18歳で上智大に留学 デーブ・スペクターにあえて聞く「YOUは何しに日本へ?」 から続く

 来日35年。外国人タレントとして活躍し続けてきたデーブさんが語る日本のテレビ界。(全3回の3回目/#1#2へ)

◆◆◆

そもそも1983年にどんな仕事で日本に来た?

―― 1983年プロデューサーとして再来日しますが、具体的にはどんな仕事だったんですか?

デーブ アメリカABCテレビのロケですね。担当してた番組は、日本でいうと『奇跡体験!アンビリバボー』とか『世界まる見え!テレビ特捜部』みたいなドキュメント形式でした。プロデューサーや司会者も含めてみんなで来て、2週間のロケをするの。アメリカテレビ黄金時代だったから、予算がすごいあるんです。もちろん、ロケが終わったら帰るつもりだったんだけど、「お前だけ残れ」って言われた。それで、日本のテレビ局にある使える映像を探して、アメリカに送ったりする仕事をしてました。

―― 日本語もできて芸能にも詳しいデーブさんには、適任の仕事ですね。

デーブ 毎日のようにNHKや各局のライブラリーに入り込んで、ひたすら見続けました。もう信じられないくらい良いものがあったんです。日本テレビの『木曜スペシャル』とか、フジテレビバラエティとか。そのころはホテルに泊まってたんだけど、ビデオデッキを設置して、新しい番組も録画しまくった。それをアメリカにじゃんじゃん送ってたら、「そのまま帰ってくるな」って言われてね。

―― あくまでもアメリカテレビ局の仕事として、日本に滞在してたんですね。

デーブ そう。日本に住むつもりはなかったし、アメリカで仕事がないから来たわけでもない。ロサンゼルスのマンションもずっと残してましたよ。飼ってたネコもそのままだから、ネコ・ネグレクト(笑)。餌は人に頼んでたけどね。

そして『いいとも』でテレビデビュー

―― そして、いよいよ日本のテレビ番組にデビューします。最初は、『笑っていいとも!』の1コーナーなるほど・だ・ニッポン」。『なるほど!ザ・ワールド』のパロディですね。

デーブ 楽しい出張の記念になると思って出ただけです。のど自慢に出るみたいな気分。帰ってからアメリカの友達に録画したものを見せようと思ってた。だから、その先のことなんて全然考えてない。

―― それが気づいたら3年間、毎週出演することになります。ちょうど、外国人タレントブームでもありました。

デーブ 『いいとも』での同期が、ケントデリカットやオスマン・サンコン。ブームの影響もあってか、だんだん雑誌の企画とか他の番組にも出るようになって、いつの間にかワイドショー社会問題をしゃべるコメンテーターになってました。だから、計画的に狙ってたわけじゃないんです。コメンテーターをやってるうちに、いろんなことを言って「ゴメンテーター」になった(笑)

―― その間もABCテレビの仕事を続けてるんですよね。ロサンゼルスのマンションを引き払うきっかけは、何だったんですか?

デーブ ちょうど4年間で向こうの番組が終わったんです。番組の予算があって給料も高いし、日本のホテル代も全部テレビ局が払ってくれてました。僕が日本のテレビに出ることも全然気にしない。好きにやったらいいよって。そのうち、各テレビ局にも頻繁に出入りするようになって、楽しくてしょうがなくなってきた。そしたらもう帰れないですよ。

右翼から左翼まで対談し続けたバブル時代

―― 留学生時代とは一転して、日本が楽しくなったんですね。

デーブ そのときにはもうバブルに突入してました。イケイケで何でもありの時代。テレビの深夜放送もすごかった。とんねるずカメラ壊したり、乱入したり。今はもうできない。

―― そのバブル真っただ中の1989年、『週刊文春』で対談の連載が始まります。タイトルは、「デーブスペクターTOKYO裁判」。対談相手には戦後史の大物がズラリと並んでますね。赤尾敏、笹川良一、竹中労、塩見孝也と、いわゆる右翼から左翼まで幅広い。

デーブ 僕は、本当は対談が好きじゃないんですよ。お互いに「そうですね」って言いあうだけで、盛り上がってきたら締めになるでしょ。だから、やるからには誰もやったことない挑発的なスタイルでいこうと思ったんです。笹川良一を呼んだのも、本当の東京裁判に出た人に2回目の「TOKYO裁判」に出てもらおうって企画したの。こんなの誰も思いつかないでしょ(笑)

―― あらためて全部読みましたが、面白すぎますね。これだけの人物を呼べたというのは、出版社にも力があったということですか?

デーブ 出版社というより、花田さんだ。あと、担当の仙頭さん。

―― 『週刊文春』編集長だった花田紀凱さんは、現在『月刊Hanada』の編集長、仙頭寿顕さんは『Will』を出版しているワックの編集者です。そのメンバーで「TOKYO裁判」をしていたというのは意味深ですね。対談相手は、デーブさんが選んでたんですか?

デーブ 文春からの打診もあったけど、ほとんどそうです。でも、みんな嫌がっちゃって、だんだん出る人がいなくなったね。落合信彦の回のこと知ってる

―― ボツになったんですよね。実際に対談はしたんですか?

デーブ しました。向こうが怒って何らかの圧力をかけたんですよ。でも、そういう展開も楽しくてしょうがない。

イラク大使を本気で怒らせたことも

―― 約170回の連載の中には、ほとんど喧嘩してるような回もありますね。

デーブ 怒って帰った人は何人もいるよ。イラク大使のラシード・アルリファイとか、鄧小平の娘の鄧林とか。

―― それが記事としてそのまま載ってるのがすごいですよね。湾岸戦争が始まった直後の対談で、イラク大使に向かって、いきなり「今日は人質にされた時に備えて、着替え用の下着を持ってきたんですよ」ですからね。

―― ホロコースト否定論者の宇野正美さんとの対談のときは、デーブさんも本気で怒っているように見えました。

デーブ それでもちゃんと議論するからいいんですよ。朝日新聞社で自殺した新右翼の野村秋介とか、パリ人肉事件佐川一政にも出てもらってる。僕は、誰とでも平気で対談できるんです。

「今だったら橋下徹や小室圭と対談してみたい」

―― 最終回では、「『TOKYO裁判』は冷戦構造の産物だった」という発言もありますが、今ならまた別のかたちでできるんじゃないですか?

デーブ 今こそ復活すべきですよ。「TOKYO裁判Ⅱ」ってタイトルにして。今はデジタルもあるから、動画撮影してもいいよね。呼びたい人はいっぱいいるよ。橋下徹とか、小室圭とか。

―― ぜひ読みたいです。連載は1992年10月に終了していますが、そのすぐ後に大阪の被差別部落を訪問していますよね。きっかけは何だったんですか?

デーブ あれは野坂昭如さんから1回行った方がいいよと言われたから。分からないでしゃべるよりは、1回見た方がいいじゃない。

―― 雑誌やテレビの企画で行ったわけではないんですね。

デーブ いやいや、自分の勉強のために行ったんです。1回講演もしたし、講演料の代わりに差別問題についての本を100冊くらいもらった覚えがあります。

―― 差別問題で言えば、2000年に起きた石原慎太郎さんの「三国人」発言のとき、抗議の記者会見に出てますよね。

デーブ 行きました。「来る?」って言われたからね。

「いつかアメリカに帰る?」

―― 日本で「外人」として見られてきたデーブさんは、日本の人権問題に対して、独自な目線をお持ちかと思うのですが、再来日からの36年間で変化を感じることはありますか?

デーブ 人権は、自分だけにあればいいなあって(笑)。冗談です。でも、人権は、いろんな意味で良くなってきてるんじゃないですか。NHK Eテレの『ハートネットTV』の影響力もありますね。あれは立派です。あと、『クローズアップ現代』もそう。やっぱりNHKがやると違いますよ。政治家も無視できないから。

―― デーブさんは、いつかアメリカに帰ろうとの思いはあるんですか?

デーブ もう、ないですね。トランプ大統領になってから、戻らないと決めた人は多いんじゃない?(笑)アメリカにも良いところはあるけど、犯罪も多いしね。

―― 逆に、帰化しようと思ったことは?

デーブ アメリカの税金を払うのが面倒くさくて、帰化する人は多いですよ。日本に定住してるアメリカ人は、二重に税金払ってる。お金もかかるし、申告も大変。でも、僕の場合は、帰化したら選挙の誘いが増えそうだからね。あと、相撲部屋を持ちたくなっちゃう(笑)

―― たしかに、デーブさんには各党からの出馬要請がありそうですもんね。今日は、いろいろと意外な一面も見せていただき、ありがとうございました

デーブ 明日は、大きな芸能界のスキャンダルは出ないの?そっか、『文春』はもっとイケイケでやってもいいと思うよ。オンラインがあるんだから、雑誌には載せないネタもバンバン出せばいい。楽しみにしてます。それじゃあ、外は危ないから、しんちょうに帰ってね(笑)

#1 デーブ・スペクターが語る「吉本騒動とテレビの危機」

写真=杉山秀樹/文藝春秋

(笹山 敬輔)

デーブ・スペクターさん