「いだてん」第29話が放送されました。

これまでの「いだてん」振り返り記事はこちら。

アジアの情勢が悪化する中、いよいよ1932年ロサンゼルスオリンピック開幕です。この当時は戦争はもとより、世界恐慌の影響で出場を見送った国が続出したとか。ドラマ内で職にあぶれた人々が選手団に嫌な態度をとるシーンがありましたが、彼らの失業にはこうした背景もあったようです。

さて、日本の水泳選手たちは、この大会で6種目中5種目で金メダルを獲得するという快挙を成し遂げています。その陰で、代表に選ばれながら出場を果たせなかった選手がいました。高石勝男です。

Wikipediaより

29話は、かつて日本水泳のトップを走っていた高石が引退を決意するまでの葛藤を中心に描かれました。

日本近代水泳発祥の地で鍛えられた高石

高石は大阪府出身。彼が進学した茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)は、「日本近代水泳発祥の地」として知られています。

ドラマ内でも描かれていた通り、当時の日本にはろくなプールがありませんでした。そんな中、学校プールとして初めて設置されたのが茨木中学のプール。設置が始まった1913年当時は「水泳池」と呼ばれていて、生徒たちの手で作られたものでした。当初は周辺住民が洗い物に使うなど、ろくな環境ではなかったようです。

このプールは1916年に竣工しますが、当時生徒であったノーベル賞作家である川端康成もプールのための穴掘りに参加したそうです。

そうしてプールが完成して以来、茨木中学は数々の水泳選手を輩出しました。高石もそのうちの一人であり、ここでクロールを身につけます。彼を指導したのが、中学の教諭であった杉本伝でした。杉本は世界最先端の水泳研究を学び、高石勝男らを育成したのです。

パリ大会で5位入賞、アムステルダム大会で銀・銅

実力をつけた高石は、1924年オリンピック(パリ大会)に初出場するやいなや、自由形100mおよび1000mで5位入賞を果たしました。

日本の水泳選手が日本泳法(古式泳法)をひっさげてオリンピックに初出場し、クロールをマスターした他国選手たちに力の差をまざまざと見せつけられてからちょうど4年。たった4年で世界標準の泳法であるクロールを学び、世界に足並みをそろえたのです。

高石の躍進はここでとどまらず、さらに4年後のアムステルダム大会では800m自由形リレー銀メダルを、100m自由形で銅メダルを獲得しました。

続くロサンゼルス大会では、ドラマで描かれた通りロサンゼルスへ遠征はしたものの選手には選ばれず……。後輩たちの大活躍を間近で見ていることしかできなかった高石の胸中はわかりませんが、彼らの活躍も先駆者である高石あってこそのものだったでしょう。

東京オリンピックでは水泳日本代表総監督に

引退した高石は、以後後進の育成、さらには水泳普及に努めました。子どもたちが誰でも泳げるように、という教育を進め、トップ選手たちだけでなく泳げない子どもたちの指導にも熱心に取り組みました。

晩年、高石は東京オリンピックの水泳日本代表総監督に。さらには日本水泳連盟の会長も務めました。

ところが、オリンピックが終わってみれば水泳は惨敗。かつてアメリカをも上回った日本の水泳は、このころには再び世界の後れを取ってしまっていたのです。世界各国で温水プールが普及して一年中練習できるようになったのに対し、日本では未だ屋外プールが主流だったことも敗因だったとか。

高石はそれまでの指導方法から方向転換し、スポーツ科学に目を向けていたところでした。「人間の力は、限界に達したかに見える時に突如として天才が現れ、とてつもない力を発揮して、また新しい記録が生まれていく。こうした背景には、第一の成果としてスポーツ科学の進歩がある。」

かつて第一線で活躍した指導者の体験に基づく技術・勘に頼り、ひたすら泳ぐ指導をするのではなく、科学的な裏付けをもとに指導していく。「今後、スポーツ科学の研究が一段と進むにつれて、人間の力の限界はさらに前進するだろう」と述べています。

ただ、東京オリンピックには間に合わなかったのか……。高石は惨敗した悔しい思いを抱え、水泳連盟会長を辞任。オリンピックの2年後に59歳で亡くなります。

多くの人々から慕われた高石の葬儀は派手なもので、大阪の扇町プールで行われました。プール一面に花が飾られた華やかな葬儀で、高石の教え子たちがプールに飛び込んで泳ぎ、「献永」を捧げたとか。

かつての仲間たちをはじめ、葬儀に参列する人がの列が絶えないほどだったそうです。

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