(北村 淳:軍事社会学者)

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 2019年2月、アメリカ政府はロシアとの間の「INF条約」(Intermediate-range Nuclear Forces Treaty:中距離核戦力全廃条約)の破棄通告をロシア側に通告し、INF条約は8月2日に失効した。

 トランプ政権がINF条約破棄を通告した口実は、「ロシアが、INF条約に違反している疑いの濃い9M729(SSC-8)地上発射型巡航ミサイルを廃棄しない」ことである。アメリカ政府は、INF条約を踏みにじるロシアの9M729配備という動きは、アメリカならびにアメリカの同盟国や友好国にとり直接的な脅威となる、としていた。

 アメリカ国防総省によると、そのような脅威に対抗するため、アメリカもINF条約で開発・製造・保有が禁止されていた各種ミサイル(以下、「INFミサイル」と呼称する)の開発・製造を開始するとのことである。

 また、オーストラリアを訪問中のマーク・エスパー国防長官は8月3日、非核弾頭を搭載したINFミサイルを可及的速やかにアジア太平洋地域に配備する意向を表明した。

警戒を強めるヨーロッパ諸国

 9M729地上発射型巡航ミサイルの最大飛翔距離は2500キロメートルと考えられている。もし、この射程距離が真実であるならば、このミサイルはINF条約で禁止されているミサイル、つまりINFミサイル、ということになる。

 ロシアが2500キロメートルほど飛翔する9M729ミサイルシステムを東ヨーロッパ諸国との国境地帯に配備した場合、スペインポルトガルアイスランドを除くヨーロッパ諸国がスッポリと射程圏に収まることになる。そのため、NATO諸国はロシアによる9M729の配備に警戒感を強めている。

 だが、各国はそれと同時に、アメリカのINF条約破棄によってヨーロッパを舞台にした軍事的対峙が深刻化していくことにも危惧の念を持っている。この点に関して、アントニオ・グテーレス国連事務総長は「国際社会はかけがえのない核戦争の歯止めを失った」と重大な懸念を表明した。

 ただし、「核戦争への歯止めを失った」というよりは、「ミサイル戦争への歯止めを失った」と表現した方が、アメリカ政府が現時点でINF条約を廃棄する真意に近いと言えよう。なぜならば、INF条約は核戦力だけを制限するための軍縮条約ではないからだ。

制限を受けてきたミサイルの種類

 INF条約は1987年に調印され、88年に発効した。INF条約の正式名称は「Treaty Between the United States of America and the Union of Soviet Socialist Republics on the Elimination of Their Intermediate-Range and Shorter-Range Missiles」である。つまり、正式には「核弾頭を搭載した中距離ミサイル」だけを制限しているわけではない。

 INF条約による制限の対象は、地上から発射される短距離ミサイル(最大射程距離500~1000キロメートルのミサイル)と中距離ミサイル(最大射程距離1000~5500キロメートルのミサイル)である。

 それらには核弾頭が搭載されているミサイルも、非核弾頭が搭載されているものも含まれる。また弾道ミサイル巡航ミサイルも共に含まれる。ただし、地上から発射されるミサイルに限定されているため、航空機や艦艇(水上艦、潜水艦)から発射されるミサイルはINF条約による制限の対象外である。

 要するに、INF条約によってアメリカとロシアが制限を受けてきたINFミサイルとは、
(1)最大射程距離が500キロメートルから5500キロメートルの、
(2)地上から発射される、
(3)核弾頭か非核弾頭かを問わない、
(4)弾道ミサイルならびに巡航ミサイル
ということになる。

ミサイル戦力を飛躍的に強化させた中国

 アメリカはロシア(当初はソ連)との間でINF条約を締結したことで、ロシア軍によるNATO諸国に対するミサイル攻撃能力を制限することにはある程度は成功した。しかしその代償として、アメリカ軍自身もINFミサイルを手にすることはできなくなってしまっていた。

 さらに、アメリカが予期しなかった事態が起きた。INF条約が締結された1987年当時にはアメリカにとってはさしたる軍事的脅威ではなかった中国が、INFミサイルを中心とする各種長射程ミサイル戦力を飛躍的に強化させてしまったのだ。

 INF条約を遵守したアメリカが製造・保有してこなかったINFミサイルを、INF条約とは無関係の中国は大量に手にしており、それらのミサイル戦力は日本を含む中国周辺諸国にとって深刻な脅威となっている。

 また、西太平洋方面から東シナ海や南シナ海へ接近を企てるアメリカ海洋戦力にとっても、中国本土から発射される地上発射型の各種INFミサイルは極めて深刻な脅威となってしまった。南シナ海や東シナ海において中国海軍がアメリカ海軍を物ともせずに立ち回ることができるのは、中国人民解放軍ロケット軍が大量の高性能INFミサイルを手にしているからに他ならない。

 このように、アメリカが東アジア海域で、海軍力の強化だけで中国海軍に立ち向かい、優位に立つことは今や困難な状況になっている。そこでアメリカ自身も強力なINFミサイル戦力を手にして、中国軍ミサイル戦力とのパワーバランスを図らなければならなくなってきた

 したがって、アメリカ政府は、何としてでも自らのミサイル戦力を縛ってきたINF条約を廃棄したかったのである。

オーストラリアと日本をミサイル拠点に

 エスパー米国防長官は「アジア太平洋地域にINFミサイルを配備」することを明言した。

 INF条約という足かせを取り除いたアメリカ軍当局にとって、次なるハードルは、まずはオーストラリアと日本に、アメリカが急遽開発製造する各種地上発射型長射程ミサイルを展開するための受け入れ態勢を認めさせることである(現時点では、オーストラリアアメリカ軍のINFミサイル配備を受け入れるのには慎重な姿勢を示している)。

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