3年(1575)には政職と共に仕えます。

その時に官兵衛は仕える条件として自身の子の松寿丸(しょうじゅまる)を信長に人質として差し出しています。

如水居士像/Wikipediaより

主君を変えて心機一転かと思いきや天正6年(1578)に信長の家臣、荒木村重が裏切ります。それに呼応して政職も裏切りそうだったので交渉力に長けた官兵衛は村重の気を変えるために村重のいる有岡城へ行きます。

太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重/Wikipediaより

しかし、説得は失敗し幽閉されてしまいました。

救うぞ官兵衛!半兵衛が動く

官兵衛の帰りを待っていた織田陣営は何日経っても帰ってこない官兵衛に不信感をいだき始めます。何ヶ月経っても音信不通な官兵衛に信長は裏切ったと確信し、人質だった松寿丸の殺害を秀吉に命じました。

この時に動いたのが半兵衛で本当に松寿丸を殺害したか確かめる首実検で偽の首を信長に提出しました。そして、松寿丸は半兵衛の家臣の屋敷に密かに預けられました。

バレれば半兵衛の命もなかったでしょう。それでも官兵衛を信じてそのような行動に出た半兵衛は官兵衛の性格を誰よりも知っていたと考えられます。

官兵衛は幽閉されて1年後に有岡城落城と共に救出されます。そして、松寿丸も官兵衛のもとに戻されます。

官兵衛は半兵衛が機転を利かせて松寿丸を救ってくれたことに非常に感謝し、感謝の気持ちを忘れないように竹中家の家紋である「石餅(こくもち)」を代々使うようになりました。

半兵衛に感謝し黒田家の家紋にした石餅の家紋/名字と家紋より

2人の友情は子の世代まで続く

やがて時が流れ、両兵衛の子たちの時代になると関ヶ原の戦いが勃発します。その頃には松寿丸から黒田長政(くろだながまさ)となった長政は関ヶ原の戦いでは東軍に属していました。

黒田長政騎馬像/Wikipediaより

そして、半兵衛の子で長政と幼馴染竹中重門(たけなかしげかど)は西軍に属していましたが、長政の説得で東軍に鞍替えし戦います。

関ヶ原は竹中家の所領ということもあり、地の利を活かして長政は島左近を打ち取り、重門は小西行長を捕縛する大功をあげます。

そして、太平の世になると重門の庶子が福岡藩黒田家の重臣として重宝され、2人の天才軍師の絆はその後も断たれることはありませんでした。

最後に

戦国時代は裏切って裏切られての時代にも関わらず、2人のようにここまで相手を信頼し後世まで縁を繋げたのは非常に珍しいですね。

半兵衛が機転を利かしたのは官兵衛を認めていたからだと思います。それか官兵衛は絶対裏切らない自信があったのかもしれません。

友情なんてすぐに消え去る戦国の世でもこのような熱いエピソードがあると心が震えてしまいますよね。

参考:円道祥之著「戦国友情伝~戦乱が結びつけた!?男と男~」

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