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門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

月岡芳年 新撰東錦絵 “一休地獄太夫之話” 都立中央図書館特別文庫室所蔵

月岡芳年 新撰東錦絵 “一休地獄太夫之話” 都立中央図書館特別文庫室所蔵

この絵に描かれた地獄太夫は、白無垢に地獄変相の打ち掛けを羽織っています。遊郭には紋日という、ざっくばらんに言うと料金が2倍になる日があり、その紋日には元旦から松の内も含まれています。そのような日に遊女達は白無垢を着たそうで、そのことから正月を描いていると思われます。背後に描かれているのは門松でしょう。

さて、左にいるのは一休禅師です。竹の先にしゃれこうべを載せて、とても楽しそうです。地獄太夫は穏やかな微笑みを浮かべて、一休禅師をみつめています。しかし右にいる男は怪訝そうにしゃれこうべを見ており、新造達も不快な様子です。

一休禅師は風狂の人でもありました。“風狂”とは“戒律などの破戒的な行為を、悟りの境涯と肯定的に捉えること”です。一休禅師は女犯をし、酒も飲み、肉や魚も食べました。地位や名誉を欲しがる当時の仏教の形骸化に、一休禅師は反旗を翻したのでした。

一休禅師は人々がお正月を迎えると、誰も彼もがめでたい、めでたい、と振る舞うことを不思議に思ったのです。お正月を祝う家々に、竹の先のしゃれこうべを差し入れて歩いてまわりました。そして“ご用心、ご用心。このしゃれこうべを御覧なさい。目が出てしまって、こういうことを目出たい言うのです。

人間というものは、無事に昨日を生き過ぎたことに慣れて、今日も無事に終わるものだと漫然と過ごしてしまう。正月を迎えて歳を重ねたということは、確実に死に一歩近づいているということなのですよ”と説いたといいます。

1843_歌川広重_東海道五十三対_関_出典国立国会図書館

歌川広重 “東海道五十三対 関” 出典:国立国会図書館

あるとき地獄太夫は一休禅師に「出家して仏に仕えることが出来れば、せめて救いがあるものを」と嘆くと、一休禅師は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたといいます。

民衆に愛された“地獄太夫”

伝説の遊女である“地獄太夫”と、“一休宗純禅師”はともに室町時代の人であるにも関わらず、江戸時代に栄えた町人文化の中で大人気を博しました。多くの読本や歌舞伎で取り上げられ、浮世絵に描かれることとなりました。

1865 歌川国貞_地獄太夫_都立中央図書館特別文庫室所蔵

歌川国貞 “地獄太夫” 都立中央図書館特別文庫室所蔵

この絵は“地獄太夫”を演じる歌舞伎役者・坂東彦三郎の役者絵ですが、地獄太夫独特の地獄変相が描かれた打掛ではありません。坂東彦三郎の替紋である“結び八重片喰(むすびやえかたばみ)”の紋が散りばめられています。

それにしても凄い目力。あくまでも“坂東彦三郎”をアピールすることを国貞も注文されたのかもしれません。この五代目坂東彦三郎は「名人彦三郎」と呼ばれる名優で、当時大人気の役者だったのです。そしてそんな役者が“地獄太夫”を演じたのです。

地獄太夫と野晒悟助

1865_豊原国周_鶴千歳曽我門松より_「野晒語助 市村羽左衛門」 「地獄太夫 坂東彦三郎」_都立中央図書館特別文庫室所蔵

1865 豊原国周「鶴千歳曽我門松」より “野晒語助 市村羽左衛門” “地獄太夫 坂東彦三郎” 都立中央図書館特別文庫室所蔵

これは幕末の激動の時代である1865年お正月に、初演された歌舞伎『鶴千歳曽我門松』の演目“野晒悟助”を描いた浮世絵です。この“野晒悟助”は歌舞伎狂言作者の黙阿弥が“市村羽左衛門”のために書き下ろした創作上の人物です。因みに野晒悟助を演じる市村羽左衛門は後の名優と誉れ高い尾上菊之助です。

「野晒悟助」のあらすじを完結に言うと。侠客・野晒悟助は因縁をつけられて困っている二人の娘を助け、その二人に惚れられる。懲らしめた相手の仕返しにあうが、母の命日で手出しができない。命日があけて、最後は野晒悟助が悪者たちをバッタバッタと打ち倒す。という勧善懲悪のスカッとした話で、野晒悟助は強くてモテる色男というヒーローなのですが。。。

なんと“野晒悟助”は、一休禅師の弟子で僧侶同然の身の上であり、しかも地獄太夫の兄なのです。しかも仕事は葬儀屋。そして“地獄太夫”の最期を一休禅師とともに看取った人物として創作されているのです。

そう言われてこの絵をみると、野晒悟助は袈裟を着ているではありませんか!しかも“野晒”とは荒野にうち捨てられた“しゃれこうべ”のこと。そしてその髑髏模様の着物を羽織っています。

何故、黙阿弥はこのような設定を創作したのでしょうか?そういう設定が面白いから。それが客に受けるから。それを人々が求めているから。

この浮世絵が描かれた1865年という時代は、日本では幕府から長州征討が行われた年で、翌年には薩長同盟が結ばれます。このような動乱の時代に人々は“生き死に対する救い”を無意識に感じていたのではないでしょうか。

(後編につづく)

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