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Vitabello from Pixabay

 殺人を請け負うことで金銭的利益を得る者を殺し屋という。殺し屋を題材としたフィクション作品は多いが、事実はフィクションよりも奇なりだ。

 前回、実在する5人の殺し屋に関する事実をお伝えしたが(関連記事)、今回もあと5人ほど見ていくことにしよう。

 彼らが殺し屋になった動機は様々だし、背景も異なるが、皆冷酷にターゲットを抹殺しているのは事実である。

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 まずは前回のおさらいだ。

 それでは続きを見ていこう。

5. ジュゼッペ・グレコ(イタリア)


Pino Greco "scarpuzzedda" BIOGRAFIA

 ジュゼッペ・"ピーノ"・グレコは、マフィア殺し屋として恐れられた男。本人が死んでもなお、58人の殺害の罪で有罪になったが、実際には犠牲者の数は300人とも言われている。

 犠牲者のほとんどはマフィアで、1978~1983年のシシリアの第二次マフィア抗争の間に殺された。犯罪者はもちろんのこと、警官、政治家、裁判官なども含め、この抗争の犠牲者は1000人以上とも言われている。

 抗争後の裁判の間、ピーノは複数の警官や判事、血みどろの争いに終止符をうつ任務を担っていたイタリアのテロ対抗長などの殺害の罪で有罪になった。

 1985年9月、絶大な権力を握ったと思われていたピーノはマフィアに殺された。遺体は見つからなかったが、銃撃のときに現場にいた内通者によって、1989年にその死が確認された。

4. ハリー・マイオーネ(アメリカ)


Who Were Murder Incorporated?

 ハリー・"ハッピー"・マイオーネは、イタリア系アメリカ人で、バグジー・シーゲルがマイヤー・ランスキーと組んでつくった犯罪組織マーダー・インクの殺し屋である。めったに笑わず、始終しかめっ面をしていたため、ハッピーというあだ名がついた。

 1908年生まれ、ブルックリン育ち。1931年までに、ライバルマフィアのシャピーロ兄弟を3人殺したのが、初めての殺し仕事だと言われている。

 マイオーネは、マーダー・インクにいる間に、検察側の証人や疑わしい内通者など、少なくとも12人を殺したという。ターゲットに近づくためには手段を選ばず、あるときなど、女装してふたりの男を殺したこともある。

 ブラインドデートを装って、毛皮のコートの下に銃を隠し、標的の男ふたりが待つホテルの部屋に向かった。ドアを開けたターゲットたちが気がついたときは、もう遅かった。マイオーネが戸口を通り抜けたときは、ふたりの標的とその犬は撃たれて死んでいた。しかし、犬を殺したことは、暗黒街の連中を怒らせた。

 1940年5月、マイオーネは殺人罪で有罪になったが、上訴でこの判決は覆された。再審が要求され、再び有罪を宣告された。1942年2月、マイオーネはシンシン刑務所で電気椅子により処刑された。

3. ジェームズ・バズリー(オーストラリア)


Unforgiven: The Boys Who Killed A Child (Jamie Bulger Documentary) - Real Stories

 ジェームズ・バズリーは、オーストラリアマフィア殺し屋で、ニックネームは"マシンガン"。殺しのテクニックではなく、その早口のしゃべり方からつけられたようだ。

 バズリーは、リベラル派の政治家や、1977年には麻薬撲滅運動家のドナルド・マッケイを殺したと言われている。大がかりな捜査にもかかわらず、マッケイの遺体は見つからなかったが、バズリーはその死の陰謀に関わっているとして有罪になった。しかし、遺体が出なかったため、殺人罪での起訴はされなかった。

 1986年、バズリーはふたりの麻薬の運び屋の殺人で有罪になった。彼らのペットの犬も殺すよう命じられたが、それは拒否した。終身刑を言い渡されたが、2001年に釈放された。

 ドナルド・マッケイの遺体のありかを吐かせようとあの手この手がとられたが、バズリーは一貫して口を閉ざし、そのまま2018年にごく普通に死んだ。

2. ジョルジ・アヤラ


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 ジョルジ・アヤラは、1980年代に、コロンビア出身のマイアミのコカイン女王、グリセルダ・ブランコ殺し屋と言われている。ゴッドマザーとしても知られるブランコはアヤラを雇い、少なくとも
35人を殺させたと言われている。

 1993年、アヤラは逮捕され、3件の殺人に対する罪で有罪となって、終身刑を言い渡された。アヤラはブランコ逮捕後の検察側の重要な証人だったが、3人の女性たちとのテレホンセックスに関わって捕まったため、彼の証言には汚点がついた。

 アヤラは、この件は州検事に勧められて、それに従ったまでだと主張したが、彼の証言は使われず、ブランコはかなり減刑された判決を受け、コロンビアへ強制送還された。

 しかし、故郷に戻るなり、ブランコは通りで銃殺された。アヤラは今年、仮釈放を受けられるはずだが、現在もまだ収監中だ。許可されれば、彼もまたコロンビアに送り返されることになりそうだ。

1. リチャード・ククリンスキー(アメリカ)


Richard Kuklinski - BEST PARTS

 アイスマンとしても知られるリチャード・ククリンスキーは、マフィア史上もっとも多くを殺めた殺し屋と呼ばれている。犠牲者の数は、300人以上とも言われている。

 ほかの殺し屋と違って、ククリンスキーはこの仕事を楽しんでいた。まさに趣味と実益を兼ねていたといっていい。

 初めて殺人を犯したのは14歳のとき。地元のいじめっ子を撲殺した。18歳のときに初めて、ニュージャージー州のファミリーから殺しの仕事を請け負い、そのキャリアが始まった。

 仕事の依頼がないときも、彼は殺す相手を探し、シアン化物をスプレー式点鼻薬に入れたりと、殺し方もいろいろ工夫した。ギャンビーノ・ファミリーのところで働いていたときには、"デビル"というあだ名をつけられていた。

 自分の雇い主と親しくつきあうことはなく、ニュージャージーマフィアと関わっていた連中につけられていた多くの監視を免れることができた。

 マフィアのメンバーの密告で捕まったとき、殺しの依頼を請け負うときに、盗聴器を装着することに同意した。1986年に逮捕され、数件の殺人で有罪になって、終身刑を宣告された。

 有罪になってから、多くの尋問を受け、4万ドルで労働組合指導者のジミー・ホッファ殺しを請け負ったことを明かした。さらに、1980年の警官殺しを含め、100人以上を殺したと自白した。

 ククリンスキーは、2006年に70歳で死んだ。ククリンスキーがある元マフィアに不利な証言をしようとしていたので殺されたといわれたが、最終的には自然死とされている。

written by konohazuku / edited by parumo

全文をカラパイアで読む:
http://karapaia.com/archives/52277105.html
 

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