「大破」の辞書的意味は「修理できないほど大きく破損すること」となりますが、旧海軍の重巡「青葉」は、3度の大破を経験しつつも沈まず呉へ帰りつきました。中曽根康弘元首相も乗り組んでいた「青葉」の航跡を追います。

アニメ映画のポスターにも描かれた「青葉」

太平洋戦争前後の呉の街を舞台にした『この世界の片隅に』。漫画原作からアニメーション映画、そしてTVドラマにもなりましたが、主人公・すずの幼なじみが水兵になって乗り込んだのが重巡洋艦「青葉」です。映画のポスターにも用いられるなど、観る人に大きな印象を与えたこの艦は、漫画や映画のなかで描かれたように、終戦時は呉港内で大破着底した状態でした。

青葉型重巡洋艦は、日本海軍が古鷹型に次いでワシントン海軍軍縮条約の制限内で建造した近代的重巡洋艦(当時の分類呼称は一等巡洋艦)です。当初、青葉型の2隻は古鷹型の3、4番艦として建造される計画で、「青葉」は4番艦に予定されていました。

青葉型は古鷹型と基本設計こそ同じものでしたが、先行して1年早く就役した「古鷹」の運用実績から各部に改良が加えられており、艦形も異なるようになったため、別タイプとして扱われることになったのです。

特に主砲は、「古鷹」「加古」が20cm単装砲6基だったのに対し、射撃速度を向上させるために20cm連装砲3基へ改めており、そこが古鷹型との一番の識別ポイントとなっています(後に古鷹型2隻も連装砲3基に改装)。

しかし建造当時、連装砲は斉射(同時射撃)すると砲弾がばらつく問題に悩まされました。研究の結果、連装砲の場合、砲身が近接しているため、同時に撃ち出すと飛翔する際に相互干渉を起こしていることが判明します。そこで、発射のタイミングを0.3秒ほどずらすことで相互干渉が起きないよう対策が施され、そしてこのシステムは、後の日本海軍の連装砲全てに組み込まれることとなりました。

なお、連装砲3基への集約は艦上スペースの効率化にも貢献しました。次型の妙高型重巡洋艦が条約の制限ギリギリの船体に、兵装や装甲、兵員室を詰め込んだため、余裕がなく居住性が悪かったのに対して、青葉型は余裕があり、前型の古鷹型と次型の妙高型の両タイプと比べて使い勝手に優れていたといわれます。

ちなみに、このスペース効率の良さから同型艦の「衣笠」は、日本の巡洋艦として初めて航空機発艦用カタパルトが設置されています。

ソロモンの大勝利と最初の大破

太平洋戦争が始まると、「青葉」は同型艦「衣笠」、そして準同型艦といえる「古鷹」、「加古」などと共に行動します。

「青葉」が参加した戦いで筆頭に挙げられるのは、第1次ソロモン海戦でしょう。これは1942(昭和17)年8月上旬、ガダルカナル島に来襲したアメリカ軍反攻部隊に対して夜襲をかけ撃退しようとしたもので、ラバウルに集まった重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻で攻撃に向かいました。この戦いは、戦力では米豪の連合軍艦隊のほうが重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦8隻と勝っていたものの、情報共有の欠如や指揮権の混乱などによって重巡4隻沈没、軽巡1隻大破、駆逐艦1隻大破、駆逐艦1隻中破、対する日本側は重巡2隻小破のみという大勝利を掴みます。ただし、日本側は敵の反撃を恐れて、本来の目的であった輸送船部隊は攻撃せずに撤収したため、戦術的勝利にとどまり、しかも帰路で「加古」が敵潜水艦に沈められたため、戦果も半減してしまいました。

そして「青葉」は、8月下旬の第2次ソロモン海戦への参加ののち、10月上旬にサボ島沖海戦へ参加します。この戦いでは、アメリカ艦隊の先制攻撃によって「青葉」の艦橋や2番、3番砲塔、カタパルト、機関部などが被弾、これにより戦隊司令官の五藤少将以下指揮中枢が死傷したほか、砲塔損傷によって戦闘能力が低下したため、煙幕を出して海域から離脱しました。そしてトラック泊地で被害調査が行われましたが、検分した造船士官が「仮に全砲弾が炸裂していれば沈んでいた」と言うほど、命中弾は多いものの、その大半が不発だったことで命拾いした状況でした。

沈没を免れた「青葉」は、修理のために呉に戻ることとなりましたが、ここで大破した3番砲塔は撤去され、代わりに対空機銃の増設などが行われました。

3たびの大破で終焉の地、呉へ

約4か月に渡る修理の後、「青葉」は1943(昭和18)年2月下旬にトラック泊地へ舞い戻り、再びラバウル方面で最前線に立つようになります。しかし、4月3日ラバウル近傍のニューアイルランド島カビエンにおいて、アメリカ軍B-17の爆撃を受け損傷、さらに搭載魚雷の誘爆によって大破となりました。浅瀬で擱座(かくざ。座礁し動けなくなること)したため沈没は免れましたが、応急修理ののち、再び呉に戻り本格修理となりました。

ところが今度は機関部が修理されなかったため、速力は28ノット止まりとなり、1943(昭和18)年12月に戦線復帰したものの、比較的後方のシンガポール方面で輸送任務にあたることとなりました。

そして1944(昭和19)年10月に、兵員輸送任務で参加した捷一号作戦(レイテ沖海戦)において、潜水艦の雷撃を受け3たび大破、マニラ湾での応急修理の後、呉へ帰港の途に就くことになりました。アニメ映画この世界の片隅で』のポスターに用いられた、艦尾から捉えた「青葉」は、この時の呉入港を描いたものです。

この雷撃の傷は大きく、ドックを長期間占有してしまうことから修理は後回しとされ、「青葉」は呉工廠の近くに係留されたままとなります。そして1945(昭和20)年2月には予備艦扱いとなり、7月の呉軍港空襲ではアメリカ軍の空母艦載機の猛攻で被弾し着底。こうして8月15日の終戦を迎えたのです。

一等巡洋艦として建造された日本の重巡洋艦のうち、「青葉」以外で大戦を生き抜いたのは「妙高」と「高雄」しかなく、その2隻はシンガポールにあったため、イギリス軍の手によりマラッカ海峡への海没処分となりました。一方、「青葉」は日本国内の造船所で日本人の手により解体となったため、ある意味、日本の軍艦としては幸せだったのではないでしょうか。

なお「青葉」と同じく呉で大破着底した重巡洋艦として「利根」もありますが、こちらは書類上、最後まで二等巡洋艦、すなわち軽巡洋艦扱いのままでした。戦後も「青葉」と同じく、国内で解体されています。

就役直後の旧海軍重巡洋艦「青葉」(画像:アメリカ海軍)。