2019年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。社会部門の第1位は、こちら!(初公開日 2019年6月1日)。

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 死刑執行1人、死刑確定4人、一審死刑判決1人、無期懲役確定2人、懲役30年確定1人、自殺1人。10人の連続殺人犯との対話をまとめた『連続殺人犯』(文春文庫)に取り上げられた殺人犯の現在の境遇だ。

 2002年3月に発覚し、詳細が報道されるにつれ日本中を凍りつかせた「松永 太 北九州監禁連続殺人事件」を全文掲載。

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福岡県北九州市の松永太(40)による史上稀に見る凶悪犯罪。内縁の妻、緒方純子(40)と共に被害者を監禁したうえマインドコントロール下に置き、自らは手を下さずに殺し合いをさせていた。2002年、監禁されていた広田清美さん(仮名・17)の脱走により発覚。清美さんの父、由紀夫さん(仮名・34)、純子の両親である誉さん(61)と静美さん(58)、妹の理恵子さん(33)とその夫の主也さん(38)、二人の子供の彩ちゃん(10)と優貴くん(5)の計7人が殺害されていた。

福岡拘置所に居た明るく晴れやかな“連続殺人犯

「いやーっ、先生、わざわざ私のために東京から来ていただき、ありがとうございます。先生、いま私を取り巻く状況は、本当にひどい話ばかりなんですよ。とにかく聞いてください……」

 2008年11月、福岡拘置所。稀代(きたい)の凶悪殺人犯は、上下グレーのスウェットスーツを着て面会室に現れた。明るく晴れやかな表情で私の前に座ると同時に、堰を切ったように喋り始めた。

「もう私の裁判はね、司法の暴走ですよ。私自身、なにも身に覚えのないことなのにね、私ひとりに罪を被せようとする陰謀が、あらかじめ出来上がっているんです。ほんと、裁判所という機関は、いまではもうほとんど、事実を発見する仕組みが機能しなくなっていると思います。感情的にならず、冷静に判断することをよしとされる裁判官が、マスコミや一部の作家のアジ(テーション)に乗っかった意味不明の判断を次々に実行しているんです。いわゆる魔女裁判のように裁こうとしているんです」

 陽に当たらず地下で栽培されたウドを想像させる、漂白されたかの如き白い肌。歌舞伎役者のように整った顔立ち。だが、その見開いた黒目の奥には感情を窺えない闇が宿る。私はメモを取る手を止め、しばし彼の表情に目をやった。

 なんなのだろう、この饒舌な語りは。なんなのだろう、この罪悪感のなさは。

 事件発覚直後から現場での取材を重ね、凶悪な犯行内容を知っている私のなかに、違和感ばかりが募る。自らの潔白と司法への不満を息もつかずに訴え、その合間に笑みを浮かべて私を持ち上げ媚を売る。そんな男を目の前にして、ひとつの確信が生まれていた。

 悪魔とは、意外とこんなふうに屈託のない存在なのかもしれない、と。

7人が殺害された「北九州監禁連続殺人事件」

 男の名は松永太(ふとし)。面会時は47歳。福岡県北九州市1996年2月から98年6月にかけて、7人が殺害された「北九州監禁連続殺人事件」の主犯である。

 2002年3月、松永と内縁の妻である緒方純子に監禁されていた17歳の少女が、同市内の祖父母宅へと逃走したことで犯行が発覚。逮捕された松永は、7人全員に対する殺人(うち1件は傷害致死)などの罪に問われて一審、二審ともに死刑判決を受けた。私が面会したときは、最高裁に上告中であった。

 一方、共犯者として松永と共に逮捕された純子は、一審で死刑判決を受けるも、二審では松永の強い影響下にあった、との理由で無期懲役へと減刑されていた。

 ちなみに被害者7人のうち6人が、純子の両親や妹を含む親族だ。原則4人以上の殺人は死刑という「永山基準」に当てはまる事件の被告人でありながらも、松永による精神的な支配下での犯行であったことが思料された。

 さらに付け加えれば、後の最高裁でもこの高裁判決は支持され、2011年12月に彼女の無期懲役が確定する(同時に松永の死刑も確定)。つまり松永による抑圧は、それほどに苛烈なものだったのである。

 この裁判を取材した司法記者に会ったとき、彼は松永が純子を支配した構図について、次のように話した。

「松永は間違いなくDV常習者。長期にわたり純子に対して殴る蹴る、さらには通電の虐待を繰り返してきた。だけど純子はDV被害者特有の心理で、暴力の原因は自分にあると思い込んでしまった」

 通電とは電気コードの先に金属製のクリップをつけた器具を躰に装着して、100ボルトの電流を流す虐待方法だ。松永は純子に通電を繰り返し、彼女の右足の小指と薬指は火傷でただれ、癒着するほど痛めつけられていた。記者は続ける。

「純子は二度、松永の許を逃げ出そうとしたが、連れ戻されてより激しい通電虐待を受けた。もう逃げられないという諦めと、通電の恐怖を心に植え付けられた彼女は、松永の要求を拒むことができない心理状態に置かれてしまった」

 かくして、純子は松永の主導の下、自分の身内を巻き込んだ大量殺人の共犯者となっていく。

 もっとも、二人が逮捕された直後は、これほどまでに被害者が多く、かつ凶悪な犯行であることは、捜査関係者を含めて誰も想像していなかった。だからこそ、偶然網にかかった鮫の腹を割いたところ、そこから無数の骸(むくろ)が出てきたような、予期せぬおぞましさを感じさせることになったのだ。

あらゆるドアに7、8個の南京錠をかけてある異様な光景

「2DKの部屋に入った捜査員全員が愕然とした。生まれて初めて霊感のようなものを実感したよ。本当に恐ろしかったんだ。部屋に入ってまず感じたのは、明らかに人間の血の臭いだった。部屋の片隅には消臭剤が大量に積まれていて、血の臭いを消すためだとすぐに想像がついた。風呂場やトイレ、部屋など、あらゆるドアに7、8個の南京錠がかけてあって、窓には全部つっかえ棒が釘打ちされていた。それはもう、なにもかも異様な光景だった」

 これは、7人が殺害された三萩野マンション(仮名・北九州市小倉北区)に、家宅捜索で初めて足を踏み入れた状況について回想する捜査員の言葉だ。

 2002年3月、監禁から逃走した少女・広田清美さん(仮名)は、捜査員に対して父親が殺されたことを訴えた。さらに「とにかく部屋を見てほしい」と繰り返した。そこで半信半疑の思いで家宅捜索をした捜査員の目に飛び込んできたのが、先の証言にある、手練れの刑事をも戦慄させた“殺人部屋”の痕跡だった。

 1996年から1998年にかけ7人が殺されたこの部屋で、最初の犠牲者となったのは、清美さんの父親・広田由紀夫さん(仮名・当時34)である。

 北九州市で不動産会社に勤めていた由紀夫さんは、客の知人として知り合った松永に社内での不正行為などの弱みを握られて勤務先を退職。娘の清美さんとともに、三萩野マンションでの同居を強要された。

 そこで松永による、殴る蹴るの暴力や通電が繰り返されることになる。さらに由紀夫さんには1日1食の食事制限も加えられ、徐々に衰弱していった。1996年2月、彼は閉じ込められた浴室内であぐらをかいたまま上半身を倒し、脱糞している状態で見つかった。当時11歳の清美さんが掃除をしている目の前で、由紀夫さんは息絶えたのだった。

 純子から報告を受けた松永は、『ザ・殺人術』という本を参考に、遺体をバラバラにすることを決め、純子と清美さんの2人に命じて、遺体を浴室で解体・処分させた。

 その次に、この部屋で松永が暴虐の限りを尽くしたのが、純子の親族・緒方家の人々である。それまでは福岡県久留米市にある純子の実家で、実直に暮らしていた3世代家族の6人は、松永の謀略にかかり、1997年4月頃からこの部屋で軟禁状態にされた。

 殺害されたのは純子の両親である誉(たかしげ)さん(当時61)と静美さん(当時58)、妹の理恵子さん(当時33)とその夫の主也(かずや)さん(当時38)、さらに2人の子供である彩ちゃん(当時10)と優貴くん(当時5)である。

 その悪辣な手口をすべて紹介するには紙幅が足りない。時期とおおよその殺害状況のみを記しておく。

1997年12月 誉さん殺害

 心臓部への通電によるショック死。誉さんの反抗的な発言に怒った松永の指示により、家族の前で純子が通電したところ、座ったまま前のめりに倒れた。死亡したことが確認されると、松永の誘導で遺体は純子と静美さん、理恵子さん夫婦と彩ちゃんの5人で解体することになった。

1998年1月 静美さん殺害

 誉さんの死後、松永は静美さんへの通電を集中。精神に異常をきたした彼女は奇声を上げ、食事を拒絶するようになったため、浴室に閉じ込められた。松永の指示で主也さんが電気コードで首を絞め、理恵子さんが足を押さえて殺害。遺体は純子と理恵子さん夫婦、彩ちゃんの4人で解体した。

1998年2月 理恵子さん殺害

 静美さんの死後、松永による顔面への通電など、衝撃の強い虐待が集中する。彼女もまた奇声を上げるようになり、松永から殺害を示唆された純子と主也さんが話し合い、主也さんが電気コードで首を絞め、彩ちゃんが足を押さえて殺害。遺体は純子と主也さん、彩ちゃんの3人で解体した。主也さんは「とうとう自分の嫁さんまで殺してしまった」とすすり泣いた

1998年4月 主也さん殺害

 元警察官の主也さんの体力を奪うために、松永が食事を制限し、通電を繰り返したところ、やがて衰弱して水も受け付けなくなった。浴室に閉じ込められ、痩せ細った主也さんに、松永が眠気覚まし剤と500ミリリットルビールを飲ませたところ、1時間後に死亡。遺体は純子と彩ちゃんの2人で解体した。

1998年5月 優貴くん殺害

 主也さんの死後、松永が「大人になったら復讐するかもしれない」と純子に殺害を指示。その上で松永は「優貴はお母さんに懐いていたから、お母さんのところに返してやったら」と遠回しに彩ちゃんに殺害を了承させる。そして純子と彩ちゃんが電気コードで首を絞め、清美さんが足を押さえて殺害した。遺体は純子と彩ちゃんの2人で解体した。

1998年6月 彩ちゃん殺害

 優貴くんの死後、松永は彩ちゃんへの通電を集中させた。これまでの食事制限もあり、2歳児のおむつが穿けるほどに痩せ、衰弱した彩ちゃんを松永が説得。逆らうことのできない彩ちゃんは、優貴くんが殺害された場所に自ら横たわり目を瞑った。純子と清美さんが首に巻き付けた電気コードで絞殺。遺体は純子と清美さんの2人で解体した。

 このように緒方家については、およそ月に1人のペースで殺人が繰り返された。松永は主犯であるにもかかわらず、自分の手は一切汚さずに、7人もの命を奪ったのである。

「あの階からギーコ、ギーコってノコギリを挽く音がするんよ」

 だが、拘置所で面会した私に向かって彼は嘯(うそぶ)く。

「いまさら嘘はつきません。私は殺人等の指示はしておりません。私を誹謗する報道ばかりですが、小野さんは違った角度からこの事件を見てください。それは、松永は無実であるという視座からです。それが事実なんです」

 大きな目でこちらを射抜くように直視して言い切る姿は、確信に満ちていた。嘘をついていることへの後ろめたさや、信じてくださいとすがりつく卑屈さといった、ある意味で人間的ともいえる湿り気は、まったく含まれていない。人間に酷似したヒューマノイドロボットをテレビで見たときのような、目の前にある存在はたしかに人間の姿かたちをしているのだが、そこに魂の存在が感じられないという経験だった。

 もっとも、彼が自己の無実を強弁する背景もわからないではない。犯行の段階で松永は、遺体の解体や処分の方法について細かく指示を出し、彼なりに“足がつかない”ように工夫していたからだ。当時の福岡県警担当記者は説明する。

「遺体は包丁やノコギリを使って、細かく切り分けられてから鍋で煮こまれました。そうして肉と骨を分離させ、肉はミキサーでさらに細かくしてからペットボトルに入れ、近くの公衆便所などに捨てています。骨は細かく砕いて缶に入れ、大分県山口県を結ぶ旅客船などから海に投棄したそうです。解体場所となった浴室は、松永の指示で念入りに掃除されており、誉さんには台所の配管の交換を、主也さんには浴室のタイル交換をさせていました」

 こうして7人の遺体の痕跡は完全に消されたのだ。まさに“遺体なき殺人事件”だった。当然ながら、遺体から殺害方法を割り出すことはできず、あくまでも関係者の証言を含めた状況証拠を収集して、殺人を立証するほかない厄介な案件である。

 事件発覚後すぐに北九州市へ飛び、現場で取材を始めた私は、三萩野マンションの複数の住人から話を聞いた。そのときに印象に残っている言葉がある。

「深夜にね、あの階からギーコ、ギーコってノコギリを挽く音がするんよ。それが何日も続き、しばらく間が空いては繰り返されよった。もう、なんの音なんやろうかっち思いよったね」

 また別の住人はこんなことも口にしていた。

「夏とかにすごい異臭がしよったんよ。もう、レバーを煮たような、なんとも言いようのない臭い。とくにあの階から臭いよった。それでね、廊下や階段の踊り場に人間の小便や大便がされとったこともある。足跡があの部屋に続いとったことがあるけ、別の階の人が注意したんやけど、中年の女が出てきて子供の頭を叩き、『あんたがやったん?』って怒りよった。いまから思えば、臭いをごまかすためやったかもしれんね」

 それはまさに、遺体を消し去る作業を実行する音であり臭いだったのだ。取材で入ってきた捜査情報とこれらの証言が結びついたとき、酸鼻をきわめた現場での様子を想像し、戦慄を覚えずにはいられなかった。

なぜ、被害者は逃げずに犯行に加わってしまったのか

 さらに2002年6月から2005年9月までに77回開かれた一審の公判で、事件の詳細が明らかにされると、そのあまりに悪辣な犯行内容に唖然とさせられた。実際、旧知の地元テレビ局の報道担当幹部は次のように嘆息していた。

「こんなこと言うと被害者に申し訳ないけど、この事件はテレビ向きじゃない。あまりにも犯行内容が残酷なんで、映像にできないんですよ。だから経過だけを粛々と報じるしかない」

 松永が主導した事件の残忍なところは、殺害現場に親族を立ち会わせる、あるいは親族に手をかけさせるという点だ。さらにはその遺体を子供を含めた親族に解体させ、処分まで担わせている。

 松永は助言という体で命令を下し、逆らうことのできない相手に殺害や遺体処理を実行させた。さらに「自分たちで考えろ」と示唆することによって、相手が忖度して自発的に行動するように持ち込んでいた。

 当時、この事件に携わる誰もが疑問に感じていたことがある。

 なぜ、被害者は逃げられなかったのか。なぜ、自ら犯行に加わってしまったのか、ということだ。

 あの場にいて、唯一生き残った清美さんは後にこう証言している。

「(松永と緒方家の関係は)王様と奴隷でした」

 つまり、まったく抗うことができなかったのである。このような状況を生み出したのは、松永が周囲の者を精神的に支配するための段階を踏んでいたからだ。

 そのほとんどは、まず甘言で近づき、信用した相手から不満を聞き出し、そそのかして外の世界と繋がる勤務先などの集団から離脱させる。続いて自らの手元に置き、不信の元となる情報を囁いて親子や夫婦、姉妹といった絆を断ち切る。そして子供を人質にしたり、犯行に加担した弱みを握ることで逃げられなくする。さらに互いの監視を命じて常に1人の生贄を作り、その生贄に浴びせた苛烈な暴力によって、皆に「次は自分かもしれない」との恐怖心を叩きこむというものだ。

 なにゆえ、このような悪魔の所業を思いつき、実行に移すことができたのか。それを知るには、松永太という男の足跡を辿る必要があった。

面会してからすぐに自宅に届いた、松永からの手紙

 松永太と福岡拘置所で面会してからすぐに、彼からの封書が自宅に届いた。

 中身は3枚の便箋。黒字のボールペンを使い、神経質な印象の細かい字で書かれた手紙には、マスコミの報道や有識者による見解を恣意的として批判する言葉が並んでいた。そのうえで客観的に証拠を見てほしいということが、繰り返し書かれていた。

 また、松永はとある作家の名前を挙げ、同人は勝手な想像をふりまわしているだけだと断じ、私に対してそのような作家に“なり下がらないように”との注意も書き添えていた。

 それ以降にやりとりした手紙もほぼ同じ論調だった。私(松永)は事実しか話していない。だから証拠を純粋な目で見て貰えば、無実だと分かるはず、というものだ。

 拘置所のアクリル板越しに対面した松永は、私について当初は「先生」と呼び、続いて「小野さん」となり、さらには「一光さん」と変遷することで、親近感を演出しようとした。加えて、さも真実を語っているという声色で強調する。

「一光さん、神に誓って私は殺人の指示などはしていません。それらについては、控訴審での私の陳述書を読まれても、分かってもらえると思います。一光さんを信用していいのか不明ですが、私は小野一光という人は信用できると思ってこの話をしています。だからこそ、私が殺人の指示などしていないことを信じてもらいたいのです」

 松永がそのように主張する理由はすぐに理解できた。なにしろ彼は殺人を実行していないのだ。おまけに、そう命じたことが録音で残されているわけでもない。つまり客観証拠がないから無実だと言いたいのである。事実、その点に注意を払って犯行を重ねてきたのだろう。

 しかし、事件当時に子供だった広田清美さんの供述だけでなく、成人の緒方純子までが、当初の黙秘から自身の死刑判決を覚悟した全面自供に転じたことで、状況証拠の信用性が格段に上がったことは、松永にとって計算違いだった。

 いくら“遺体なき殺人事件”とはいえ、1994年に発覚した「埼玉愛犬家連続殺人事件」を持ち出すまでもなく、状況証拠の積み重ねで有罪となった例はいくつもあるのだ。

 捜査員は次のような言葉を口にしている。

「なによりも緒方が自供したことが大きかった。それに尽きる。我々の誰もが、卑劣な松永を絶対に許さないとの執念で、捜査を続けてきたからね。その思いがやっと実を結んだということに、万感の思いがあった」

 犯罪捜査のプロにここまで言わせる凶悪犯の原点は、松永家の実家がある福岡県柳川市にあった。

「頭も顔も良かったけど、みんなからは好かれとらんやった」

 松永は1961年4月、福岡県北九州市で畳店を経営する両親のもと、長男として生まれた。上に姉が1人いる2人姉弟だった。やがて彼が7歳のとき、祖父が柳川市の実家で営んでいた布団販売業を父親が継ぐことになり、同市に家族で移り住んだ。

 地元の公立小学校から公立中学校へと進んだ松永は、当時から自分よりも弱い存在に対してのみ、横暴な態度を取る子供だった。小・中学校時代の松永の同級生は、「いい印象がない」と前置きして語る。

「体格の良かった松永は、中学時代はバレー部に入り、わりと頭も顔も良かったけど、みんなからは好かれとらんやった。というのも、自分より強い奴にはなんも言えんくせに、弱い相手ばかりにイジメば繰り返しよったから。よく、背の低い同級生に『早く飲んで見せろや』と言って、無理やり牛乳ば飲ませよった」

 この証言者によれば、後に松永の起こした事件が明らかになったとき、同級生同士で「あん奴はしかねんやろ(あいつならやりかねない)」との会話が交わされたのだという。

 中学卒業後、松永は久留米市(当時は三潴(みづま)郡)にある公立高校に進学した。同学年には後に共犯者となる緒方純子も通っていたが、軟派な松永と真面目な純子との間に接点は見られない。高校に入った松永は、持ち前の甘いルックスと不良っぽい言動が受けて、急激にモテるようになった。小学校から同級生だった谷口康治さん(仮名)は、高校時代にそんな松永の家によく遊びに行っていた。谷口さんは当時を振り返る。

「あいつは本当に口が達者やったと。女の子にはマメに連絡を取るし、家に連れて来るまでのアプローチが上手いったい。それで同級生やら年下の女の子を部屋に連れ込んでは、見境なくコマしよった」

 両親があまり干渉しない松永の実家は、女性を連れ込んでも注意されないため、友人たちのたまり場になっていた。そこで谷口さんは、次のようなことを松永に話した記憶があるという。

「あの当時、俺がよくいきがって『女を人と思っちゃいけん。女をカネづると思わな』って言いよったけんがくさ、その影響ばモロに受けて、松永は女に飯代ば払わせることにプライド賭けとったね。あと、あいつは極端にキレイな女の子には行かんったい。それよりはあんまりモテんで、自分に簡単になびくような子にばっか声をかけよった」

高校2年のときに、家出した女子中学生を家に泊め退学処分

 そんな松永は高校2年のときに、家出した女子中学生を家に泊めたことから、不純異性交遊の咎で退学処分となり、久留米市の私立高校に編入した。その高校では自分が暴力団組員と繋がりがあるかのように装い、「俺に手を出すと酷い目に遭う」と口にして、同級生に信じ込ませていた。

 1980年に高校を卒業した松永は、福岡市内の菓子店や親類の布団販売店などを転々とした。とはいえ周囲からは、「なんもしよらんように見えた」との声が上がるほど、不真面目な働きぶりだったようだ。

 じつは同年の夏、松永と純子との間に、初めて互いを意識する関係が生まれていた。その事情を知る元福岡県警担当記者は語る。

「松永がほとんど面識のなかった純子に電話をかけ、外で会ったというのが2人の馴れ初めです。でも、それは松永がたまたま、自分が退学になった高校の卒業アルバムを見て、当時交際中の女性と同じ『ジュンコ』という名前なので、ふざけて電話したというのが真相です」

 もしここで松永の気まぐれがなければ、純子は犯罪者にならず、親族の6人は死なずに済んでいたはずだ。だが、運命はこんな些細なことで狂わされてしまう。

 この記者によれば、件(くだん)の電話で当時短大生だった純子と1度は会うが、次に松永が電話をかけて彼女をふたたび誘うのは、それから約1年後のこと。ただ、再会時の松永は、高校時代に培った“スケコマシ”の技を発揮したという。会社を経営して成功していることや、音楽の才能を認められていることなど、学生の純子の前で大風呂敷を広げ、好印象を残した。

 1981年に松永は別の「ジュンコ」と結婚するが、翌1982年に純子が勤務先の幼稚園で巻き込まれたトラブルの相談を松永にしたことで、男女の関係を結ぶ。妊娠中の妻のいる松永との不倫交際の始まりだった。

 当時、ろくに仕事をしていなかった松永は、事業の世界に乗り出した。1981年5月に父親の会社を引き継ぐことになり、翌1982年には、柳川市に布団訪問販売会社『ワールド』を興したのだ。

 この家業引き継ぎの経緯を含め、松永と両親との関係について、松永家および親族は取材を完全に拒否しているため、窺い知ることができない。ただ、松永は1985年に祖父や実父の反対を押し切って約5千万円を銀行から借り、実家があった場所に3階建ての自宅兼事務所を新築。さらに1988年にはそこで同居していた両親を自宅から追い出している。

ワールド』時代の松永の行状こそが、後の犯行に重なる、詐欺と暴力にまみれた世界だったことは、紛れもない事実である。

「世間知らず、お人好し、言うことをきく人間を探し出せ」

 “生け捕り部屋”と呼ばれる平屋建ての木造小屋が『ワールド』の敷地内にあった。

 20歳の松永が布団販売会社を引き継ぎ、自分の布団“訪問”販売会社とした途端に、営業方針は激変した。高校の同級生のうち、自分の意のままに操れる2人を側近の幹部社員に据え、「お前らの友だちに『会社が倒産しそうなんで助けてくれ』と頼み込み、土下座してでも布団を売れ」と仕事を強要したのだ。

 松永が押しつけた“泣き落とし商法”では、原価数万円の布団を、S(シングル)25万円、W(ダブル)30万円という法外な値段で販売した。同時に、幹部の彼らがさらに同級生へ声をかけ、従業員集めをするようにも命じた。その際、松永は次のような檄を飛ばしている。

「世間知らず、お人好し、それである程度言うことをきく人間を探し出せ」

 そこで実行された従業員の獲得手段は、まさに“生け捕り”といえるものだった。

 元同級生の幹部社員や従業員から強引に契約させられた結果、高額の支払いに窮した者は、従業員として無給で働くことを迫られる。また、そこで保証人になった者も同じで、代金を肩代わりできない場合は働かされた。さらには、布団の購入が無理なら販売を手伝って欲しいと頼まれ、それくらいならと了承したところ、社名入り名刺を作られるなどの既成事実を口実に脅され、従業員にさせられた者もいた。

 そのようにして確保された住み込みの従業員たちが寝泊まりしていたのが“生け捕り部屋”なのだ。

 従業員たちは残飯のような食事しか与えられず、命令に従わないと殴る蹴るの暴行を受けた。さらに逃走を防ぐために相互監視を命じられ、従業員どうしの密告が横行していた。まさにその後、北九州市の三萩野マンションで実行された虐待のひな形が、柳川市の『ワールド』内で萌芽していたのである。

 前出の記者によれば、この時期に後の松永の人格を形成する、3つの大きな要素があったという。

「まず1つ目は松永の親戚である義男さん(仮名)の存在です。彼は20年以上前に内臓疾患で亡くなっているのですが、松永家や『ワールド』にも出入りしていました。義男さんは結婚詐欺や手形詐欺など、詐欺についての知識が豊富で、松永は彼の影響を受けています。その結果、松永は従業員に名義貸しや、架空人名義での信販契約を締結する詐欺行為を強要するようになったのです」

 松永は違法行為を恐れる従業員に向かって、「犯罪を犯しても自白しなければいい。物証さえ残さなければ大丈夫だ」との持論を展開していた。

「2つ目は栗原物産(仮名)という、暴力団フロント企業との親密な関係です。この会社の人間が松永家によく顔を出していて、松永も個人的に連絡を取っていました。彼は自分が暴力団と繋がりがあるように振る舞うことで、周囲に恐怖心を抱かせることができることを実感しました」

 そのため『ワールド』の従業員のみならず、緒方家やその他の“獲物”に対しても、自分は暴力団と繋がりが深いと吹聴。さらには、「知り合いの暴力団員に頼めば、どこに逃げても見つけ出せる」と脅すことで、逃走を諦めさせていた。

「そして3つ目は父親の布団販売会社を継いだということです。人に使われるのではなく自分の会社を持ったことで、松永は自由に動くことができました。そこで詐欺の方法や人を恐怖で支配する方法を体験したことは、松永にとって後の犯行のための蓄積になっています」

 たしかに、松永にとってこの『ワールド』時代の経験は、ある種の“実験場”だったと思えてならない。後に被害者たちを恐怖で支配するため頻繁に使った通電による虐待も、ここで生まれている。

“生け捕り”され、100回以上通電された被害者の記憶

 松永と純子が一審で裁かれている時期に、私は『ワールド』の元従業員を取材した。

 彼、生野秀樹さん(仮名)は、1984年秋に友人から頼まれて『ワールド』の名義貸契約に応じたところ、従業員を探していた松永から因縁をつけられて“生け捕り”にされた。

「布団販売の数字が悪いと、松永から拳や電話帳で顔を殴られたり、木刀で腕を殴られたりしました。そんな生活が半年くらい続いた1985年春、私を会社に引き込んだ男から、剥き出しにした電気コードで腕に通電されたんです。そいつは工業高校を出ていて、電気の知識があったんですけど、ショックで倒れた私を見て、目の前の松永が笑いながら、『それ、いける』と……。以来、従業員を使って、人体にどんな影響があるかの実験が繰り返されました」

 当時、新築したばかりの『ワールド』社屋の3階には、防音設備が施されたオーディオルームがあり、そこが“通電部屋”となった。

「私は過去に100回以上、松永の指示で通電されましたが、あいつはどうすれば相手が死なないか、傷が残らないかを研究していたのです。片腕と片足に電流を流された時は、『心臓がバクバクするか?』と聞かれました。腕や足に傷が残った時は、『こりゃ改良せないかん』などと言ってました。あと、手や足だけでなく、額や局部にも通電されました。額はいきなりガーンと殴られるようなショックがありました。局部はもう、言葉に表せません。蹴られる以上の衝撃と痛みでした。それを松永はニヤニヤ嬉しそうに眺めていました」

 通電は従業員への罰として連日行われ、なにか気に食わないことがあると、松永は「電気!」と声を上げ、すぐに通電器具が用意された。

 取材を終え、生野さんに通電された痕を見せてもらった私は息を呑んだ。肘から先と、膝から下、そのすべてに幅一センチほどの縄を巻いたような、ケロイド状の火傷痕が残っていた。しかし生野さんは事もなげに口にする。

「手なら手でね、手首と肘の二箇所に剥き出しの電線を巻いて、電気を流されるわけですよ。そうすると電線が熱を持つでしょ。だから火傷してしまうんです。ただ、こっちのほうが額や局部よりは楽でした」

 この原稿を書くにあたり、私は改めて生野さんの許を訪ねた。前の取材から10年以上が経過していた。

「あれから時間が経ちましたけど、ずっと人を信じることができないんです。気づけば相手を疑う感情が出てしまう。そのため、松永の許を逃げ出してからも、職場の上司を信じられず、職を幾つも変わりました」

 そう語る生野さんの両手足には、ケロイド状の火傷痕が生々しく残る。

「松永に対する恐怖はいまもあります。死刑が確定しましたけど、それでもまだ安心できない。再審請求を続行しているし、あの男のことだから、いつか出てくるんじゃないかとの思いがある。いまだに当時の恐怖がふとしたときに蘇り、声を上げそうになります」

 彼はつとめて冷静な口調で言った。

「たぶん会ったら殺してしまうと思います」

 その重い言葉を聞き、松永の被害に遭った者の心の傷を直に突きつけられたような気がした私は、ただ頷くことしかできなかった。

後編〈通電、監禁、肉体関係……連続殺人犯はこうして女性を洗脳して“獲物”に仕立て上げた〉に続く

2019年上半期 社会部門 BEST5

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https://bunshun.jp/articles/-/13306

5位:テキーラで泥酔させられた女性と……性犯罪で不可解な無罪判決が相次ぐのはなぜか
https://bunshun.jp/articles/-/13305

(小野 一光)

監禁・連続殺人事件の判決公判。死刑判決後、福岡地裁小倉支部を出る被告を乗せた車(北九州市小倉北区) ©時事通信社