世間の目を気にしながら生きてきた日本人。しかし「何を恥ずかしいと思うか」には人によって差が――酒井順子さんのモヤモヤ解消エッセイ『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』より「感謝にテレない世代」のパートを特別公開します。

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 学生時代に所属していた運動部の後輩達が、親だの仲間だのに対する「感謝ハイ」のあまりうっとりしていることがしばしばで、恥ずかしくなる……ということを、前にも書きました。とはいえそんなシーンに私も慣れてきたので、学生達が感謝に陶酔(とうすい)する姿には、もう驚かなくなっていたつもり。

 しかし先日、部のとある集いに参加したところ、私を悶絶(もんぜつ)させるシーンに出会ったのです。それは、ほどなく卒業する4年生の男子が、「皆さん今までありがとう」的なスピーチを述べた時でした。彼は結びに、

「僕が最後に感謝したいのは、お母さんです!」

 と、宣言。その後で彼がやおら母親を壇上に呼び寄せたかと思うと、彼女を熱く抱きしめたではありませんか。

 会場は、戸惑いに包まれました。そこには、大学の総長からOB・OGに保護者、現役学生までがいたわけですが、特に私を含め中高年のOB・OGは、言葉を失ったのです。「母と息子の抱擁」という生々しい姿を目の当たりにして、私などは混乱のあまり、

「どどど、どうしたらいいんですかねこういう場合?」

 などと、よくわからないことをつぶやき続けた。

 トロンとした目で壇上から降りるお母さんは、きっと私と同年代でしょう。世が世なら、私も壇上で息子にハグされて、イっちゃいそうになったのかもしれません。

このエピソードを話した友人の思わぬ反応

 後日、その話を興奮気味に友人に語ったところ、私は「えーっ、ありえない」という反応を期待していたのに、彼女は全く動じませんでした。それどころか、彼女の高校生の息子が所属するラグビー部では、

「3年生が引退する時は、一人ずつお母さんお姫様抱っこして、記念撮影をするのよ。脚をきれいに伸ばして写るために、みんな事前に、抱っこされる練習をするの」

 と、瞳を輝かせて語るではありませんか。

 ハグ、そしてお姫様抱っこ。母と息子(それも精通済み)のスキンシップは、今やそんな段階まで進んでいるのです。ほどなくチューもしくはそれ以上の行為に進んでしまうのではないかと、要らぬ心配が募ってくるではありませんか。

マザコン」は揶揄されない時代に

 我々世代の男子にとって、「マザコン」は最も忌むべき称号でした。乳ばなれできていないことは、男にとって一人前でないということ。たとえ心の中ではお母さんのことが大好きでも、面と向かった時は、「うっせぇババア」と言わざるを得なかったのです。

 1992年には、「ずっとあなたが好きだった」というドラマに、佐野史郎演じる「冬彦さん」という、希代(きだい)のマザコンキャラが登場しました。野際陽子演じる母親との密着ぶりが話題となったのであり、「冬彦さん」は長い間、マザコンの代名詞だったのです。

 恋愛至上主義の時代であったバブルの頃は、「恋愛対象よりも母親を大切にする男は気持ち悪い」という感覚がありました。「全ての男はマザコン」であるわけですが、しかしその時代、男性はモテるためにマザコンを隠さなくてはならなかった。

 しかし今、前述のような公衆の面前における母と息子の愛の交歓シーンを目撃すると、もはや「マザコン」は、悪い資質として捉えられていない模様です。母親を抱きしめた後は、母親のみならず息子の方も満面の笑みだったのであり、そこからは、「自分の母親を喜ばせるのは息子として当然のこと」という声が聞こえてきそうだった。

若者が母親を「お母さん」と呼ぶことについての二つの仮説

 男の子マザーとどれほど仲が良くても「マザコン」と揶揄(やゆ)されない傾向は、ここ10年くらい感じておりました。最初に感じた兆候は、テレビに出てくるタレントさんでも、また部の後輩達でも、とにかく若者が皆、自分の母親について話す時、「お母さん」と言うようになってきたことでしょうか。

 我々の時代であれば、他人に対しては「母」と言う、という教育は徹底していたと思います。しかしいつ頃からか、若者界では他人と話す時でも、自分の母親のことを「お母さん」と言うように。しかし「うちのお母さんが」と言う人は多くても、「うちのママが」と言う人がいないところを見て、私の中では二つの仮説が生まれたのです。すなわち、

 仮説1 若者達は、「お母さん」がよそゆきの言葉だと思っている。

 仮説2 若者達は、子供の頃は「ママ」と呼んでいても、少し大きくなったら「お母さん」と呼ぶべきだと思っている。

 というもの。

「ママ」から「お母さん」への変遷

 仮説1について、ご説明しましょう。「お母さん」と言う若者は、謙譲語を知らないということになります。彼等は、家では母親のことを「ママ」と呼んでいるのかもしれませんが、他人の前で「ママ」と言うのは変だという意識は、かろうじて持っている。その時に、「お」や「さん」が付く丁寧っぽい言い方である「お母さん」を、よそゆきの言語だと思って、使用しているのではないか。

 仮説2。私の時代くらいまでの男子は、子供の頃は母親を「ママ」と呼んでいても、思春期になると急に恥ずかしくなって、呼び方を変えていたものです。その代表的な呼称が「おふくろ」であったわけですが、反抗期の只中だと「ババア」とか「おばはん」、「オイ」になったりしたもの。関西の影響が強い人の場合は「おかん」になったりもしました。

 しかし今の若者が、思春期にいきなり「ママ」→「おふくろ」に飛躍するとは、考えにくい。とはいえ「いつまでも『ママ』はいかがなものか」という考えは一応浮かび、思案の結果、「ママ」よりはきちんと聞こえる「お母さん」と呼ぶようになるのではないか。つまりそれは成長の証としての「お母さん」であり、本人としては「大人っぽく呼んでいる」と思っている可能性がある。

 二つの仮説の正否ははっきりしませんが、とにかく彼等は「お母さん」を、外で口にしても恥ずかしくない言葉として捉えているわけです。だからこそ我が後輩も、

「僕が最後に感謝したいのは、お母さんです!」

 と、言い放った。

 この「お母さん」問題を苦々しく思っている中高年は少なくありませんが、この先彼等が「母」という言い方を用いるようになるとは考えにくいものです。そもそも日本語の尊敬語とか謙譲語とかのシステムが複雑すぎてよくわからん、という話もあるわけで、もうこのあたりで「謙譲語、廃止!」という動きになるかもしれない。若者が自分の母親のことを「お母さん」と言ったという時点で、「間違ってはいるが、よそゆきの言葉を使おうとしている」という努力を、評価すべきなのでしょう。

急速に接近している親子の距離感

お母さん」問題以外での変化は、親子の距離が、特に2000年代以降、急速に接近しているということです。今や大学の運動部の行事や試合に、親が大挙してやってくる時代、ということは以前も書きました。親が試合会場で絶叫しても号泣しても、今の子供達は、

「恥ずかしいからあっち行ってろ」

 とは言わない。

 この現象を見て、私は最初、「若者達は、子供の頃からサッカーとかしているから、親御さんが試合に同行することに慣れているのかしらん」などと思っていたのです。が、原因はもっと根源的なものなのではないか。

自分の子供を「王子」「姫」と呼ぶバブル世代

 大学生の子供の試合を見に行く親達は、バブル世代です。それは少子化が急激に進んだ時代に青春時代を過ごした世代でもあり、「子供は貴重品」という意識を、強く持っている。少なく産んで大切にそして慎重に育てるため、子供が思春期になっても、「うっせーババア」とはなりにくいのでしょう。

 友人知人達を見ても、SNSに息子のことを「王子」、娘のことを「姫」と記載する人をしばしば目にします。昭和の親達が、子供のことを「豚児(とんじ)」と言っていたことを考えると、家庭内での子供の地位は急上昇している模様。

 

 もちろん昭和の親も、謙遜して「豚児」と言っていたわけで、本当に子供を豚扱いしていたわけではありません。昭和から平成にかけて、謙遜文化が急速に失われていったということなのでしょう。自分の息子を堂々と「王子」と呼ぶことができる母がいるからこそ、息子は母のことを「お母さん」と言うわけで、親子間で素直に愛情を表現し合うことができる世の中となったのです。

 親達は、王子や姫ととても仲良しです。母と息子、父と娘という異性同士の親子間でも、小学校高学年や中学生になっても一緒にお風呂に入ったり。娘が高校生になって、さすがにお風呂は別々に入るようになっても、

「娘のブラジャーパンツも、俺が洗濯しているよ」

 という父親もいましたっけ。

「私から離れられなくなるように育てたい」という母親

 男の子を持つ母親達の中には、

「私から離れられなくなるように育てたい」

 とか、

「あなたを一番大切にしてくれる女は誰なのか、っていうことを、大人になるまでに叩き込むつもり」

 などと言う人もいました。それが冗談なのか本気なのかの区別がつかない子ナシの私としては、もやもやしつつも、

「そうなんだー」

 などと、曖昧な返答を。かつては冬彦さんのことを「気持ちわるーい」とか言っていた人たちだったのに、立場は人を変えるのね……と、思いつつ。

人前でのハグ、お姫様抱っこは息子から母への最高のギフト

 子育ての苦労を考えれば、「私から離れられなくなるように育てたい」と言う母親達の気持ちも、もっともなのです。昔の女性であれば、子育ての見返りが何ら無くとも黙って年老いていったのでしょうが、バブル世代は「労働には対価があって当然」と思っています。子育てという重労働をしたのだから、永遠に子供から「お母さんが一番」と愛されるべき、と思う気持ちもわかる。

 そして私は、母親を人前でハグできる男子大学生を見て、母親達の計画は達成されたことを知ったのです。人前でのハグとかお姫様抱っこは、息子から母への最高のギフトであり、アンサー。

 してみると、母と息子の抱擁を見て恥ずかしい気持ちになった私の方が、むしろ恥ずかしい存在なのかもしれません。ハグできる親子とは、J-POP風に言うなら「愛に臆病でない人達」。

 対して私は、「母と息子」というだけで即座にAVの熟女ものに想像がワープ。……という感覚は論外としても、私の中には、母と息子に限らず、「愛情を堂々と外に出すことが恥ずかしい」というクラシックな感覚が、今もあるのです。

妻の忍従によって夫婦関係が保たれた時代

 古来、日本の夫婦というものは、愛情以外のもので最初は結びつき、次第に愛や情を育んでいくというスタイルを取っていました。見合いだの紹介だの、周囲の意思で結婚が決められることが多かったのです。

 結婚後に愛を育んだからといって、欧米のようにそれをのべつ確認し合わなくてはならないという感覚は、日本人にはありませんでした。主に妻の忍従によって、夫婦関係はキープされたのであり、「愛してる」と言い続けなくてもよかったのです。

 子供に対する愛も同様で、「わざわざ口で言わなくてもまぁ、伝わるだろう」という感覚。

「あなたを愛しているわ、太郎」

「僕もだよ、ママ」

 と言い合わなくても親子は成り立ちましたし、子供から親に対して正面切って感謝することもなかったのです。

家族が死に瀕した時、ハタと自覚されていた「愛情」

 日本における家族間の愛情は、誰かが死に瀕した時に、ハタと自覚されるものでした。不治の病を宣告された夫が、それまで妻に「ありがとう」の一言も言ったことがなかったのに、

「苦労かけたな」

 と言ってみたり。「その一言で、50年の結婚生活の苦労が、全て吹き飛びました」といった高齢女性による新聞への投書が、今でもたまに載っているものです。

 親子間でも、病の母を息子が負うてその軽さにふと涙ぐむ、くらいでよしとされました。母親の他界後に墓参りをすれば、息子にとっての親孝行は完了したのです。

女性が「愛情の表現」を求める時代

 しかし時代は、変わりました。女性達は「なんで黙って忍従なんかしなくちゃいけないのよ」と、夫や子供に対して「愛情の表現」を求めるようになったのです。

 たとえば昔のお父さんは、うまいともまずいとも言わずに黙って食事を食べたものですが、今のお父さん達は、感想を述べることが作った人へのマナーであると心得ている。

「この煮物、美味しいね」

 などと言うことによって、妻の料理に対するモチベーションをキープしなくてはなりません。

 誕生日クリスマスプレゼントをあげたり、食事や旅行に連れていったりすることによって、妻には「愛されている実感」を得てもらう。それが「言葉もしくは態度に出さなければ、愛情は伝わらない」と知っている世代です。

 セックスレスの問題が話題となって久しい時が経ちますが、それはセックスレス夫婦が急に増えたからではありません。昔は、ある程度結婚年数が経った夫婦がセックスをしなくなるのは当たり前のことだったのが、その後「死が二人を分かつまで愛情表現を続けてくれなくては、結婚生活などやっていられない」と思う妻が激増。そんな妻にとってセックスの消滅は大問題なのであり、世に訴え出た結果、大きな社会問題と化したのです。

 夫達だけでなく、子供達もまた、母親に対する愛情表現を求められるようになりました。小学校では「二分の一成人式」というものが流行っているのであり、子供達が親御さん達に、「育ててくれてありがとう」などと言ったりしている。またヒップホップの人達も、既にだいぶ前から、親への感謝魂を鼓舞し続けています。何はなくとも周囲に感謝、という風潮の中で若者達は育っているのであって、親への感謝など、もはや朝飯前といったところでしょう。

「愛情」もギブアンドテイク

 夫や子供への愛は、一方通行で良いはずがなく、やりとりされるべきもの。……という意識を持つ母親達にとって、息子からのハグやお姫様抱っこは、やりとりの一部となります。「苦労かけたな」との夫の一言で50年の苦労をチャラにする、などという精神構造はもはや持っていない彼女達ですから、夫からのプレゼントや、初月給で子供からご馳走してもらったディナーをSNSにあげたりすることによって、それまでギブに次ぐギブだった愛情をテイクすることができるようになるのです。そして息子からのハグやお姫様抱っこは、もはや夫とのスキンシップが「無理」となっている妻達にとっては、最高のテイクとなるのではないか。

 その理屈はわかっていても、母と息子の交情シーンを見た私がなぜ恥ずかしくなるのかといえば、「古い人間だから」。我が両親は恋愛結婚だったものの、父親が母親よりも10歳年上だったので、二人の感覚はかなり違いました。父親は、昭和一桁の生まれの、元軍国少年。対して母親は、戦後教育を受けて育った自由人。私の中には、両者の感覚がまだらに存在しています。

 もちろん、父親は母親に対する愛情表現などしません。兄もまた、思春期になれば、金八先生の時代の人らしく「うっせーババア」の道へと素直に進み、「育ててくれてありがとう」などという台詞(せりふ)とは無縁で育つ。子供の頃を除けば、母親とのハグなんぞ一度もしたことがないと思われ、その肉体に触れたこともなかったのではないか。

 私ももちろん、「育ててくれてありがとう」という発想すらなく、大人になりました。父親が私のブラジャーパンツを洗うなどということは想像だにしたことがないし、「洗ってあげる」ともしも言われたとて、断ったであろう。私の両親は既に他界していますが、やはり昭和人らしく、

「孝行したい時に親はなし……」

 などと思っているわけです。

の思いが成就する時

 そんな育ちであるからこそ、私は母と息子のスキンシップに、赤面します。親子が仲良くするのは、とても喜ばしい。しかし私の中に存在する昭和一桁の魂が、親子のハグに対して、「欧米か!」と小さく叫んでいるのです。

 親を人前でハグできるのだから、今時の若者は、人前で恋人との濃厚なラブシーンを披露できるのかというと、そうでもなさそうです。若者の恋愛離れ現象は、各種調査からもうかがわれるところ。そういえば昔は、電車内でいちゃいちゃしたり、路チューする若いカップルをよく見たものですが、今や路チューなどするのは、意気盛んなおじさんおばさんの不倫カップルくらいなのです。

 親より恋人を大切にしていたバブル世代が若かった頃は、「恋人がいない」という状態を、恥としていました。クリスマス誕生日を一緒に過ごす相手を必死で探す、といった現象が見られたものです。

 しかし今の若者達は、恋人がいないからといって、どうということはなさそう。実家で家族とケーキを囲む方がよっぽど楽しい。お母さん、楽しいクリスマスありがとう……と、平然としている。

 子供が自分から離れられないように、とのお母さん達の戦略は、ここでも成功しているのでした。彼等がそのまま素直に育って、母親のシモの世話までやり切った時、お母さん達の思いはいよいよ成就されるのではないかと思います。

〈追記〉

 その後、「anan」において坂口健太郎(1991年生まれ)が、「母親に会ったら絶対にハグするんです。肌の触れ合いはすごく大事だと思っています」と語っていた。女性誌において人気俳優が「母親との肌の触れ合いを大切にしたい」と躊躇なく語ることができるという事実に、改めて時代の変化を感じる。

(酒井 順子)

『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』2019年8月7日発売